共産主義者同盟(火花)

イラク情勢について(7)

渋谷 一三
284号(2005年4月)所収


1. 石油利権戦略はすでに米国にとって成功している。

 70年代の石油ショックは、原油価格決定権をついにOPECが米英から奪ったことに端を発した。その後80年代を通して米国は原油価格決定権を奪い返そうと試み、ニューヨーク証券取引所に原油先物取引コーナーを設置した。先物市場の操作を通じてOPECの価格決定を将来の名において冠をかぶせようとしたのである。が、上限を予め設定してしまうという戦略はOPECの動きを予測するという範疇を出るものとはならず、米石油資本の目論見は失敗し続けた。
 ところが、04年9月、米国のハリケーンによる被害による石油価格の上昇という形式をとって、遂に米国の良質の原油を産出するWTI(西部テキサス精製)の原油価格が世界相場を形成することとなった。原油価格は高値で1バレル40ドルであったのが、1バレル55ドルという高値を形成することに成功したのである。
 これをヘッジファンドのせいにする意図的キャンペーンがあるが、そうではない。
ヘッジファンドが成立したこと自体が米帝の「グローバル」化戦略の産物である。すなわち、資本の国際移動に関する規制や「障壁」を撤廃させたことによって国境を自由に瞬時に超える資金が集まることが可能になったのである。ヘッジファンドの成立そのものが「グローバル」化の産物なのである。
また、WTIの原油価格を高騰させたのは現象的にはヘッジファンドであるが、先物取引所をつくり原油価格決定権を取り戻そうと努力してきたのは米帝なのである。さらに、アフガンにおける石油利権をほぼブッシュ一族が握り、世界2位の産油量をもっていたイラクの石油利権を米国が握ったことが背景にあって初めてヘッジファンドが投機に成功できるのである。それまで10数年にわたって「努力」してきて成功しなかったことが成功したのは、イラクの石油利権を奪ったことによりOPECを弱体化させたことが決定的要因なのである。今やOPECの原油価格決定権は第一の産出国で「親米」派のサウジアラビアが持つのみなのだ。
第2次イラク侵略戦争が始まった時に抽象的に石油利権のためではないかと語られた中身がここにきてはっきりと見えてきた。尤も米帝には初めからはっきりと見えていたのだが。

2. 原油高に味をしめたOPEC

 04年9月の米国での原油高を受けてOPECは即座に100万バレル増産を決めた。「原油高が世界経済の減速を招き、結果として石油販売総量が減り収入が減る」という理屈を信じ込まされていたからである。だが、半年にわたって原油価格の高止まりが続いても需要は落ち込まず、先の理屈が通らないという現実を目の当たりにしたからである。
 原油を減産することで資源を長持ちさせることが出来る上に、産油国の収入も増大したのだから、当然のことながらOPECは原油高を維持するための減産を維持することを30日決定した。
 結果から見えてきた真実は、OPECが組織として石油メジャーに対抗して原油高を追求したことに対し、米国石油メジャーは米国内における増産を梃子に1バレル22ドル前後の価格維持をし、OPECの目論見を打ち砕くことに腐心してきたということになる。OPECに原油価格決定権を渡さないというメジャーの苦節20年の「戦い」が、アフガン・イラク侵攻の勝利によってやっと実現したということになる。
 尤も、こうした主観的意図だけで原油価格が決まってきたわけではないが、メジャーの主観的意図が一貫していたことは間違いない。OPECは42ドルをこす高値止まりを歓迎しているのである。OPECもまた一貫して原油の高値を追求してきたのである。
 原油高は当面続くことになる。中国の需要が増えてきていることも原油高を維持させる要因の一つになっている。原油の減産が続くことは、環境問題には良いことである。原油高から経済危機を説き悲観的シナリオを描いて見せる民族主義者の恣意的「分析」が横行するだろうが、原油高は米国の双子の赤字の目減りに少しだけ貢献する程度で、基本的に利益を享受するのは、米国の意に反してOPEC諸国となるだろう。米国が利益を享受するのではなく、石油メジャーとブッシュ一族が利益を享受するだけのことである。したがって、「復活した」石油メジャーとOPEC諸国との闘争が激化し、その闘争の局面局面によって原油価格が上下するという時代がしばらく続くことになる。
 このことがもたらす影響については、しばらく様子をみることにする。仮に「OPEC vs MAJOR」構造が労働者階級に与える影響について、などと大上段に構えてみても仕方が無い。労働者階級は、そのようなことで運動が左右されるほど瑣末な歴史的事業をしようとしているのではない。

3. 選挙結果

 選挙当日の30日、ブッシュとライスは早々と選挙勝利を発表し、選管は投票率72%などと発表した。あまりに早い「集計」と勝利宣言は、それが予定の行動であることを露呈させてしまっている。
翌々日の2月1日、第二次イラク侵攻以来の米兵の死者が1400人を越え遺族の不満が高まっていることを受け、弔慰金をそれ以前の8倍の10万ドルに増額するとともに生命保険も40万ドルに増額、合計一時金だけで50万ドル(約5000万円)に達することになった。
ベトナム戦争ほどには死者が出ていないことがこうしたことを可能にしている財政的背景であるが、ベトナム戦争が国内の階級闘争を激化させたことを教訓にしていることも間違いない。また、実践配備が可能になった戦闘ロボットの1基あたりの値段が安い機種で1.5万ドルであることから、ロボットへの割安感を醸成する必要があることも、こうした措置をすることの根拠になっている。
2月6日現在、まだ選挙結果は発表されていない。あまりに早い投票率の発表と考え合わせると、今後どのような発表がなされようと、大本営発表であることは間違いない。そこで中間発表ですら糊塗し得なかった点に着目したい。それは、スンニ派がほとんど投票しなかったあるいは出来なかったという事実とシーア派の圧倒的勝利にかかわらず、シーア派強硬派が現暫定傀儡政権の「穏健」派アラウィ派を抑えて第一派閥になったという点である。
スンニ派の投票を組織出来なかった点に関しては、政権の正当性が云々されているが、政権の正当性などというものはもとより初めから無い。普通選挙が戦争によって押し付けられるべき崇高なものならば、親米派のサウジ王朝を打倒することから始めなさいというものだ。いや、もはや有権者数に比例していない米大統領の選挙人選挙を爆撃をもってしてやめさせ、直接選挙にすることから始めなさいというものです。したがって政権の正当性云々はどうでもいいこと。スンニ派を投票行動に組織できなかったという米帝にとっての敗北が歴史的に重要な意義を持つという点に着目しておこう。
シーア派強硬派(=米軍の撤退を求める)が勝利したということは、米が進退窮まり始めたということで、スンニ派に続き、シーア派強硬派までを反米に組織してしまったという米国にとっては皮肉な、世界の人民からすればイラク人民への信頼を深める、素晴らしい結果だったということである。

2月13日選挙結果なるものが公表された。
シーア派の統一イラク連合が約48%、クルド同盟26%、シーア派アラウィ首相派の「イラキヤ・リスト」が14%、スンニ派大統領派の「イラキューン・リスト」が1.8%、その他が10.2%と発表された。また、スンニ派地域の投票率は軒並み低く、ファルージャがあるアンバル州で2%、モスルがあるニネベ州で17%とされている。
にもかかわらず、投票率は58%もあったとされている。
どの程度数字が操作されているかは全くわからないが、議席はこの数字に基づいて配分されることとなる。傀儡のアラウィ派が惨敗していることから、反米感情がスンニ派に留まらず、シーア派にも広く浸透していることが伺える。これは大変に健全なことだ。だが、米国との軋轢はますます高まることが予想される。また、クルド族が議席を多く獲得し、第2党となることから、クルドとイラク人との間の対立感情が増幅される可能性が大きい。
米帝は事態をますます複雑に激化させてしまった。
クルドをトルコ内クルドと一緒にして独立させるというシナリオを描くことのできない反動性が、イラクとクルドの民族対立を激化させるという犯罪的結果をもたらすのである。
イラク人民とクルド人民の苦難は米帝の侵略によってより激しく深いものになってしまった。

2005年2月14日




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