共産主義者同盟(火花)

流論文への異論
−私は帝国主義による北朝鮮への戦争を認めようとは思わない−

早瀬隆一
266号(2003年10月)所収


火花266号流論文「北朝鮮問題、拉致問題、帝国主義侵略戦争の進歩性と反動性の弁証法について。少々。」を読み、驚きを禁じ得ない。以下は同論文への異論である。緊急に作成したため乱暴な論述となっていることをご容赦願いたい。

拉致問題や金正日政権に対する叙述についてはその基本方向に特別の異論はない(注1)
問題は帝国主義の北朝鮮への戦争政策を巡る態度についてである。

今回の論文において流さんは、金正日政権の反動的本質について述べたうえで、「かかる反動的な諸施策を合理化して、それをプロレタリアート抑圧のテコとしていることや、特権階級の贅沢な生活を廃止せずに、民衆を飢えさせ、政治弾圧し、虐殺していることは、この反動に対する帝国主義による進歩的戦争を認める十分な理由になると判断せざるをえない。」としている。これはどう読んでも帝国主義による北朝鮮国家への戦争を認めるという態度表明である。帝国主義の戦争政策への反対を強力に主張されてきた流さんが、何ゆえかくも極端に主張を転換されるのか私自身不思議でならない。私は流論文のかかる主張に反対する。何ゆえ我々が帝国主義による反動政権国家への戦争を認めるなどと言明する必要があるのか。私は帝国主義による北朝鮮への戦争を認めようとは思わない。

帝国主義による反動政権国家への戦争は、侵略性・抑圧性・反革命性・差別性(以下総じて「反動性」と表記)を持つとともに、反動政権による支配を打倒するという限りにおいて「限定的進歩性」を持つ、このことには私も異論はない(注2)。しかしこのことからは、帝国主義による北朝鮮への戦争を進歩的戦争と断じこれを認めるとの結論は生じない。

流さん自身、同論文において、「帝国主義侵略戦争の進歩性とは、その侵略の意図や帝国主義利害の実現を目指すにもかかわらず客観的に持つ進歩性であって、北朝鮮の特権階級の専制的抑圧支配を破壊する限りにおいて果たす客観的役割という点に限って進歩性を持つという限定的な意味である。」とも述べ、帝国主義による戦争の反動性をこそ強調されている。

にも関わらず、「帝国主義による進歩的戦争を認める」との判断が生じるのは、「反動性と進歩性の弁証法」なる独特の論理によってである。すなわち、流論文は、「反動性」と「進歩性」を切り離し、反動政権打倒の局面においては「進歩性」、その後の占領統治に対する民衆の解放闘争の局面では「反動性」、というように戦争の性格が局面という時間軸によって変化するかのように主張し、局面の「変化をできるだけ正確に把握して対処しなければならない」と言うのである。

これはあまりに機械的で誤った論理である。帝国主義による反動政権国家への戦争において、「進歩性」と「反動性」は一体のものであり不可分のものである。変化したように見えるのは反動政権打倒のいったんの完了により後者の性格がより露になるからに過ぎない。局面によって戦争の性格が変化するわけではなく、したがって我々の態度を局面ごとに変えるなどということはできないし、そもそもそのようなご都合主義ともいえる態度設定は現実性を持たないだろう。我々が主張しやらなければならないことは別にあるはずである。

流論文は帝国主義政治への態度の取り方に集中するあまり大事なものを忘れている。それは動的なものとしての人々の運動である。今日、国際的な反戦運動の只中で、戦争への反対、帝国主義政治への反対に止まらず、圧政のもとでのイラク民衆や北朝鮮民衆の苦難に目を向け、戦争が回答でないとするならばどのような解決の方途があるのかとの自らへの問いや葛藤、戦争によらない解決の方途を模索していこうとする問題意識や試行が生じている。そしてそれは多様性のうちにも、戦争や貧困等を生み出す世界の在り様そのものの変革や日々の生活−文化の変革への志向とも繋がっている。無数の人々の端緒的ではあれ生き生きとした営み、我々はそこへこそ向かうべきである。人々のリアルな等身大の葛藤・模索・試行を共有し促進していくことこそ、理論といわず実践といわず我々のなすべきことではないか。そしてかかる葛藤・模索・試行の只中からこそ流さんの言う「解決主体としての国際プロレタリアート」も建設できるのだと思う(注3)

この間の流論文を読むにつけ思うに、流さんには「革命党派として全ての事態にスッキリした明確な回答を与えねばならない」という脅迫観念があるのではないだろうか。その姿勢には敬意を表すものの、他方においてそのことが、ある時は帝国主義への一面的とも言える批判となり、あるいは今回の論文のような極端な転換を生み出してしまっているようにも思うのだ。全ての事態にスッキリした白黒が語れるわけではない。例えば今回の北朝鮮の問題。一方において金正日政権の圧政のもとでの北朝鮮民衆の苛酷極まる現実があり(注4)、かつ、現時点で彼/彼女らを解放する力を我々が持ち得ていない以上、北朝鮮への戦争政策に反対する私にも逡巡や葛藤がある。とても明快でスッキリした見解など出せないのが現状だ。しかし時と場合によっては、ジレンマをジレンマとして率直に展開することが、現実への誠実な向き合い方であり、かつ、運動の発展に寄与できるのではないだろうか。
と同時に、上記のことに関連して印象めいた発言を許してもらうなら、この間の流論文には、認識として構築された「国際プロレタリアート」の先験的立場性の高見から現実の出来事や現実の運動を裁断し、静的に○×を付けていく、そんな印象を受けるのである。自らを「国際プロレタリアート」の立場性に置き、その位置から世界を語らねばならないとする脅迫観念と言ってもよい。そうした叙述が必要なときはあるし、私自身そうした叙述スタイルから自由ではない。しかしかかる叙述スタイルは執筆者の本意に関わらず時に傲慢に時に空虚に現れる。現実は不均質であり不純物に溢れている、しかし反面それは豊穣なる大地であり、種子は無数にまかれている。それは働きかけていくべき動的な現実である。「解決主体としての国際プロレタリアート」という先験的立場性から現実を裁断するのではなく、むしろ現実の人々の生き生きした営為の中から「解決主体としての国際プロレタリアート」を共に創り出していくこと、それに資することこそ我々のなすべきことである。逡巡し葛藤し模索する人々の営為の只中において、等身大の位置からコミュニズム(政治認識や立場性としてのそれではなく)を共に育んでいけるような論述のスタイル、そんな論述スタイルを私自身見い出していきたいと思うのである。

(注1)流さんの264号「米英帝国主義のイラク侵略戦争の現局面と反戦運動について」には私も異論を持った者の一人であり、基本的には野瀬さんの批判内容に賛成である。今日多くの人々が金正日政権による「拉致」を批判し怒りの感情を持つのは当然のことであり、それ自体が排外主義であるわけではない。排外主義と闘うために必要なことは、「拉致」が金正日政権による産物であり、北朝鮮民衆こそ金正日政権による民衆抑圧の最大の犠牲者であること、このことを明確に主張し、むしろ拉致問題解決に積極的に取り組むことではないかと思う。その意味で流さんの今回の文書の当該部分は、264号論文からの転換が流さんのなかでどう整理されているのかは気になるものの、主張の方向そのものについては歓迎したいと思う。ただ「(金正日政権によるさらなる拉致や軍事的冒険による大量殺害行為の)危険に備えるようプロレタリア大衆に警戒を呼びかけざるをえない」との叙述については疑問がある。とりわけ「さらなる拉致の危険」といった部分はさしたる現実性もなく、へたをすると過剰な煽りともなりかねない。やはり金正日政権による民衆抑圧としたがってまた北朝鮮民衆連帯を主張の軸とすべきであろう。

(注2)「進歩性と反動性」という捉え方自体、どこか感覚的な違和感を感じるのだが、議論を刷り合せるために同表記を用いることとした。

(注3)かかる意味において、今日の国際反戦運動を「反帝スローガン」の有無を基準に裁断するかにみえる流264号「米英帝国主義のイラク侵略戦争の現局面と反戦運動について」の反戦運動を巡る論述には異論があることを付記しておく。

(注4)その結論はともかく、流論文が金正日政権・フセイン政権の圧政とそのもとでの民衆の苦難を主張されているのは正しいことだと思う。帝国主義の戦争政策への反対がイラク・北朝鮮民衆の苦難の維持であるわけにはいかないからである。新旧左翼の少なからぬ部分に見られるフセイン政権・金正日政権による民衆抑圧に触れようともしない明快でスッキリした主張や運動は、イラク民衆、北朝鮮民衆に繋がることはないだろう。




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