共産主義者同盟(火花)

流さんの反批判へのとりあえずのコメント

早瀬隆一
268号(2003年12月)所収


流さんの拙稿への反批判を歓迎します。少なからぬ意見の相違はあるにせよ、我々の信頼関係は揺らぐものではないと思っています。「左翼は新たな内容を獲得しないで生き返ることはできないので、その再生は一度自分の身を焼いて死んで蘇るという不死鳥型しかありえない」(流論文より) まったくそのとおりです。そのためにこそ継続的にきたんなき議論を行っていきたいと思うものです。以下とりあえずのコメントとします。

帝国主義による北朝鮮への戦争を巡っては、本稿において流さん自身「北朝鮮への帝国主義侵略戦争に反対する」旨を明確に述べておられる。この点での一致が互いに確認されたことで拙稿の当初の目的は果たされたと考えています。進歩性と反動性の弁証法なる論理展開については、今回の文書を読んでなお理解・共有しがたいものがありますが、意見の相違として今後論議していけばよいことだと思います。 ただ、流さんの趣旨が「帝国主義侵略戦争への反対をはっきりと主張したうえで、帝国主義の反動的性格を持った侵略戦争が、北朝鮮反動体制の反動性を破壊する限りにおいて進歩的役割を果たすことを認める(知る)」ということであるならば、「帝国主義による北朝鮮に対する進歩的戦争を認める」との表現はなすべきではなく、少なくとも「戦争の進歩的一面を認める(知る)」といった表現にすべき旨指摘しておきます。

流れさんの反批判においては、戦争という手段一般あるいは抵抗のための暴力という領域にまで話が飛躍しているので、一言付言しておきます。拙稿において私が反対しているのは、あくまで、個別具体としてある現下の条件のもとでの帝国主義諸国政府によるイラクや北朝鮮への戦争についてです。また、「(反戦運動にみられる)戦争によらない解決の方途を模索していこうとする問題意識や試行」といった叙述も、ここでは、帝国主義諸国政府によるイラクや北朝鮮への戦争を巡るものとして取り扱っています。帝国主義の戦争による解決か独裁政権維持かという選択肢ではなく、主体的ファクターとしての民衆の運動による解決、そこにこそ目を向けるべきであるという文脈との関係で述べたものに他なりません。流さんにも理解していただいてるとおり、私は戦争という手段を一般的に全否定するものではなく、それは特定の歴史的条件と階級・階層の相互関係のもとで判断されるべきものだと考えています。「殺し殺される」ことは「あるべきでないこと」であり、しかし同時に、特定の歴史条件のもとで「あるべきでないこと」を選択せねばならないこともある、という感じでしょうか。

後半部分の議論については、残念ながら当方の趣旨がうまく伝わっていないなというのが正直なところです。私自身あの手この手で一つのことを表現しようとはしたものの、言葉足らずというか未整理な側面があることは否めないし、いずれまた整理したうえで機会を改めて議論したいと思います。 ただ一つ、流さんは私の文書から「早瀬さんは人々の生き生きとした営為の世界の外にいると自覚して、あえてそこに向かわなければならないと思っているようだ。」との印象を受けたようですが、これは全くの誤解です。我々がかかる営為の外部にいるなどと問題を立てているわけではないし、まして我々の現在の活動が「空虚で死んだもの」などとは思ってもいません。いまだ未明の途上ではあれ、人々の営為の只中で内在的に商品−貨幣にとってかわるコミュニズムの質を育んでいく活動として、現に在ると確信しています。

以上。




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