共産主義者同盟(火花)

国籍・民族差別撤廃に向けて

流 広志
282号(2005年2月)所収


 1月30日のイラクの選挙は、予想通り、シーア派の勝利とスンニ派の棄権という結果に終わった。ブッシュのイラク政策を支持してきた『産経』も、さすがにカッコ付き「成功」と記すほかない惨めな結果であった。選挙が、国民の統合ではなく分裂を示したからである。そもそもファルージャ総攻撃は、選挙成功のために、その妨害を狙う「テロリスト」を掃討し、スンニ派住民を選挙参加させることが目的だったはずだ。『読売』『産経』社説はそう書いて攻撃を支持した。しかし、北部のスンニ派地域のある州の投票率2%などさんざんであり、スンニ派系政党の議席はないに等しい。選挙は「内戦」の火種を消せなかった。選挙に対する幻想はアメリカの国益のためにばらまかれたのである。ライス国務長官が自由・民主主義の基準は国益だと述べているように、アメリカ流自由・民主主義は、国益のための政治なのである。日本の民族問題の扱いは、同じことを示している。この問題の歴史的具体的な解決形態を生み出すのは、それとは根本的に異なる国際主義である。それをいくつかの事例を検討して明らかにしたい。

鄭香均さんの国籍条項裁判の最高裁不当判決を弾劾する

 2005年1月26日、最高裁大法廷は、保健師の鄭香均さんの昇任試験の受験を国籍を理由に拒否した東京都の判断を正当と認め、彼女の訴えを退ける判決を下した(2名の反対意見があった)。その理由は、「公権力の行使と国家(公)意思の形成への参画に携わる公務員になるためには日本国籍が必要なのは当然の法理」という1953年の内閣法制局見解を支持する近代国民主義に基づくものである。そして、それに当たらない範囲では、各地方自治体の裁量で、外国籍者を採用することは認められるとしている。判決は、特別永住者の歴史的特殊性を捨象した形式主義的で、あいまいなものである。
 判決を支持する藤田裁判官は、その見解の中で、鄭さんが「日本国で出生・成育し,日本社会で何の問題も無く生活を営んで来た者であり,また,我が国での永住を法律上認められている者であることを考慮するならば,本人が日本国籍を有しないとの一事をもって,地方公務員の管理職に就任する機会をおよそ与えないという措置が,果たしてそれ自体妥当と言えるかどうかには,確かに,疑問が抱かれないではない」と述べ、この問題の具体性・歴史性に向きかけている。しかし、彼は、「入管特例法の定める特別永住者の制度は,それ自体としてはあくまでも,現行出入国管理制度の例外を設け,一定範囲の外国籍の者に,出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)2条の2に定める在留資格を持たずして本邦に在留(永住)することのできる地位を付与する制度であるにとどまり,これらの者の本邦内における就労の可能性についても,上記の結果,法定の各在留資格に伴う制限(入管法19条及び同法別表第1参照)が及ばないこととなるものであるにすぎない。したがって例えば,特別永住者が,法務大臣の就労許可無くして一般に「収入を伴う事業を運営する活動又は報酬を受ける活動」(同法19条)を行うことができるのも,上記の結果生じる法的効果であるにすぎず,法律上,特別永住者に,他の外国籍の者と異なる,日本人に準じた何らかの特別な法的資格が与えられるからではない」と述べ、入り口に立っただけで終わっている。
 彼は、特別永住者を、「あくまでも・・例外」、「・・制度であるにとどまり」、「・・にすぎない」と、消極的に規定している。それは、日本人に準じた特別の法的資格ではないというのである。しかし、朝鮮半島の植民地化、戦後における一方的な国籍剥奪、無権利・差別の歴史、暴露された日韓基本条約での日本の戦争責任回避、等々の歴史を見れば、「在日」に特別の扱いをするのが正当であることは明らかだ。特別永住者の制度により、日韓基本条約以来、日本の対朝鮮半島政策での「南」支持・優遇のために、「在日」の地位に分断をもたらしていた「協定永住」などの細かい区分が消えた。法律上、入管制度上の例外にすぎないというのは形式主義である。たとえ、法形式上そうであっても、内容上は、明らかに、それは、歴史的特殊性を考慮した制度であり、「日本人に準じた特別な法的資格」であり、公的権力の行使・公的意思形成過程への参画を含む日本国籍者と同等の権利付与まで進むべき過渡を示すものである。
 この最高裁判決は、1953年の内閣法制局の「当然の法理」としての国民主義を持ち出した。現在の憲法論議は、根本的議論を行うと口先では言っているが、国民主義を当然の前提として進められている。鄭さんが、最終陳述で述べているように、GHQの憲法草案のpeopleを日本側が国民と訳したことから、日本国憲法が国民主義を基本とする解釈が強められたのである。peopleには人民という意味があるので、鄭さんの言うように人民主義を基本とすることも可能である。現在の自民党の憲法調査会の議論では、憲法前文が無国籍的だとして、国民主義的に変えようという意見が出されている。自民党は先祖帰りして、すでに知っていることを思い出すことを議論と称しているだけなのだ。こんな議論もどきに一部マスコミが飛びついて何か重要なことであるかのよう騒いでいるのは、保守派の宣伝機関を務めているだけのことである。
 この最高裁判決は、特別永住者問題という歴史的特殊性の具体的評価を捨象し、古くさい国民主義を不動の前提として、国籍による差別のない新しい社会への前進を頭から拒否した不当なものである。

(1)櫻井よしこ氏の個人主義・自由主義・エリート主義的支持論

 2004年2月1日「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会(確立協)」(李敬宰会長)設立記念集会が都内で開催された(参加者は、「JANJAN」では200人、ツルネン・マルティ氏の報告では100人、「高槻むくげの会」の報告では150人)。そこで、櫻井よしこ氏が講演を行った。「JANJAN」の記事によると、彼女は、参政権には日本国籍が必要だと述べ、届け出だけで日本国籍がとれる与党がまとめた「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律(案)」を早く通すべきだと述べた。彼女は、「差別があるのは当たり前、乗り越えていく障害は自分を育ててくれる材料である・・・・・・どの国にも差別があります。アメリカは素晴らしいところです。オープンな形は好きです。だからといってあの国に差別がないと思ったらとんでもない。日本の差別よりもっと根深いかもしれない」(同紙)。つまり、差別をなくすことは遠い理想であり努力目標であって、現実には差別はなくならない。日本よりも根深い差別社会であっても、オープンな形のアメリカ型の差別社会の方がいい。差別は、各人が努力してそれを乗り越えていく障害であり、自分を育ててくれる教育の役割をも持っているというのである。差別はあって当たり前なので、個人が強くなって、上にあがって、競争の勝者・強者として支配階級に入ればいいというのだ。彼女は、そうした強者として、サッチャーやライス国務長官のような女性を高く評価している。
 ライス国務長官は、エリートなることで差別から解放されると信じる親によって教育されたが、その結果、彼女は、9・11事件後のアラブ系住民への差別・抑圧・人権侵害にも無関心な冷たい人間になった。公民権運動の一部でこうした傾向が生まれたのだが、今は、こうした負の側面の反省が進められている。
 差別問題についての彼女の基本思想は、ブルジョア自由主義であり、それは、前稿で紹介したパット・ブレアーが右翼フェミニズムの台頭と表した現象の根本にあるものである。個人が絶対化され究極の責任主体とされる。しかし、彼女の描くような個人は、私有制の発展した特定の歴史的社会関係が生み出したものである。江戸時代の農村は連帯責任制だった。
 また彼女は、女性差別との闘いについて、自分が先駆者として後に続く女性の道を開いたと自画自賛しているが、この法制度の女性差別的側面にふれていない。この法と民族名の戸籍記載が容認がされても、夫婦別姓制度がないと、戸籍制度自体が女性差別制度である上に、どちらかの姓を選択できると形式的には平等に法文上はなっているが、実際には、家父長制の社会的慣習制度の力が強いために、男性の姓を選択する場合がほとんどであるような状況では、女性の民族名が消えていく可能性が高いという女性差別が絡んでくるのは明らかである。さらに、すでに批判があるように、問題を理性的に追求すべき人なら当然考えなければならない二重国籍問題にふれないのは不徹底である。
 差別をなくすことではなく、差別社会の中で、個人が強くなるという個人主義・自由主義・エリート主義が彼女の差別観と差別への関わり方を貫いている。彼女は、勇ましい言葉とは裏腹に、現行秩序を保守・絶対化し、それを変えることに消極的である。ただ一握りのエリートが個人として支配階級入りできる機会平等があればいいのである。それは問題のブルジョア自由主義的解決ではあるが、こんな多くの人にとって夢も希望もない解決は本当の解決ではない。彼女のような保守思想が空想的で非現実的なのは、個人・国家を見るが、社会や共同体を見ないせいである。だから、現実を変革して、実際に問題を解決することができないのである。それは、差別をなくすには社会・共同体を変革しなければならないが、それを呼びかけないで、差別に負けない強い個人になれという精神主義的説教でお茶を濁すということに現れている。差別に負けないと同時に差別をなくす社会性ある主体になること、差別からの解放の社会的共同の主体になることが、問題を本当の解決に導くために必要なのである。

(2)坂中東京入管局長の同化主義的支持論

 坂中英徳東京入管局長は、90年代に、特別永住者が年1万のペースで日本国籍取得したため、このままだと約50年で特別永住者が消滅すると危機感をあおった上で、「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律(案)」を成立させるべきだと主張している。この人物については、この問題以前に、その管轄下で、入管が行っている数々の人権侵害や虐待行為などの「悪業」を直すべきだということがある。東京入管はつい先日もクルド難民二家族を強制送還するという「悪業」を働いたばかりだ。外国人を人間として扱わない入管行政を放置している責任ある大幹部が、どうして偉そうに「多民族共生社会」について語れるのだろうか。これは入管の実態を多少とも知るものに共通の思いだろう。まずは、足下の入管行政の改善に努め、責任を取るべきだ、と。例えば、彼は、2003年11月12日のアジア財団の国際シンポジュームで立派なことを述べている。「外国人を主として管理・規制の対象としてとらえる今の姿勢のままでは、「外国人を引きつける日本」「多民族が共存する日本」へと飛躍・発展できない。原則として外国人の権利を日本人と同等に保障するという基本的立場に立って、日本人と外国人の融和を図ることに主眼を置く、社会の少数者である外国人の立場に配慮する「外国人保護行政」への転換を図る必要がある」「民族や文化を異なる人たちと共に生きるという姿勢と外国人に対する偏見と差別のない社会を作ろうという気概が日本人に見られないのであれば、外国人の全面的な協力を得て経済大国と高福祉社会を維持してゆくという生き方をあきらめなければならない」(アジア財団HP)。まずは自ら率先垂範すべきだ。
 しかし、特別永住者の日本国籍取得が進んでいるし、日本人と結婚する者が8割を超えるというデータが示す現実があるのも確かだ。前者には、90年代の歴史的特殊事情がありそうである。後者の場合、日本人と特別永住者の子供が日本国籍を選ぶ場合が増えていることから、その急速な減少傾向が予想されているわけである。彼は、「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律」が成立すれば、それがさらに加速すると期待しているのである。入管データによると、韓国・朝鮮籍は、1994年に676,793人、2003年613,791人で、平均で1年に約6300人、10年で約6万3千人減少している。全外国人登録者に占めるその割合は、94年50%、2003年32.1%である。これに日本国籍取得者を加えると、「在日」の総数は約120万とも言われる。朝鮮民族が最大の在日少数民族であることに変わりはないが、他の外国籍の住民が増加しているために、全体に占める比率が下がっている。
 坂中東京入管局長は、アジア財団の国際シンポジュームで、8割(彼は9割と言う)を超える日本人との結婚や年に約1万ペース(この数字は一時的なものである)の日本国籍取得は、「在日」の同化が進んでいる証拠であり、その実態を法・制度に反映させることが必要だと述べている。また、特別永住者の制度は、在日外国人に対する法的地位としては最高のもので、それは日本国籍取得の前段階にすぎないと述べている。彼は、同時に、すでに同化している「在日」の民族名の戸籍記載を認め、在日コリアンとしての民族性を守れるようにすべきだと言っている。それは「国民という法的地位と、市民や生活者としての文化や民族は分けて考えるべきだ」(2003年12月14日『愛媛新聞』)という視点からのものである。彼は、同化が国民化と民族性の共存を実現している理想として、櫻井よしこ氏と同じように、法的地位としての国民(市民権)としては統合されているが多民族社会であるという形の移民国家アメリカ型の国家・社会を思い描いている。彼は、日本人の人口減少が、移民国家化をもたらすので、移民との共存の仕方として国民(法的地位)と民族性を分けようというのである。これは単一民族国家論に対する批判のように見えるが、やはり彼が言う同化は民族的同化を意味している。
 同シンポジュームで彼は、「今日の世界秩序の基本である国民国家体制の下においては、「外国人の地位」と「国民の地位」の間には越えられない壁がある。外国人の地位のままでさらなる権利を要求しても、例えばすべての政治的権利と無条件の居住権を求めても、これらの権利は国民固有の権利とされているので、決して外国人に与えられることはない」「時の経過とともに民族意識が風化し、朝鮮半島からの民族離れが進むのは自然の成り行きだ。/しかし、少なくとも名前だけは民族名であってほしいと思う」「その時(多民族社会化する時―筆者)、日本人に求められるのは、自らの民族的アイデンティティを確認するとともに、アジアの諸民族その他すべての民族を対等の存在と認めて待遇する姿勢を確立することである」と述べている。民族性は自然風化で消滅するものだし、「在日」の同化はきわまっているので、せめて名前だけには民族性を残そうというのである。しかし、名前だけでなく、民族的アイデンティティを獲得しようという運動が各地にある。同化がだめなら、そういう運動を支持・支援し、「在日」の民族性を育てるような具体策を示し、民族学級や民族学校などの民族教育を積極的に支援すべきだろう。しかし彼はそう言わない。わけがわからない。彼は、3世・4世は同化しきっていると見ているのに、これからは民族性を取り戻さなければならないという。そうしないと移民としてのコリアン系日本人にならないというわけだ。移民国家化のさきがけとしてのコリアン系日本人化の理念先行のエリート主義的主張である。
 また、今、日本人の間に民族性についての共通理解などない。それは自民党の憲法論議で、日本の伝統とは何かという問いに一致した答えが出せないことにも現れている。日本人の民族意識も風化した。彼は、日本人が自らの民族的アイデンティティをあえて確認し直さなければならないと認めたことで、民族的アイデンティティが自然風化に逆らって人為的に作られることを認めたことになる。彼は、「人類を、それぞれ独自な生活原理と独自な目的をもつ単子〔モナド〕へ解消すること」「社会戦争、すなわち万人の万人にたいする戦争」「人々はたがいに相手を役に立つ奴としか見ない。誰もが他人を食いものにする」「強者が弱者をふみにじり、少数の強者、すなわち資本家があらゆるものを強奪するのに、多数の弱者、すなわち貧民には、ただ、生きているだけの生活も残されない」(『イギリスにおける労働者階級の状態』1国民文庫83頁)という資本制社会の利己的個人化と民族同化を混同しているのである。
 彼は、移民国家アメリカには、民族的人種的な差別的ヒエラルキーがあり、民族・人種が同化することなく、民族・人種集団としてのアイデンティティを強弱の波があるが保持し続けている差別社会への転換を目的として「在日」の日本国籍取得推進を主張していることになる。アメリカでは、WASP(白人プロテスタント)を頂点とし、第二位の民族・人種、第三位の民族・人種・・・・という形での差別的序列があり、それがそれらの力関係の変化に応じて、時に順位が動く。例えば、アメリカ社会でユダヤ人は長く劣位におかれた民族であり、差別的ヒエラルキーに組み込まれていることには変わりはないが、今はずっと上昇している。ブッシュも南部出身という点が強調されるが、東部エシュタブリッシュメントとしての高等教育を受けている。
 また、彼は、「多民族社会における日本人と日本国は、アジアの諸民族その他すべての民族を自分たちと対等の存在として受け入れ、待遇するという基本姿勢を確立することが求められる。その上で、さまざまな民族集団を日本国という一つの国民国家秩序の下にいかにしてまとめてゆくかという困難な課題に立ち向かわなければならない。/そのときには、日本人と固い絆で結ばれ、民族名を名乗り、朝鮮系日本国民として生きる在日韓国・朝鮮人は、まさに多民族の国民統合の象徴として日本社会で重きをなすであろう」(同上)と述べていることで明らかなように、「在日」に対して、日本国籍を取って、「国民統合」し、日本国家を支える第二位の民族になるように勧めている。

(3)国籍による差別撤廃方策の選択肢の一つとしての賛成論

 両者とは異なる観点からこの法案の趣旨に賛同を示しているのがフィンランド系日本人で民主党議員のツルネン・マルティ氏である。その基本は「国籍による差別のないことが国際社会の理想の姿である」(確立協HP)というものである。その上で、選択肢の一つとして届け出だけで日本国籍を取得できるようにすることに賛成している。しかし同時に、在日外国人の地方参政権も必要であり、「日本人と同様に地域住民としての権利と義務を持ちながら日本国籍を選ぶか、それとも母国国籍のままで日本に暮らすかという選択」権を持つべきだとしている(同上)。また2002年4月の「多民族共生社会への提言」では、「帰化したのは、日本人になればこの社会で生きていく上で、非常に便利だから。例えば国政選挙にも参加できる、社会保障や老後の問題なども国籍を取得すれば解決する。しかし、帰化しないと今の日本社会ではこれらの問題は解決しない。帰化と共生とは別問題であり、帰化してもしなくても日本社会で共生ができることを願う」(氏のHP)とも述べている。つまり、氏の場合は、国籍は自由意志による強制のない選択行為だったということである。「在日」の場合は、歴史的経緯などによって、そうなりにくい。氏の根本は、国籍に関係なく在日外国人に地域住民としての平等の権利が与えられるべきだというものであり、したがって、彼は、日本国籍積極的取得推進派ではなく、それを自由意志による選択肢の一つとするという立場である。この場合の自由意志が形式的外見的なものでないことを意味することは文脈から明らかである。

多文化主義からする日本国籍取得積極推進論批判

 すでに述べたように、日本国籍取得によって、「在日」の問題は、国籍問題とは切り離されて、同一国籍内の民族間の関係の問題に移行する。それを多民族共生社会化と言うのであれば、その限界はすでに見えている。『火花』207号(1998年11月)「マルチカルチュラリズム(多文化主義)のゆくえ ―オーストラリアの人種・エスニック問題をめぐって3」は次のように指摘している。
「ところで、マルチカルチュラリズムの推進者たちは、それを「国民統合」の中心理念におくことを主張している。だが、マルチカルチュラリズムは、古い区切りに基づく秩序を自律的な結合に基づく新しい社会秩序に置き換えようとする実験ではないか。それが歴史的概念としての「国民統合」とすっきり結びつくとは思えない。/さらに、次のような問題を指摘しておかなければならない。/先に触れたとおり、資本主義のもとで階級・階層分裂が不可避に進行している。それは社会諸集団の地位の変動や分解・序列化とも結びつく。この現実を脇においた形での「国民統合」は全くの幻想である。そして、本稿ではとりあげなかったが、オーストラリアの国家(権力)機構をどうするのか、という問題がある。それは、資本主義的秩序を維持するために構築されたものであり、不断に境域を越えようとするマルチカルチュラリズムに対する「たが」としての役割を果たし続けるだろう。また、それは帝国主義の世界支配体系の一環として存在する。オーストラリアの国際政治でのふるまいがストレートに多文化社会内の政治的緊張につながることは想像に難くない(注5)」。
 すなわち、民族は、歴史的にブルジョアジーによって国家と結びつけられてきたが、それは「国民統合」の差別的ヒエラルキーとして構成されてきたのであり、同時に、階級・階層分裂と絡む形で形成されてきたのである。また、「在日」の存在は、朝鮮半島をめぐる国際関係を反映する。それらを捨象して、現象のいくつかの特徴を取り出して強調することは抽象的である。たとえそういう抽象的な考えの実現として、なんらかの制度が作られたとしても、現実の矛盾の解決形態としてマッチしなければ破綻する。そうなれば、歴史的解決形態に到達するまで、さらに運動が必要となるだけである。
 国民化と多民族共生社会化を結びつけることは、同時に、国民と民族を切り離して二重化することを意味する。坂中東京入管局長は、近代国民国家の支配民族である支配階級=国民の一員で、そんな二重化を生きたことなどないのに、それが進むべき道であると強調する。それを日本人に適用するなら、日本人は新たに民族的アイデンティティを確立し民族として形成し直さなければならないことになる。それは日本人を多数支配民族として形成し直すだけであり、民族間の平等化の反対である。それに、近代国民国家とは、国民として組織された支配階級のことに他ならないのであり、被支配階級・階層は、形式的には国民であるが実質的には国民ではない。彼の言う多民族共生社会化は、国民としての同化、「国民統合」が前提なのであり、それは、多民族から競争で選抜された一握りの勝者を支配階級=国民へと組み込み、その他を被支配者にするだけで、民族間の差別を解消するための具体的方策もないアメリカ型の新たな差別社会への移行を意味するにすぎない。法的地位の平等は形式的平等にすぎない。
 これにはフェミニズムをめぐって起きている混乱に似たところがある。内容上対立している主張が、部分的に、あるいは抽象的なレベルで一致していたりする。パット・ブレアーは、拙稿ではラディカル・フェミニストに分類したドウォーキンとマッキャノンをカルチュラル・フェミニズム(文化的フェミニズム)としているが、彼女たちが、歴史の無知ゆえに、19世紀のエリート主義的道徳主義的な立場をフェミニズムに引き入れ、男性すべてを潜在的レイプ犯と見なす機械主義的決定論的観点から、分離主義的で社会純化主義的な方策を主張するようになったが、それはナチスの思想に似ていると指摘している。機械主義的な決定論は、社会の平等主義的な変革を不可能とする主張になり、それが保守主義者の消極的な自由観に結びつく。したがって、彼女たちは、社会・国家の根本的な変革や権利の積極的な獲得ではなく、消極的な自由としての法の執行、「小さな政府」の中心的な治安機能の発揮を、積極的な対策として押し出す。彼女たちの主張では、ポルノグラフィーの公的規制は、暴力犯罪の予防・規制であり、治安対策なのである。それは、パット・ブレアーが指摘している通り、新たな抑圧と差別を生むだけだ。しかし、男性の女性へのジェンダー支配を批判し、性暴力をなくそうとしている点では、他のフェミニズムと共通する。

さいごに

 坂中東京入管局長や櫻井よしこ氏のような「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律(案)」を支持する日本国籍取得推進論は、前者が同化主義的で後者が個人主義的自由主義的という違いはあるが、近代国民国家の国民=支配階級という共通の立場に立っている。しかし、この問題では、ツルネン・マルティ氏の言うように、基本は「国籍による差別のないことが国際社会の理想の姿である」ということであり、鄭さんに下された最高裁不当判決は、それに反するものである。国籍条項はまず特別永住者については全廃すべきである。特別永住者の権利拡大は、在日外国人の権利拡大の道を切り開く。国籍と民族性の結合は歴史的なものである。同国籍内での日本の民族=国民=支配階級による民族的抑圧・差別が、アイヌの民族的団結と復権を促進したように。また、支配階級の影響によって形成されている被支配階級階層の差別性をなくす変革が必要である。
 支配階級=国民=支配民族に対する被支配階級階層の解放運動の当面する任務は、自らを別の支配階級・別の国民に形成することである。しかし、形態はそうでも、内容は国際主義であり、国境に左右されないプロレタリア的利害である。それは、支配階級=国民に対する別の国民なのだが、形態も内容も国際的なプロレタリアートへの成長の過渡を示すにすぎないし、そうすべきである。
 諸民族の強制によらない自由な接近・融合とプロレタリアートの国際文化の発展を支持するという立場から、プロレタリアートが内容において国際主義的になっていくこととして、「国籍による差別のないことが国際社会の理想の姿である」を基本に、「国民統合」をうち破り、国籍条項などの民族差別のあらゆる現れをなくす運動の発展を支持する。そして、この領域をめぐって、上述のような日本型差別社会からアメリカ型差別社会への転換を求めるような批判を要する議論も含めて、運動内から、新しい社会の内容や質を求める議論が出てきていることに注目し、それを「未来の創造」への飛躍と結びつけることが必要である。




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