共産主義者同盟(火花)

早瀬さんの異論に寄せて

流 広志
267号(2003年11月)所収


早瀬さんより、『火花』266号所収の拙稿に対する異論が寄せられた。これを歓迎する。それは、われわれは、スターリストばかりではなく、トロツキー主義派などの新左翼もが、共産主義運動における論争の意義を口先で認めながら、実際には批判を封殺してきた負の歴史を清算しなければならないが、それには「隗より始めよ」のことわざどおり、われわれ自身から始めなければならないと考えるからである。
私は、冷戦構造に対応する形でその内容を形成していた左翼は、ソ連東欧スターリニズム体制が崩壊した時に、その内容が現実的な対応物を失って亡霊になったと考えた。それによって左翼という対応物を失った右翼も亡霊となった。したがって、私は、左翼は新たな内容を獲得しないで生き返ることはできないので、その再生は一度自分の身を焼いて死んで蘇るという不死鳥型しかありえないと考えた。
私は、90年代の拙稿で、主にその作業を行い、それを目指したつもりである。その中に、スターリニズム党組織論の清算作業の一部としての一時的例外的分派禁止の一般原則化批判や一国一共産党原則批判などがある。この作業は、党内・党外との議論の自由と運動の自由なしには実現できない。エンゲルスは、論議によってプロレタリア党は成長するといったようなことを言っているが、それを蘇らせなければならない。
前置きが長くなったが、早瀬さんは、拙稿の北朝鮮問題ついての部分には、だいたい異論がないようである。それ以外の点について、早瀬さんは異論を提出している。さっそく検討してみたい。議論によって新たな課題を見いだせれば利益を得ることになる。

早瀬さんは、拙稿が帝国主義による北朝鮮に対する進歩的戦争を認めるとしたことに反対している。しかし拙稿には「国際プロレタリアートは、帝国主義侵略戦争の意図や利害を暴露し反対する」と書き、帝国主義侵略戦争への反対をはっきりと主張し、帝国主義侵略戦争の限定的で相対的な進歩性というふうに書いている。帝国主義侵略戦争に「国際プロレタリアート」は反対し、かつ、帝国主義の反動的性格を持った侵略戦争が、北朝鮮反動体制の反動性を破壊する限りにおいて進歩的役割を果たすことを認める(知る)と書いている。この場合、北朝鮮プロレタリアートが自己解放のための政治経験を積み、成長することができるようになるかどうか、プロレタリア革命を促進し前進させる内容を増大させ、革命を近づけるかどうかが判断の基本的なポイントである。軍事的な勝敗や軍事的力関係は判断の基本的なポイントではない。
つぎに、歴史的局面の変化に対応してわれわれが態度変更するということをご都合主義と批判している。局面が変わるとは、現実が変化しているということである。現在、イラク戦争は、米英を中心とする占領統治という局面に変わっている。この局面、この現実では、イラク人民による政治的自決、占領統治の終結がイラクにおける基本的な政治課題となっている。それに対する態度が求められているのである。早瀬さんは私が帝国主義侵略戦争に対する根本的な態度変更を主張したと受け取ったようだが、そうではないことは上述のとおりである。
私は進歩性と反動性が相互転化すると述べた。進歩性と反動性の弁証法とは、進歩極と反動極の矛盾関係の運動のことであり、時間と空間において運動するものである。私は、両者を機械的に切り離したつもりはないが、誤解のないように、そうではないことを強調しておきたい。注意すべきは、矛盾する極はそれぞれ別々に運動し、関係の一極が独立化して運動するから、具体的な矛盾関係の把握に際しては、それを的確に見る必要があるということである。例えば、商品の使用価値と交換価値の矛盾によって後者が貨幣形態をとって独立化すると、これを独自に扱う貨幣取引業によって貨幣が独自に運動させられるようになるというようなことである。
早瀬さんの帝国主義の進歩性と反動性は一体だというだけの主張は、静的で固定的な性格規定に陥っているのではないだろうか。動的なものをとらえる場合には時間空間における性格変化や相互転化の論理がいる。それらは一体だというだけだと、動的な運動・変化をつかめないように思う。

それから早瀬さんは、われわれという立場性に立って主張すべきことは別にあるとして、拙稿が帝国主義批判に集中しているために、国際反戦運動の動的な人々の運動を忘れていると述べている。国際反戦運動の中で、圧政の下にいるイラクや北朝鮮の民衆に目を向け、戦争以外の方法での解決を模索する人々の営為に注目すべきだというのである。
拙稿が帝国主義・資本主義批判に集中するのは、「われわれが共産主義とよぶのは、いまの状態を廃棄するところの現実的な運動」(『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫48頁)であり、「いまの状態」とは資本主義帝国主義が圧倒的に支配している状態に他ならないので、ある程度そうならざるをえないものと考える。
戦争や貧困を生み出す世界の変革のための人々の闘いの一環として、先の国際反戦運動があり、それがフセイン政権の専制支配を揺るがすだけの規定力をもったことを私は高く評価している。拙稿ではそれを「国際社会と国際反戦運動の圧力に押されたフセイン政権は、一方では軍事力を過大に誇示して虚勢・見栄をはりつつも他方で国連査察の受け入れや囚人解放などの渋々ながらの譲歩をした」と書いた。世界を一周する一千万人を超える人々が動いた国際反戦運動は、フセイン政権を譲歩させるなどの巨大な力を持ったと考える。拙稿は現時点で一部のわかったことを指摘したにすぎない。また私は国際反戦運動が北朝鮮の専制支配解体を前進させる内容と力を持つ可能性があると思っている。
イラク侵略戦争に対する国際反戦運動の大高揚を実現した条件の一つとして、帝国主義大国の政治的分裂が生み出した空間を国際反戦運動が利用できたことも忘れてはならない。この帝国主義諸大国の分裂は巨大な歴史的情況変化を予感させるものである。
国際反戦運動において、確かに戦争によらない解決方法を模索する動きがあるが、同時に戦争もまた一つの解決方法であることを認めることが必要である。戦争を一つの解決の方途として認める人々の現実変革の営為もまた多様性の一つであることを認めなければならないと考える。その点で、日本の反戦運動の一部が「戦争にもテロにも反対」という排他的スローガンを掲げ、多様性の排除と運動の囲い込みに走ったことは、私には、旧来的左翼性を露わにした亡霊政治にしか見えないのである。
例えば、平和的手段の労使交渉には戦争の小さな萌芽がありその種子がまかれているし、平和的集会デモにも内乱・内戦(Civil War)の萌芽がある。だからこそ公安権力は平和的な労使交渉や集会デモであっても介入し規制しようとするのである。それを意識しなければ、運動のリアリティは小さくなる。その分だけ現実を反映できず意識を狭めるからだ。早瀬さんはそれを理解しているだろうから、戦争によらずに貧困や専制をなくすための人々の運動を特別扱いする意図はないものと思われる。この辺は、拙稿が戦争による解決という多様性の一部を強調しがちなことへの補足の意味合いがあるものと受け取りたい。
現実にはなんらかの特殊な具体的条件づけが必要な場合、例えば、デモを組織するが逮捕者が出ても救援対策のための備えがないために、それを避けるしかなく、行動を自己規制せざるを得ないような場合がある。その場合にそれを一般的原則化して普遍的に主張し合理化することは運動を弱め、後退させることになるだろう。そうさせないためには、その判断根拠を率直に人々の前に明らかし、共有することが必要である。運動の組織者と参加者の判断力が高まれば、運動がより発展する力を得るからである。

人々の生活ー文化の変革の志向云々は当然社会革命の中身の問題として提起されていると思われるので、このレベルでは異論はない。「人々のリアルな等身大」云々については、私の「リアルな等身大」というと、失業者や半失業者、零細企業主・商店主や小農やパート・アルバイトなどである。この「等身大の位置」から見ると、三代目の世襲国会議員で首相の小泉は「殿上人」としか感じられない。概念によって、感覚的・理論的・知的・想像的に理解するしかないが、その方法は弁証法的唯物論だと考える。
1990年代から今日までに湾岸戦争、旧ユーゴ戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争と戦争が続き、アフリカ諸国は相変わらず飢餓と内紛に悩まされているなど、人類は戦争と貧困の増大に見舞われている。われわれが立ち向かうべきはこれらを含む資本主義帝国主義が圧倒的に支配する世界の現実などである。

それから「革命党派として全ての事態にスッキリした明確な回答を与えなければならない」という脅迫観念がある云々については、早瀬さん自身にできればそうしたいという脅迫的でない願望があるものと思う。現実が複雑で多様なのは確かだが、一時的で歴史的なものでしかない「スッキリとした明確な回答」が得られればそれにこしたことはない。そういう願いがなければ、探求や葛藤はかっこうだけのものになるだろうし、探求のための探求や葛藤のための葛藤は自己満足や自己愛にすぎないだろう。回答を求めるからこそ葛藤が生じるのである。
ジレンマをそのまま率直に展開するという誠実な態度の一つが運動の発展に寄与することはあるかもしれないとは思う。私がそうするとすれば、それは、限界を意識することによって限界を超えるためである。限界を見いだすことは、解決の端緒についたことを意味している。しかしそれは新たな限界に到達するまでの一時的な解決にすぎないの。
われわれは、力量の許す範囲で、具体的な支援や問題の理論的解明や政治暴露や判断力を高める討論・学習の組織などで運動の発展に寄与することが必要である。同時に、革命党派であるわれわれは、革命と結びつける形で大衆運動との関係を築くことを目指さなければならない。情況が必要とさせる特別の配慮がいる場合をのぞいて、違いを隠すことなく明らかにし、資本主義帝国主義というこの現実の根本的変革の事業を前進させていくことが必要である。そのためにこそ、90年代における試行錯誤や地道な蓄積の作業を粘り強く進めてきたと考える。むろんこのような作業に終わりはない。なお、私はこうした作業を重視しているので、インターネットという媒体に違和感を感じている。

早瀬さんが「無数の人々の端緒的ではあれ生き生きした営み、我々はそこへこそ向かうべきである」というとき、われわれ自身がすでに「無数の人々」の一部として生き生きとした営みのうちにあるということを忘れているように思われる。早瀬さんは人々の生き生きとした営為の世界の外にいると自覚して、あえてそこに向かわなければないと思っているようだ。私はそうした人々の外部にいるとは思っていないし、プロレタリアートの一部として生き生きとした営為を生きていると思っている。私は、現実世界の一部としてのわれわれの営みの中から物事を考え、弁証法的唯物論によって諸連関を解明していき、本質的理解に近づいていく生き生きとした営為を生きていると思っている。
早瀬さんは、自己をプロレタリアートの一部として感じられず、自らの外部に生き生きした人々の営為の別世界があるように認識し、「われわれ」極と「人々」極を単純に対立させ、前者に、空虚なもの、傲慢なもの、死んだもの等々を置き、後者に、生き生きした営為を置いて対照しているように思われる。しかし、かかる構図を取り去ってみれば、われわれもまた生き生きと営為する人々の一部であることに気づくと思う。
われわれの批判作業は、支配階級や反動階級に対する批判とプロレタリアートとしての自己批判の二重の作業である。生き生きとした人々の営みはわれわれ自身の営みでもあるからこそ自己批判が必要なのだと考える。左翼圏・運動圏に限らない世界中のプロレタリアートや被抑圧民衆の生き生きとした営みを、われわれは共有できるはずである。
レーニンは、ローザ・ルクセンブルクによるロシア社会民主労働党綱領9条の民族自決権擁護条項への批判をプロレタリアートの自己批判だと述べている。同じくエンゲルスはカウツキーへの手紙でマルクスのゴータ綱領批判を自己批判と呼んだ。「全体として党の敵たちは、このような仮借ない自己批判をみてまったく呆気にとられたという印象と、そしてこのような自己批判を自分自身につきつけることができる党はよほどの底力をもっているにちがいない!という感情をいだいたのです」(『ゴータ綱領批判』岩波文庫114頁)。また、かれは、べーベル宛の手紙で「君たちーつまり党ーは社会主義の科学を必要としています。そしてこの科学は運動の自由なくしてはのびのびと生きられません」(同上135頁)とも述べている。

また時代の変化が階級階層の相互関係の分析を現在の大きな課題としていることと「等身大」云々の話とはうまく対応していないと私は思う。先進国といわゆる第三世界諸国の間の富の格差は90年代に拡大し続けてきた。同時に先進資本主義諸国内での階級階層間格差が明確に姿を現してきた。英米での階級階層格差の拡大に続いて、日本においてもその傾向が目につく形で現れつつある。この点については、格差拡大を見かけだという者と事実という者との議論があるが、「見かけ」説を主張する者でも、90年代には格差は一定で高度成長期のように縮まる傾向はないと結論している。不平等化などを含む現実に対応して階級階層の相互関係を分析し考慮しなければならないと考える。

早瀬さんは、この間の拙稿が、認識として構築された「国際プロレタリアート」の先験的立場性の高見から現実に○×をつけているという印象を持っているという。これはよくわからない。「国際プロレタリアート」とは、自らの解放の条件が国際的であり、自身が「祖国を持たない」ことを洞察し自覚して国際的に自己解放運動を進めるプロレタリアートのことである。ブルジョアジーはブルジョアジーの立場から世界を見るし、プロレタリアートはその立場から世界を見ている。無立場や立場の超越はありえないと考える。また、早瀬さんは「等身大の位置」からコミュニズムを共に育んでいけるような論述のスタイルを見いだしていきたいということだが、私は、内容重視で、スタイルはできるだけ自由で多様なのがよいと思う。なお、こうした部分はもっとわかりやすく述べられるよう少々苦言を呈しておきたい。
この社会の原動力は階級闘争であり、それが現実を動的に動かしているものであり、それは賃労働資本関係によるものであるが、この関係の一方の極はブルジョアジーであり他方の極はプロレタリアートである。もちろん賃金労働者階級としてのプロレタリアートがそのままで「解決主体としての国際プロレタリアート」になるわけではない。そうならなければ自らを賃金奴隷としての地位(関係の一極)から根本的に解放されないという状態・立場に置かれているのである。資本のグローバル化、国際分業の発展などの最近の資本主義帝国主義の現実は、プロレタリアートの解放の条件をますます国際的なものにしている。プロレタリアートの立場と利害から現実を評価・分析することは当然と私は考える。
『共産党宣言』は「共産主義者が他のプロレタリア的諸政党から区別されるのは、ただ、彼らが一方では、プロレタリアの種々の国民的闘争において、プロレタリアート総体の共通で国民性から独立した利害を強調し、かつ主張するということによって、他方では彼らが、プロレタリアートとブルジョアジーとのあいだの闘争が通過する種々の発展段階において、つねに運動総体の利益を代表するということによってだけである。共産主義者は、実践的には、すべての国々の労働者政党のもっとも断固とした、絶えず推進しゆく部分であり、理論的には、共産主義者は、プロレタリア的運動の諸条件、経過および一般的諸結果にたいする見通しを、プロレタリアートの他の大衆よりもすぐれてもっている」(『共産党宣言』新日本文庫62頁)と述べている。共産主義者はプロレタリアートの個別的利害を代表するのではなく、「プロレタリアート総体の共通で国民性から独立した利害を強調し、かつ主張」し、「運動総体の利益を代表する」のである。平和的手段か戦争的手段かを基本的な基準にして特定の運動を特別扱いはできないのである。

拙稿は、第一印象では人を驚かせるかもしれないが、よく読めば、そんなに驚くほどのものではないということに気づかれるだろう。また、私は、早瀬さんといくつかの点で一致することが確認できたと考えるが、早瀬さんが自ら立てた対照構図にしばられすぎていると思われる点が気になった。
議論によって、プロレタリアートの運動が前進し共産主義も発展することを実践として示す意義は大きいし、それができることにわれわれは適度な自信をもってよいと考える。
最後に、議論はプロレタリア党を強くするというエンゲルスの言葉を再掲しておきたい。




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