共産主義者同盟(火花)

研究ノート 生産的労働と不生産的労働(3)

流 広志
263号(2003年7月)所収


ボードリヤールの労働論(つづき)

 ボードリヤールは、労働の概念を相手に奮闘を重ね、「両者の運動−抽象から具体へ、質的なものから量的なものへ、労働の交換価値から使用価値へという運動−のなかで、労働の自律化が固定される。意味スルモノのこの構造化した運動の上に、労働と生産性とのフェティシズムが結晶する」(13頁)と述べる。交換価値が使用価値を規定するというのが彼の主張であるから、交換価値が使用価値になるという弁証法は無視される。そして、彼は、『ゴータ綱領批判』でマルクスがゴータ綱領の「労働はすべての富とすべての文化の源泉である」というテーゼを批判して、「労働はすべての富の源泉ではない。自然もまた労働と同じ程度に、使用価値の源泉である」と言っているのに、「労働と生産以外のものに基づく社会的な富の様式は考えられないので、結局マルクス主義は資本主義に本当にかわるものをもはや提示していない」(14頁)と断言する。しかし、人間が共同社会の中で生きている以上、共同体が使用価値を生産しないでは生活できない。未開社会は、それを神話化するか否かに関わらず、生活の糧を得るために共同体的に規定された使用価値を生産し消費する。資本主義社会でもそうである。たとえそれが「経済学のパースペクティブのなかに絶望的に埋没させ」るものであっても同じである。その上で、弁証法は、それに対する両極関係の運動形態の歴史的展開を把握して、その解決の道を指し示すのである。

 彼は、賃労働−資本の弁証法を避け、その代わりに「生産の弁証法」だの「抽象−具体の弁証法」だのを持ち出す。そして、理論と対象との弁証法的関係は、それらを克服できない鏡的反照関係のなかに閉じこめている運命的な関係であるという。いつの間にか、論点が、現実の弁証法的関係や理論の弁証法的関係ではなく、理論と対象との間の弁証法的関係に移っている。これは、理論と現実の関係ではなく、理論と理論的対象のあいだの関係のことである。彼にとってはすべてが記号的でなければならないのである。

 彼は言う。「生産物の使用価値を、自己の人間学的地平として現出させるのは交換価値であり、労働力の使用価値、つまり労働という行為の独自性と具体的な目的性を《この行為に特有な》アリバイとして現出させるのは労働力の交換価値である」(15頁)。しかし、労働力の消費は資本家にとっての使用価値の消費であって、労働者にとってのそれではない。それなのに、彼は、欲求や労働力を普遍的人間の顔とか人間一般の可能性として描き、「経済システムは、売買される労働力としての個人を生産するだけではなく、労働力を基本的な人間の可能性としてみなす考え方そのものを生産する。経済システムは、市場で自分の労働力を自由に交換する個人というフィクションのなかに入りこんでいるばかりか、それ以上に深く、個人をその労働力と同一視したり、《人間の目的にあわせて自然を変形する》行為と同一視するなどの、ものの考え方のなかに根をおろしているのである。要するに、資本主義的な経済の体系による、生産力としての人間の量的な搾取があるだけではなく、経済のコードによる、生産者としての人間の形而上学的な多元決定もある」(16〜7頁)と述べる。それは、資本主義的経済システムのことであり、重農主義・重商主義からアダム・スミスによる古典派経済学、新古典派、限界効用学派にいたる近代経済学の営々たる理論化(あるいは幻想化)の過程において歴史的に生産されてきたのである。マルクスはそれを根本からひっくり返す経済学批判を遂行した。そのことをボードリヤールも認めざるを得ないので、彼のマルクス批判は、その不徹底さを突くというものになる。そういう不徹底さのために、それは経済学の限界内に止まっているというのである。

 そうして彼は、マルクス主義が、「人間に対して、人間は労働力を売ることによって疎外されているのだと説くことによって、資本の奸計の手助けをしてい」(17頁)ると批判する。これは、宇野経済学や疎外論・主体性論マルクス主義潮流批判としては当てはまる批判だが、マルクスには妥当しない。

 それからボードリヤールは、「マルクスの理論は資本の論理的な分析に関してはラジカルであっても、反対に、西欧合理主義の立場との人間学的な合意によって支えられている。しかもこの合理主義が、一八世紀のブルジョア思想とともに作り上げた決定的なかたちにおいてである」(18頁)と言う。この人間学的合意とは、「無限の規定のなかでおのれを生産し、たえず自分自身の目的へとおのれを越えていく人間という観念」(同)についての合意であり、それに対して「マルクスはいささかの変更も加えはしない」(同)というのである。結局、「マルクスはこのことを物質的生産の論理、生産様式の史的弁証法のなかに移しかえた」(19頁)だけだと彼は言う。

 言説批判をもっぱらとする青年ヘーゲル派に対して、マルクス・エンゲルスは、「かれらのもっともあたらしい連中が、自分たちは《言説》とだけたたかうのだと主張するとき、かれらの活動にぴったりな表現をみつけたわけであった。ただし、かれらは自分たちがこの言説そのものに対置するものとして言説以外をもたず、かれらがこの世界についての言説とたたかうかぎり現にある世界とはまったくたたかっていないということは忘れてのうえで」(『ドイツ・イデオロギー』合同出版 28頁)と批判している。ボードリヤールは、青年ヘーゲル派と同じく、言説やら観念やら概念やらを批判しているだけであり、現実と闘わない。彼には概念・言説が決定的なので、そのレベルの闘いだけはラディカルになる。

彼は、マルクスが、「《人間の非有機的身体》としての自然の概念」「人間の自然化と自然の人間化」(21頁)という弁証法的な基礎をつくったと言う。この基礎上に、「マルクス主義哲学は、労働の倫理と非労働の美学という二つの方向に展開する」(同)という。そして、労働の倫理は、すべての市民的・社会学的イデオロギーを貫通し、労働を、価値として、それ自体の目的として、定言命令として高め、絶対的な価値、となっているという。それは労働の観念論的な聖化であって、それには「人間の種的本質としての生産性という《唯物論の》テーゼ」(同)も遠くないという。彼は、生産と労働をほとんど同じものとして扱っているのだ。

彼は、労働の聖化は、マルクス主義の弁証法が、最も純粋なキリスト教倫理と一致していることを示しているという。マックス・ヴェーバーの資本主義的精神の努力と克己の世俗禁欲という観点が混ざり合っているというのである。彼は、それがマルクス主義の政治的・経済的戦略の密かな悪弊であって、古いプロテスタント的仕事の倫理が、世俗的な形で、ドイツの労働運動のなかに復活したのを見抜いたW・ベンヤミンがそれを非難したのは正しいという。それと対照的にマルクスは、ゴータ綱領の「労働はあらゆる富と文化の源泉である」とした部分に「人間には労働力しかない」という混乱した反論しかしていないので、第二インターで開花するそういう悪弊を防げなかった責任があるというのである。しかしすでに引用したが、マルクスは「労働はすべての富の源泉ではない。自然もまた労働と同じ程度に、使用価値の源泉である」と反論している。労働力を自然力とするマルクスの定義を批判する彼としては、こういう部分は否定されるのである。

非労働の美学の領域についてボードリヤールは、「遊び・非労働・疎外されていない労働と呼ばれるものは、目的のない目的性の支配として定義される。カント的な意味で、それが美学であり、またそうであり続けるのは、この意味においてである。それは、ブルジョアイデオロギーのコノテーションのすべてが含まれている」(25頁)と述べる。

 彼によれば、遊びは発達した生産力を前提としているし、実際には労働の延長にある。それは労働の束縛を美的に昇華させただけであり、必然と自由というブルジョア的な問題設定のなかにあるにすぎない。

 それに対して労働と非労働というのは革命的なテーマであると彼は言う。非労働の領域は、「《全体的な無拘束》、個人が価値として自己を《生産》し、《表現》し、(意識的または無意識的な)真の内容として、それ自体を《解放》する《自由》以外の何を表現しているのか。要するに、非労働の領域は、最後にはそれ自体の自由によって満たされなくてはならない、空虚な形態としての、時間と個人の理想状態である」(26〜7頁)。それは純粋形式である。それは、経済の廃棄として空想されるので、経済の領域に、その廃棄の記号として入ってくる運命にある。そして「この「概念」はすでに革命家たちからは離脱して、《新しい社会》の綱領に入る」(27頁)というのである。

 カント美学をブルジョア的として否定しながら、しかし非労働の純粋形式については、経済の廃棄の記号であるとして、記号作用による意味変革を経済廃棄の決定要因とするというのが、彼の新しい社会の綱領である。それは、言説上の出来事である。彼は、記号作用による労働という記号(意味作用)からの解放によって現実が変わると夢想しているにすぎない。それを彼自身、ユートピアの肯定という形で自認している。それは、知識人解放のための「新しい社会の綱領」「青年ヘーゲル派の現代版綱領」である。彼は、肉体労働と精神労働の分業や肉体労働者の肉体的摩耗等々には触れもしないのである。

 彼によれば、「マルクス主義でいう労働は、自然の必然とその弁証法的な超越という絶対的な枠のなかで、価値を生産する合理的活動として定義される」(28〜9頁)(またしても「定義」。定義することは、彼には実に重い行為である。定義によって、富に対する関係や自然に対する関係が決定してしまう。経済決定論に代わる記号決定論!)。この定義からは、「労働が生産する社会的な富は物質的なものであって、象徴的な富とはいかなる関係もない」(同)という結論がまるで数学の定理から答えが出てくるように導き出される。なぜなら、「この象徴的な富は、破壊、価値の脱構築、違犯、または費消という反対のところから生ずるものであり、自然の必然を無視している。物質的な富と象徴的な富という二つの概念は和解できない」(同)からだというのである。弁証法的関係は、「定義」の反対への転化、相対性、発展、運動、動的変化、を含んでいる。それは、物質的な富と象徴的な富を、絶対的な相互排除関係にあるものと認めない。そういうことはない。二つの富の概念が排除しあっているように見えても、両者が実在しているのであれば相互浸透し合うし、相互に転化し合うのである。

 「労働という概念は、経済学と切り離せない」(29頁)と彼は言う。しかし、労働は人間の生活と切りはなせない。労働という概念を消しても、人々が生活のために活動することは労働である。言葉や概念を変えてみたところで、現実が変わるわけではない。

 そして、バターユの象徴的(衝動的・リビドー的)支出とか無償のお祭り騒ぎのような気化、死とのたわむれ、象徴的な遊び、浪費、贈与、などの、象徴的行為を主張しなかったことをマルクスの限界だと指摘する。バターユの象徴主義は、労働の解放あるいは労働からの解放を想像的に果たすにすぎない。それでも、彼は、労働の定義がまったく経済学と違うものになったことは決定的に重要だと主張する。

 彼によれば、「真の切断は、抽象的な労働と具体的な労働のあいだにあるのではなく、象徴交換と労働(生産・経済的なもの)とのあいだにある」(32頁)ことになる。それならば、非資本主義社会とは、象徴交換を実現する共同体ということになる。それこそ、象徴的浪費のなかにある意味と交換という二者択一のすべての可能性を、生産・蓄積・所有のプロセスへと抑圧し、われわれを、経済学の運命の下に、また価値のテロリズムの下に置くものである(32頁)という。

 彼は、「価値の彼岸にあるものを見つけるためには、西欧形而上学が移っている生産の鏡を壊さなければならない、それだけが革命的なパースペクティヴなのだ」とのたまう。彼の言葉は、勇ましくラディカルである。そういうラディカルなスタイル、形態、言葉、格好、が、彼の批判を支えているのだ。

 彼はマルクス主義概念は科学的宗教になったという(またしても概念だ!)。なぜなら、それらの概念は「《実在する》意味サレルモノ(所記)の意味スルモノ(能記)である記号になる」(34頁)からである。それによって、「それらの概念はただちに記号の想像領域、真実の領域、つまり解釈の領域ではなく、抑圧するシミュレーションの領域に陥る」(34〜5頁)というのである。彼にとっては、シンボル(象徴・記号)こそが、真実の領域であり、それ以外のものは、「抑圧するシミュレーションの領域」にあるわけである。後者の領域では、「それらの概念は、限定されない換喩のプロセスのなかで、互いに喚起するだけである」(35頁)。その換喩表現は、「人間は歴史的であり、歴史は弁証法的であり、弁証法は(物質的な)生産であり、生産は人間的実存の運動そのものであり、歴史は生産様式の運動そのものである・・・」(同)という具合である。「こういう表現(こういうコード)は、科学的で普遍主義的であるが、ただちに帝国主義的になる」(同)。というのは、「すべてのありうる社会が、これに対応することを求められる」(同)からだ。

 そうではないものとして彼があげるのは原始社会である。「原始社会には生産様式も生産もない。原始社会には弁証法はない。原始社会には無意識はない」(35頁)ので、マルクス主義と精神分析は歯が立たないというのである。

 そして、彼は、「フォイエルバッハは宗教の内容に対する徹底的な批判をしたが、しかしこの批判はあいかわらず宗教的な形態によってなされているのではないか」(36〜7頁)というマルクスの批判は、そのまま、マルクスにも当てはまるという。「マルクスは経済学に対して徹底的な批判をしているが、彼もまたそれを経済学という形態のなかで行った」と言うのである。宗教批判が宗教的形態によってなされることで終わらないのは、それが現実から発生してくるものだからだというのがマルクスの宗教批判の結論である。宗教批判は宗教内では片づかないのだ。経済学批判もそれと同じだというのは、宗教批判が宗教言説(概念)批判としてとらえるという彼流の理解をマルクスに押しつけているからである。経済学批判は、資本主義社会という現実社会の解剖の試みである。フォイエルバッハにはそれが欠けていたのである。

 それに対して、彼は、今や、マルクスが、「フォイエルバッハによって宗教の批判は実質的に終わる」と述べて経済学の批判に移行したのと同じ情況にあるとして、「われわれにとって経済学の批判は実質的には終了した」(38頁)と述べ、経済学の決定的な解決のために、象徴交換とその理論のレヴェルに移らねばならないと提案する。こういう点だけはマルクスから都合よく取り入れて、「マルクスが、経済学批判の道を拓くためには、法の哲学の批判から始めなければならないと考えていたように、私は考察する領域の徹底的な転回の前提は、意味スルモノ・コードの形而上学を、現在のイデオロギー的なすべての拡がりのなかで批判することであると考える。これを私は、ほかに呼び方がないので、記号の経済学批判と名付ける」(同)と宣言する。彼は、マルクスが、法哲学の批判を始めると同時に、哲学を頭脳とし、プロレタリアートを心臓とする現実変革の実践活動を始めたことを無視している。マルクスは単なる理論家ではなく、実践的理論家、唯物弁証法と共産主義学説の発展を目指すと共に、共産主義者同盟、国際労働者協会、等々を実際に組織し、現実社会の変革のために闘ったのである。   

 本書の最後に彼は言う。「ユートピアは権力と現実原則に反対する言葉だけをのぞむ。それらはシステムとそれの無際限の再生産の幻覚でしかないからである。ユートピアは言葉だけを欲する。言葉のなかへ消え去るために」(158頁)。これは、言い換えれば、「私は言葉だけで闘う」「権力は奪取すべきでない」「自然発生的な反乱は勝手に起こるもので、意識的にそういうものを準備したり組織するな」というごりっぱな知識人流の保守的なご託宣である。彼がマルクス主義的概念の帝国主義を徹底的に批判しながら、現実の帝国主義の侵略や抑圧・差別・反革命・収奪について触れないのは、一見ラディカルな批判的言辞が実際には彼の保守主義を覆っているにすぎないことを表している。それは、現実の諸矛盾を実際に解決するのではなく、頭の中や言葉の中だけで、想像の領域の中だけで解決しようという知識人的なディレッタンティズムを表している。それは、逃避であり、言葉の上だけの革命主義であり、想像世界への超越である。

 それは、記号学(あるいは言語学)や社会学の実際の発展の立場ではなく、それらの学の中間的な成果を利用して、自己の保守性を革命的な言辞を弄して正当化する立場に他ならない。それに比べて、記号学が学として未熟であることを認めている『記号学の原理』のロラン・バルトの姿勢は立派である。記号論者も様々だ。この手の連中が言葉の上でだけ革命家で、その実は保守主義者にすぎないことは、柄谷行人氏も見抜いている(国家と革命をめぐって−『トランスクリティーク』等々(2)『火花』250号2002・6参照)。

最後に

 共産主義運動は、当然、資本主義的な商品交換の廃棄を目指すものであるが、私は、象徴交換がそれを根本的に代替するとは思わない。原始社会の象徴交換をわれわれが理解できるということは、われわれの社会に象徴交換が存在しているからであり、含まれているからである。贈与−返礼という行為は、現実に広く見られ、資本主義的商品交換と共存している。それは資本主義的共同体と根本的に対立などしない。それが、非労働の純粋形式としての記号として経済の中に入り、それを廃棄するというような出来事は、想像の世界でしか起こらない。一時的な制度・権力への反乱は消えていく運命にある。おそらくそれをボードリヤールは、W・ベンヤミンの「神的暴力」の隠喩になぞらえているのだろうが、それは似て非なるものである。『暴力批判論』でベンヤミンは神話的暴力の機関である議会の革命的利用(いわゆる革命的議会主義)を認めている。しかも、それは、「批判」である。ボードリヤールによれば、「批判」という形式は、西欧形而上学に特有の病的兆候らしいが、西欧であろうが東洋であろうが、「批判」のない反制度・反権力は考えられない。非西欧のわれわれの目から見れば、彼は「批判」的であり、非「批判」的には見えない。われわれの目から見ると、彼は、十分に西欧中心主義者である。
 結局、彼の労働論は、労働自体を抑圧的なものとし、それに非労働という純粋形式的記号を対置することを革命的と称するものである。それは非労働としての浪費や象徴的遊びなどを労働に対置することによって、資本主義経済システムから脱却したつもりになる夢を見、そういう想像世界をユートピアとして対置するものにすぎない。夢見るのは自由である。しかしそれによって、労働はなくならないし、労働からの解放がないことを認識しておく必要がある。それは純粋形式としての記号(シンボル)を新たな神として君臨させるだけではないかという問題がある。われわれは、イラク人民の解放を掲げながら侵略・占領統治下でデモ隊を殺戮する米帝ブッシュ政権のような、解放のシンボルを掲げつつ抑圧・支配する権力の姿を数多く目にしているのである。

 本稿は、生産的労働と不生産的労働という区別の基本的な根拠を明らかにすると同時に、サーヴィス化や消費社会化と呼ばれる現象が社会学者などの学者の目をくらませて現実を幻想化させている一例としてボードリヤールを取り上げただけであり、労働について部分的に考察したにすぎない。

 労働に生産的とか不生産的とかいう規定を与えたのは資本制社会である。労働・自然それ自体には意味も価値もない。それに意味づけ価値づけをするのは、人間社会である。人間と自然との関係を媒介するのは、労働という行為であって、意味づけではない。意味づけ後には、それは社会的に規定された意味ある行為となる。ボードリヤールは、これまでの観念論者や宗教者と同じく、労働という行為ではなく、労働の意味づけという観念をもって、人間本質を規定しているのであり、その点では、古くからある観念論者と変わらない。労働を聖化する近代経済学派とそれを全否定するボードリヤールは、お互いに共通する観念論を土台にして労働に空想的な意味づけをして、言葉上の対立とは裏腹に、資本制生産社会の保守に共犯として加担しているのである。
                                     (了)




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