共産主義者同盟(火花)

いくつかの現状分析ノート

流 広志
256号(2002年12月)所収


解放者というアメリカの対イラク戦争正当化の嘘と帝国主義ぶり

 国連安保理決議1441採択後,11月27日に再開された国連査察は,これといった妨害もなく進んでいるようである。米帝ブッシュは,フセイン政権の武装解除を目指している。
 ブッシュ政権の狙いが,イスラエルの安全の確保と石油利権の確保にあることは明らかである。米帝ブッシュ政権が,ロシア,フランスがイラクに対して持っている利権を保障したことによって,これが帝国主義諸国による中東利権の分割戦であることが明白となった。アメリカの準備している対イラク戦争は帝国主義政治の性格を持つ帝国主義侵略戦争であって,ブッシュが言うような民主主義のための解放戦争などではない。
 アメリカ政府は,自らが解放の旗手である理由を,自分たちがかつて直接侵略して植民地領土を持ったことがないからと述べている。
 ところが,実際にはアメリカは,1898年のアメリカ−スペイン戦争で,フィリピン群島・グアム島・プエルトリコを取り,キューバを占領した。アメリカは,1902年,前年に議会で可決した他国との条約・借款の制限,米国の干渉権・海軍基地設置権などを規定したプラット修正条項を組み入れた憲法を採択させ,形式的独立を認めつつも,事実上の保護国にした。要するに,アメリカは,形式的独立を与えつつ,事実上植民地化するというやり口で,植民地を獲得していったのである。
 パナマに対しては,1900年に,イギリス帝国主義とヘイ−ボンスフット条約という利権分割協定を結んで,帝国主義大国同士で,利権を分け合い,アメリカは地峡運河単独建設権・運河独占権を獲得し,コロンビアと交渉して失敗すると,海兵隊を派遣して,パナマ独立運動をでっち上げて1903年にパナマ共和国を強引に建国して,パナマ政府と運河建設の条約を結んで,パナマ運河地帯の永久租借権を得たのである。この運河利権と米軍駐留問題が解決を見たのは最近のことである。
 アメリカはカリブ海を自国の勢力圏とし,この地域が諸外国の勢力下に入ることを警戒した。例えば,ドミニカが外国債務支払問題で外国の干渉を受けそうになった時,この債務を肩代わりした上で,ドミニカ共和国政府の財政をアメリカ人が管理するようにして,ドミニカを自国の保護下に置いた。ウィルソン大統領時代には,ニカラグアを保護国化して占領を続け,1913年にはハイチを保護国化し1915年には占領した。
 歴史上,アメリカが他国を植民地化しなかったなどというのはまっかな嘘である。
 自由主義の時代,マルクス・エンゲルスは進んだ資本主義の国と封建制度を残している遅れた資本主義との戦争において,進んだ資本主義国の側の勝利を進歩的と認めた。レーニンもまたそれを受け継いで,日露戦争で,若々しい新興の自由主義的資本主義日本が,遅れた封建的中世的ツァーリニズムのロシアを打ち破ることを望み,日本の勝利を歓迎した。彼は,それによって,中世的ロシアの人民が目覚めることを期待したのである。
 しかしながら,時代は,自由主義時代ではなく独占資本主義帝国主義の時代になった。アメリカもまた,上記の歴史的事例が示しているように,帝国主義段階に突入しているのである。
 対イラク侵略戦争を準備しつつ,ブッシュは,12月6日,突如,アルミ大手のアルコア元会長オニール財務長官とリンゼイ大統領補佐官(経済担当)の更迭を発表した。アメリカ経済が危険な状態にあることは,すでに,FRB(連邦準備制度理事会)の0・5%の大幅利下げによって政府当局が景気の現状を厳しく認識していることを示していたが,この人事によって,ブッシュは景気対策重視の姿勢をはっきりと打ち出したのである。アメリカでは,米航空業界第2位のユナイテッド航空が経営破綻した。CEO(最高経営責任者)の高額報酬が批判をあびている。財政赤字が拡大し,対イラク戦費などの緊急の国家支出がそれに追い打ちをかけようとしている。従業員持ち株制度や確定拠出型年金で多くのアメリカ人の金が株式市場に投じられているために,株価の低下は個人所得を減少させ個人消費を低下させるので,消費の冷え込みが予想されている。等々。アルゼンチンの経済危機は,ブラジルにも波及して,ブラジル経済を冷え込ませており,この急速に工業化を進めてきた中南米最大の経済大国に多額の投資を行ってきたアメリカ資本に打撃を与えつつある。
 後任には,財務長官には大手鉄道運輸会社CSXの資本家で元運輸次官のスノーが指名された。前代に続いて,産業界出身者の登用であり,「金融市場に詳しく,市場とスムーズに対話できる人材」というブッシュの望む規準を満たす人物として選ばれたのである。
 ブッシュはこれによって戦争と経済の両輪をうまく回そうというわけである。破綻したユナイテッド航空の労組員は,インタビューで,対イラク政策・戦争計画には膨大な予算を増額して使っているのに,一航空会社の経営危機に対して,賃金の大幅引き下げを承認したにも関わらず政府が債務保証を拒否したことに怒りの声を挙げている。労働者は,9・11テロで多くの犠牲を出し,その後のテロ対策に協力してきたのにこの仕打ちは裏切り行為だと政府を非難している。
 このように対イラク戦争準備を進める米帝ブッシュ政権を動かしているのブルジョア経済利害である。中東の石油利害のために,米帝のアラブ侵略の橋頭堡として睨みをきかすイスラエルの安全を確保することが必要なのである。

西部邁氏のイラク占領政策案(GHQ方式)批判に現れた愛国主義=うぬぼれ

 戦争に勝利した場合のフセイン政権打倒後のイラクの体制について,アメリカは,日本占領と同じ方式を取るという案がとりざたされている。
 これについて自称する保守思想家の西部邁氏は,GHQが伝統を破壊したことを非難して,こうしたやり方を保守に対する伝統破壊の左翼的なやり方であると批判している。保守すべき伝統を破壊するのはすべて左翼的だとする彼独特の保守思想から,こうしたアメリカの考えを批判しているのである。しかし,すでに,保守すべき伝統とやらは,資本主義的近代化によって破壊され変革されてしまっているのであり,残されているのは残骸ばかりであることを直視した場合,このような西部流の保守思想が一つのユートピアたるに止まらざるを得ないのは明らかである。
 近年,フェミニズム史学において,固有名のわからない女性が重要な政治決定の場に参加し,決定を行っていたことが明らかにされ,また北条政子は鎌倉武士を説得して朝廷−天皇との戦争を決定し,将軍職をも左右するほどの実権を行使した尼将軍と公式的にも呼ばれていたことが明らかになり,あるいは石母田正氏は『中世的世界の形成』において,中世における女性の土地相続権と所有権の存在を指摘している等々というように,伝統の内には,歴史の弁証法として,進歩と反動との弁証法的関係が見られ,全面的一方的に保守すべき伝統とやらのスタティクなものがあるのではなく,矛盾・対立するものを通して,歴史的諸運動の前進・後退が繰り返されているというダイナミックで動的なものがあるのだ。
 また,西部邁氏は,保守すべき伝統とは「国民」であると述べているのであるが,これがユートピアとしての「国民」,夢の中の「国民」像であり想像の「国民」でしかないことは明らかである。そのようなものが,様々であり,変化するものであることは歴史が教える通りである。彼の「国民」が,カント的な原型(アーキタイプ)論と共通するものらしいということは察しがつくが,そうだとしても,一般的に言ってしまえば,それらしきものを構成しうるというにすぎない。そこで自らの能力を誇っているのは想像力(構想力)であり,結局のところは自我の礼賛に陥っているだけなのである。愛国心の正体は自愛にすぎぬというのはマルクスが喝破したところである。

小泉政権の対イラク戦争協力・イージス艦派遣の意味と反戦運動

 小泉首相は,12月4日,官邸に石破防衛庁長官を呼んで協議し,イージス艦派遣を政府決定した。福田官房長官は,「これは対テロ特措法に基づく基本計画によるものであり,政府の専権事項である」と述べた。しかし,ことは集団的自衛権行使という憲法違反行為にあたるかどうかという重大な問題であり,それをたんなる護衛艦派遣にすぎないというというのはごまかしにすぎない。
 石破防衛庁長官は,「一般的な情報提供と情報共有は集団的自衛権行使に抵触しない」と述べている。しかし,このような一般論に昇華させてしまっては訳がわからない。自民党の野中元幹事長は,「イージス艦が収集した情報に基づいて米軍が攻撃すれば,集団的自衛権行使にあたる」と批判して,派遣に反対の意志表示をしているが,このように具体的に見ていかなければならない。そうすると,イージス艦がすでに派遣されている護衛艦と同じであり,性能が優れているだけだとする主張は,物事の質だけを見て,量を見ていないし,量から質への転化という弁証法を理解していないために,一面的であり,結果的に詭弁となっていることがわかる。
 これまでの護衛艦であれば,そのレーダーの探知範囲は極めて限られており,近くの艦船の護衛以上の役割が果たせないことは技術的にも明らかである。ところがイージス艦は,半径500キロ内の空中探知能力がある。このような探知範囲の量的拡大は,米軍の攻撃対象の情報を含む可能性が高める。実際,米軍の攻撃対象の情報を捉えて,その情報を米軍と共有し,それに基づいて攻撃が行われた場合は,野中元幹事長の言うとおりの事態となる。量が質に転化し,レーダーの探知範囲が拡大すると集団的自衛権行使という結果を生み出すことになるのである。現実には,今のところ,イージス艦の派遣される海上のレーダー探知範囲の500キロメートルの半径内に,対イラク戦争上の攻撃対象が入る可能性は少ない。しかし政府や推進派が言うようなこれまでの護衛艦と同じということはありえない。
 推進派の一部には,もしイージス艦派遣が集団的自衛権行使にあたるというなら,すでに実施された護衛艦派遣自体がすでにそれに抵触しているという者がある。これは,とんでもない話しである。対テロ特措法に基づく後方支援のための護衛艦派遣は,集団的自衛権行使にあたらないとして,実行されたのであり,石破大臣と政府は,イージス艦派遣はそれと同じであり,単に性能の良い護衛艦を派遣しただけだと言っている。
 もし,すでに護衛艦派遣が集団的自衛権行使にあたるとなれば,集団的自衛権行使を憲法違反としてきた政府解釈が破られていることになる。憲法が破られているとなれば,そのような国家は法的な正当性が失われ,超法規的国家=独裁国家であることを公然と認めることになる。政府は法治国家であることを否定して,自己の法的正当性を失わせるようなことは認めないだろうから,護衛艦派遣もイージス艦派遣も,憲法の枠内であり,集団的自衛権行使ではないし,そうしないようにすると言い続けるしかない。
 小泉政府は,アメリカの戦争に対して積極的に協力して,日米反革命同盟を強化し,アメリカが準備している対イラク帝国主義侵略反革命戦争に,ごまかしを行いながらの実質的な協力と参加を,得意の官邸密室政治による官僚独裁的手法で決定した。
 さらに,小泉政権は,攻撃前のイージス艦派遣,攻撃中の後方支援(インド洋での間接支援,新法での直接支援)・難民支援・海上警備行動(ペルシャ湾での日本のタンカー保護のための護衛艦の派遣)・法人輸送(在留邦人輸送のための輸送機派遣),攻撃終了後の復興支援(PKOへの参加,多国籍部隊への参加),難民支援(停戦合意の場合),機雷除去(ペルシャ湾への掃海艇派遣)という対イラク戦争協力策の骨子をまとめ,これを来日したアーミテージ国務副長官に説明した。12月10日の毎日新聞は,防衛庁幹部が「中東の石油供給の安定は日本の国益だ。石油利権のおこぼれに預かれるか,預かれないは非常に大きい」とのべたことを伝えている。この言葉には,日本政府−ブルジョアジーの本音が見事に現れている。
 この対イラク戦争にたいしては,ベトナム反戦運動と違って,開戦前からの反戦運動が欧米を中心に大規模に取り組まれており,何百万もの人々が,この戦争計画の支配階級の利害を暴露し,その本質をついた「石油のための戦争反対」を掲げている。日本においても,対イラク戦争反対の反戦運動は高揚しつつはある。石油のために大量殺戮戦は許されないという声は必ずや人民の中に浸透していくだろうし,そうした声を戦争協力に走っている自国帝国主義政府の打倒と帝国主義統治にプロレタリア大衆の徹底民主主義統治を対置する闘いと結びつけ,反戦運動との結合,大衆的反戦運動の推進・拡大を支持する。

ブルジョア階級の統治能力のなさを示している民営化論議

 小泉政治は,すでに,竹中経済財政・金融大臣への経済政策の丸投げで明らかになっているように,他人まかせであり,そしてその責任を自らは取らないというずるいものである。それと同じことが道路公団民営化議論でも起きている。小泉首相は,新日鉄の今井を委員長にすえ,これと対立する猪瀬直樹委員を人気取りのために無理矢理誕生させながら,議論を見守るとして,この問題についての自己の考えを明らかにせず,対立・混乱する委員会を外から眺めてたのである。
 この道路公団民営化路線は,小泉首相自身が述べているように,1980年代の国鉄分割民営化と共通するいわゆる「臨調行革」路線上にある。この時,中曽根政権は,世界的な過剰生産−経済停滞に陥った資本主義諸国が,G7などを通じて,政策調整を行って,とりわけ資本主義の守護神であるアメリカが強行した経済改革の混乱を投資の受け皿となるなどの方法で痛みを分け合って革命的諸運動に対抗した。そのための資本による労働への総攻撃の象徴とされたのが国労であり,国労を見せしめの意味でもつぶそうとしたのである。その後,電電公社の民営化・全電通の労使協調への転換,などの民営化は,「お前たちも国労のようになりたいか」という暗黙の恫喝を背景に進められ,「国鉄方式」なるものが成功例として語られるようになったのである。しかし今や,道路公団民営化議論が紛糾しその正当性に疑義がついたように,「国鉄方式」は失敗だったのではないかという根本的疑問が突きつけられている。さらに,国労は2万人まで激減したとはいえ,10年以上に渡って残ったのであり耐え抜いた意義は大きい。
 道路公団民営化推進委員会の人選を見ると,この問題に直接的な利害関係のある委員が二人いる。一人は高速道路建設推進派の今井委員長であり,もう一人が慎重派のJR東日本の松田委員である。鉄道業は,高速道路と直接に競争関係があり,利害対立がある。したがって松田委員が建設慎重派であることは当然である。
 JRは,発足以来,料金引き上げをしていないが,デフレ情況の今日では,下げないのは実質的には値上げである。また,JR資本は,国労に対する不当解雇問題についての責任逃れを続けている。国労がJRを認めた上で訴訟を取り下げたことと引き替えに,JRへの雇用や補償などの政治解決を図るとした自民・公明・保守・社民の四党合意が,与党側によって破棄された。国労委員長は,この決定は一方的に国労に責任を押しつけるもので不当だと批判した。国鉄とJRは違うなどというのは形式論議であり詭弁である。JRは責任を認め謝罪して,不当解雇者全員の現状復帰と補償を行うべきである。なお,国労運動をめぐっては,労働組合運動としての資本・雇用者との取り引き運動であるという面と同時に80年代の臨調行革路線というブルジョアジーの全社会再編の政治路線貫徹のための労働への攻勢の象徴的闘争とされたという特殊性があり,それだけ,政治的社会的闘争としての拡がりを持つ客観的条件がある。
 なお,国労内の路線対立では,四党合意反対イコール戦闘的というような単純なことではないようである。反対派には組合の指導権をめぐる権力闘争自体が自己目的としている狭いセクト主義がある。それから国労を差別するJR総連の職場支配や運動妨害といったことがあり,狭隘なセクト主義的組合支配−労働運動従属化というとんでもない労働運動指導をやっている革マル政治の問題が深刻であるということもある。しかしILO勧告があり,また闘争団を支える地域的社会的支援ということもあり,社会的に鉄道への関心が広くあるということもある。どちらが社会的な正当性を持っているかということでは国労はけっして負けていないと思われる。
 道路であれ,鉄道であれ,人々の足であり,物資輸送の動脈であって,これらに無関係な者はいない。ところが,政府が道路公団民営化推進委の委員に任命したのは,製鉄業,鉄道業,民営化万能論の新自由主義原理主義に凝り固まった主義者,評論家,官僚サイドに立つ学者,外資の経営コンサルト,という顔ぶれで,どこにも普通の利用者の利害を代表する人物などいない。これでは国民の声を代表し集約したものとは言えない。その後の世論調査では,建設推進が38%,賛成が50何パーセントかである。このアンケート結果を直接委員会の多数決に反映するなら,採決結果は3対4の1票差でなければならないだろう。
 猪瀬委員の思想は,民営化,国家の課す税金などの負担の軽減とか天下りの問題とか市場にまかせよとかの新自由主義的な内容とかを含む総合的なものとなっている。しかしその思想は,社会性が低く,人々の生活の質とかを社会的に考慮するとか判断するとかいうことが欠けている。かれは人間や社会を経済人的なものに単純化して,そういう一面性を徹底させ,貨幣計算,経済的利害損得の秤量,経済合理性という観点のみに価値を置き,判断しているのである。
 彼は,委員会をそういう彼流の価値判断を押し通すための道具としてしか見ていないので,最終的には委員会自体を崩壊させるような強引な数合わせに走ることしかできなかった。委員会の持つ社会性の水準を引き上げることが出来なかったのである。それを表しているのは,委員会が空転した時に彼がはいた「必ず論破してみせる」といった言葉である。利害が関わっている時に,論理とか理論とかによる優劣で問題解決することはありえない。そこまで追いつめてしまうと,結局,感情的対立が生じて,相手を「窮鼠猫を噛む」状態にしてしまうのである。彼は「論破」などできなかった。したがって彼自身の立てた規準では猪瀬委員の負けなのである。
 利害対立を解決するためには,社会性の水準を上げていくことで,相互関係を構築していくことが必要であり,それが本当に議論するということである。ところが猪瀬氏のやり方は,エゴとエゴの衝突を議論と錯覚し,理論上での競争による優劣をつけ,勝った方に負けた方が白旗を挙げることが合意であり議論の決着だという優勝劣敗主義的傲慢さが露骨に現れている。これは抽象的な頭脳が陥りがちな悪弊である。
 国鉄改革が失敗に帰している現在において,なお,料金さえ下げれば「国民」が喜ぶだろうなどというのは人々を馬鹿にした話しだ。デフレ下での料金低下などたやすいことである。他方では,デフレ阻止,インフレを求める財界や与党議員の声が高まっている。
 いずれにしても,こうした隘路に陥っていることで,日本の資本家階級の統治能力がないことがはっきりとした。今や問題は,これに代わるものの登場であり,それに必要な能力の蓄積であり,実際にとってかわることである。
 とってかわるのは,労働者階級であり,階級形成されたプロレタリアートであって,水準を持つことが必要なのである。それには,労働運動をはじめとする労働者大衆の運動の中で,経験と理論の相互環流の教育・訓練であるとか,他の被支配階級・階層・被差別被抑圧住民大衆との相互関係,相互解放の共闘を通じて社会性の水準をあげ,自分の住む世界のことばかりではなく,その外の世界との交流を深め,広く深い唯物論的知識を獲得することも必要である。そうすると一方では個別的な改良運動の必要なことは当然であり,労働組合運動はそうした資本との取り引き運動としての独自性を持つものであるが,同時にかかる拡がりを持つ経験の中で,労働者は,個別的改良に止まらない根本的変革を自己解放の絶対条件として認識するようになろう。
 共産主義運動の独自性は,『共産党宣言』において,プロレタリアートの総体の国民性から独立した共通利害を強調し主張すること,階級闘争においてつねに運動総体の利益を代表すること,労働者諸政党のもっとも断固とした絶えず推進していく部分であり,プロレタリア的運動の諸運動の諸条件,経過,一般的諸結果にたいする見通しをすぐれてもっている等々とされている。要するに,共産主義運動は,労働者の運動の個別的利害を直接代表するものではないということである。その点を混同すると,赤色組合主義になる。
 両者の位相の違いを踏まえつつ,交流を組織していくことが必要なのであり,そうする中で,労働者運動は組合主義的狭さを乗り越え,共産主義運動は抽象的な広さを乗り越えることができるのである。プロレタリア的諸運動の諸条件,経過,一般的諸結果にたいするちゃんとした見通しをもつためには,広くて深い唯物論的知識を社会的に蓄積することが必要なのである。

治安再編強化の動き−教育・人権・犯罪被害者・精神障害者差別等々

 中教審は中間報告を提出した。そこでは,教育基本法に入れるべきだとして,何十年前から繰り返している愛国心・公共心・郷土愛・家族愛などの言葉が枕詞のように冒頭に置かれている。それによって,教育が抱える諸問題が解決されるだろうというのである。
 そもそも,教育現場において発生している諸問題の解決について,試験という知的通過儀礼を通り,官僚仕事をこなしてきただけの文部科学省エリートは,教師・家族・子供・地域が直面している具体的な現実を本当の意味では知らない。彼らは,データや報告書などの文字や数字を認識しているにすぎないのである。
 そうであるならば,もっと謙虚に,現場から学び,現場のイニシアティブに任せ,余計な干渉をしないようにすべきであろう。ところが,文科省のエリート役人どもは,無責任に指導と称して現場に口をだしてあれこれ命令し,指図するのである。「日の丸・君が代」の学校行事での強制がそのさいたる例である。余計なことをしたが,それによってなんら現場の教育問題は解決していないのである。エリート官僚が余計な口出しをせず,国家が教育に干渉しないようするのが本当の解決に資するのである。
 これらのことは,国家−治安体制の再編強化の動きの一部である。情報統制−マスコミ規制を狙った個人情報保護法案,精神障害者の治療行為への治安機関の干渉を狙った「心神喪失者等医療観察法案」,国家緊急権確立を狙う有事関連法案,人権問題を法務省の外局で扱い国家規制しようとする人権擁護法案,等々,いずれも,治安面での国家介入・干渉を強化し,国家による人々の思想・行為の統制を強めるものばかりである。
 すでに「少年法」改定の際に,少年院を国家による処罰機関とする動きが強められた。従来の少年法の理念は,教育・更正・社会復帰というものであったが,これを国家が被害者に代わって処罰(報復)するものに変容させた。名古屋刑務所での刑務官による死者をも出した暴行事件の発覚は,こうした制度の変質という点をも一つの背景にしているものと思われる。このことは,法務省に抜きがたく存在する反人権性の現れであり,入管行政において,国連人権委員会が再三人権侵害の改善を求めているにも関わらず,入管職員による暴行や人権侵害がいっこうになくならないことと共通するものである。
 この間,被害者の人権ということが強調され,それ自体は当然としても,それを利用して,国家が家族の代理人として加害者に応報するということは,問題のすり替えにすぎないことは明らかである。一つには,えん罪ということがあり,国家が無実の人を新たな被害者にするということがある。それには自白偏重の取り調べということがある。それから警察の腐敗ということもある。それから,現在の監獄制度が,本当に教育・更正機関としてちゃんと機能しているのかどうかという問題がある。
 それから,国家は本当に被害者の立場とか人権を守ろうとしているのかどうかという問題がある。その点については,オウム事件被害者などの犯罪被害者に補償していないということがある。他方では,拉致被害者に対しては,国民年金の国家負担とか毎月支援金が支払われるなどの「拉致被害者支援法」が国会上程から一週間という短期間で全会一致で可決された。オウム事件の被害者は,働き手を突然失ったり,障害が残ったり,長期の治療が必要になったりと生活困難に陥っている度合いが強いと思われる。交通事故被害者の運動にしても,厳罰化は法律化するが,被害者支援ということについては具体的な対策は取られず,動きも遅い。この違いは,それぞれの政治的重みから来ているようだ。片方は重大な外交交渉と関わっているが他方はそうではないといったことである。人権の本質論から言えば,あらゆる人が平等であって,政治的な重みが計算されて,格差がつくということはあってはならないはずである。しかし現実には人権問題もまた政治的道具とされているということである。人権論では,在日朝鮮人,朝鮮民主主義人民共和国の飢餓に苦しむ人々,身体障害者・精神障害者,拉致被害者,等々,あらゆる人の人権は同じである。
 被害者の人権を重んじろと叫んで少年法改定をしつこく訴えた週刊誌やワイドショーは,改定後の現在,自らの主張がどうだったのか自ら検証すべきだろう。少年犯罪の凶悪化とか増加とかはその後どうなったのか,何もないでは無責任すぎる。拉致報道についても同じである。メディアは拡張装置であって,思考装置ではない。思考するのはあくまでメディアの人間であり,受け取り側の人間なのである。

死滅しつつある資本主義−資本主義永続論批判(少々)

 現在,日本では利潤率の傾向的低下に悩まされているのであるが,そのことによって,一方では大企業は利潤率を引き下げて,新規参入者との競争戦を強めている。航空業界に新規参入したエア・ドゥが大手二者の値下げ競争にあって破れたように,既存業界における独占の壁はあつい。製鉄業界では二大グループが成立したように,他の産業分野でもさらなる大型合併や資本提携の動きが続いている。それは資本の集中・集積の動きの強化であって,中小資本の収奪と高利潤率を生む海外への資本投下を加速させる。
 そうした動きの中で,階級階層格差は拡大している。それに対して,労働者階級は平等を掲げて他の諸階層・被抑圧被差別者と連帯し,闘う必要がある。ブルジョアジーのための戦争に反対し,統治階級へと成長し,自己解放の条件を実現し,ブルジョアジーにとってかわらねばならない。そうして,ブルジョアジーのために投じられている戦争費用をはじめとして,官僚の天下りやブルジョアジーが野放図に自分たちのために好きなように使用している国費の無駄などを徹底的に調べ挙げて,無駄をなくし,本当に簡素で無駄のない人民のために仕事をする社会から超越しないコミューンの吏員をもって現在の官僚に置き換えなければならない。等々。
 柄谷氏は,革通派ばりの資本主義永遠延命可能論を資本が価値体系の差異から,等価交換によって,剰余価値を得るからだと言っている。商人資本が空間的差異から,産業資本が技術革新によって時間的な差異をつくることによって,剰余価値を得るという。しかし,差異一般ということからはなんの認識も得られない。違いそのものというのは一体何かと問うても何の答えも得られない。それではと,価値体系とは何かと考えてみると,価値が一体何かがわからない。では,技術革新に失敗した産業資本は剰余価値を得られなくてみんな潰れてしまうのだろうか。現実にはそんなことはない。結局は,総資本ということが出てくる。資本の利潤を資本所有の大きさに応じて平均利潤を分配する総資本の成立ということである。問題は,それを総資本としての国家ということで,イコールにしていることである。それでは中央銀行が半官半民であることやあくまで種々の国家介入を行うといっても市場という分配機構を維持し続けていることや民営化などの方策を取ることの理由をきちんと説明できないのである。
 実際には,独占資本主義の多国籍化・国際独占体の成長,国際的市場分割再分割戦の展開,特別利潤の獲得,それの国内での分配による資産(価値保存)への依存強化・サービス産業化,金融国家化,等々という動きの中で,資本主義の「終わりの始まり」が進行しているのである。
 シュンペーターの資本主義永続論について宮崎義一氏は,『世界経済をどう見るか』(岩波新書)で,シュンペーターの「理念型」としての物的生産手段の私有,私的企業の自己責任,国家による信用創造の排除の三条件を完全に満たす「拘束なき資本主義」は景気循環を通じて持続するという理論も信仰されているようだが,彼は1929年の世界大恐慌を説明でなかったのでコンドラチェフの長期波動論に飛びついたのであり,「コンドラチェフの長波は,資本主義そのものはあくまでも健全で病んでいるものでないことを証明するためにシュペングラーが導入した分析装置の一つにすぎなかった」(同書 31頁)と述べている。恐慌が,それからの回復という過程を通じて資本主義を生き返らせるのは確かであるが,しかし恐慌は,生産関係を撹乱するから,そのような動揺や変化の中で,別の生産関係登場を促進するという資本にとって危険な時期なのである。シュンペーターの資本主義永続論は,理念型という机上の理屈であり楽観論にすぎないのである。
 帝国主義的超過利潤を商業利潤などの利潤として分配してきたというのが「死滅しつつある資本主義」の実態なのである。




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