共産主義者同盟(火花)

「竹中金融相改革案」と改革案反対派の構造

渋谷一三
255号(2002年11月)所収


<はじめに>

 不良債権の処理を加速することを主眼とした竹中改革案が自民党・銀行・財界に示された。この改革案に対して、自民党からは、党に根回しがなくいきなり賛成せよという形で発表した手法を巡る批判という形をとって反対が表明されている。与党の公明・保守からも密室主義との同様の形式を巡る批判という形式を取った反対が表明されている。
 民主党・自由党をはじめとする野党は、不良債権処理を急げば倒産が相次ぎ、取り返しのつかない経済混乱を招くという位置からの批判がなされている。民主党はケインズ主義的残滓からする気分的批判であり、自由党は時期が悪く、拙速すぎるという手法的位置からする批判である。この2党の発想は全く異なるが、「今、不良債権処理を加速させるのはまずい」という判断において一致している。
 形式を巡る批判という形を取るしかなかった与党3党も実は上記の判断で一致している。
 銀行界も大手12行が揃って反対を表明し、強引に進めるのであれば「貸し渋りが起こる」と‘恫喝’している。
 竹中案は否決されることは目に見えている。竹中案が一定の勢力の利害を代表すら出来ていないことも、こうした状況からして明らかである。
 したがって、本稿では、この対立の意味を読むことが目的ではない。竹中案がどういう思考を背景にしているのか、ということを読むことが目的であり、したがって彼の依拠する新自由主義の経済思想が実践的破綻を宣告されていることの読み取りが目的となる。また、これに反対する「烏合の衆」の論理的展望のなさを確認することもまた目的となる。

1.

 竹中案の骨子は以下の通り。
 不良債権処理を今の速度で進めれば、デフレ下では抵当で取った資産の価値が下落し、不良債権額は増す一方であり、出口が見えない。これが、不況とデフレの根拠であるから、不良債権処理を加速する必要がある。
 不良債権処理を加速するに当たっては公的資金(税金)を注入する。公的資金を注入するに当たっては、将来還付される税を自己資本に繰り入れている現行のやり方をやめる必要がある。
 これに対し、銀行や反対派の主張は以下の通り。
 銀行は不良債権処理を自己の計画に従って行っている。これを突然加速せよとされれば、今まで取ってきた政策との矛盾を来たし、混乱が起きる。公的資金を注入することはありがた迷惑であり、民間への介入であるだけではなく、却って貸し渋りをせざるを得なくなり、経済が破滅的打撃を受ける、というものである。

2.

 背景には@BIS規制をクリアー出来なくなったこと。A日本の賃金が相対的に上昇し、世界一の水準になってしまっていること。B産業が賃金の安い東南アジア・続いて中国に進出し、国内の購買力の絶対値が減少し、デフレが進行する以外にはないこと。などの、変化がある。
 詳しく見てみよう。
@BIS規制をクリアするためには平均株価が14000円の水準がなければいけない。これは、7年前の試算で、その後、「公的資金注入」や大型合併などを通じて、株価が14000円以下の水準でもクリアできるようになったのかも知れない。この点は追えていない。
 今、貸し倒れ引当金に課税されている税が不良債権処理をすることによって還付されることを見越してこの分を自己資本に算入しているが、この基準は米国が1年分なのに対して、日本は5年分を算入してよいことになっている。(この額は実に自己資本の44%を占めている)
 これを米国と同じ水準にしようとするのが、竹中金融相の改革案である。言い換えれば日本のBIS規制クリアは、国際的に認知されないために、ムーディズをはじめとする格付け機関から軒並みB以下にされてしまったことは、読者の皆さんもよく知っている通りです。また、株価が14000円割れした直後に大和銀行ニューヨーク支店がフレームアップされ、大和銀行は一切の海外業務から撤退せざるを得なくなったことも、ご存知の通りです。それ以前に単独で世界の銀行のベスト10に5社も入っていた日本の銀行は、生き残りをかけ大型合併をせざるを得なかった。こうした出来事の根拠は全てBIS規制との関係で説明がつく。
 それだけであるならば、竹中試案は合理的な政策であると言える。なぜなら、大型合併によってBIS規制をクリアできる体制を整え、少なくとも3行は国際金融機関として生き残ったのであるから、十分と言える。これを国際的に認知させるためには、貸し倒れ引当金に課税された税の還付金を自己資本に算入する額を米国と同じ1年分にすることが求められていることであるからです。
 だが、現実サイドからは、そんなことをすれば大型企業の倒産が相次ぎ、銀行自身もやってゆけなくなるという声が巻き起こった。それが、単なる脅しや利益誘導のための方便ならば、竹中試案を断固通すのが正しいということになるが、小泉・竹中ライン以外は自民党内部をはじめ、財界・銀行界一様に大反対の合唱をしているのが、不可思議ということになる。このことの是非を判断するために、世界の経済事情をみておこう。
A 日本の賃金は世界一の水準になっている。これは、為替レートに従って単純に計算した場合である。物価との関係を考慮し、購買力平価を推定する手法は、近い将来の為替の変動の幅を予測するために必要であっても、現実の経済の動きを読むためには全く必要ない。現実は、売った途端に決済をするわけであり、決済は数ヶ月のタイムラグを設けたにせよ、そのときの為替レートでなされるのです。従って、世界一の賃金を得ている日本の労働者を雇って生産することは、世界的競争に負けることを意味する。日本の労働者の生産性が仮に高かったとしても、為替換算をして他の国で生産する方が安ければ、そんなものは何の歯止めにもならない。海外との競争の中で練り上げた生産システムの生産性の高さはそのまま海外での日本資本の下で使えばよいことで、産業空洞化の防止策足り得ない。かくして、生産は予想を上回って一気に海外に移転してしまった。大企業の生産性の高さや精巧さを実際的に支えていた中小企業群の存在が産業空洞化のテンポを緩やかなものにするであろうと予測されていたのだが、バブルによって、存続の危機を迎えた中小企業もまた淘汰された上で、生き残りをかけて海外に移転してしまったのである。
 かくして、物の生産は海外に移転してしまい、今日それは農業分野にも浸透し始めてしまった。日本国内に残ったのは高い名目賃金をやり取りするだけのサービス業が中心になってしまった。高い名目賃金を維持することで、海外からの安い生産物を輸入するという帝国主義的経済が機能することを期待していたようであるが、安い「輸入品」が入ることによって物価が下がることは不可避であり、物価がさがれば、労賃を下げてより安い商品を提供した企業のみが生き残ることになり、これがまた物価を押し下げる役割を果たす。いわゆるデフレ状態の出現である。
 これがデフレの根拠であってみれば、このデフレは日本の労働者の賃金が先進国の賃金の平均以下にまで下落するまで止まることはない。先進国の平均以下というのは、既に企業が海外移転してしまっている以上、安い後進国の労賃を捨ててまで戻ってくることは有り得ないからです。
 この点は日本資本の成功ゆえの結果であり、海外移転する前に市場統合をしてしまったEU諸国とは全く異なる。そしてまた、世界の基軸通貨を持っている米国とも異なる。米国の場合、為替レートの変動は直接に自国と相手国との関係を反映するため、米国に輸出する後進国は負債の返済という形で米国から得た代金をそっくり返してしまっている計算になる。日本の場合、この資本輸出が銀行の脆弱さもあいまって失敗しており、後進国の労働者に生産させこれを先進国の民が消費するという帝国主義的経済体制がうまく構築しきれなかったといえる。また、米国は黒人やヒスパニックという「後進国」を内部に持っており、海外移転を国内においてやってしまえるという相違がある。この点は米国と比較にはならないが、EUも同様であり、トルコ人やアルジェリア人を中心に「出稼ぎ労働者」が先進各国内に10%程度存在する。このことを基礎に、フランスやドイツで極右政党が大躍進している。日本は外国人労働者を厳しく規制したために、安価な労働力を国内に持つことに失敗した。
 こう見てくると、日本の労働者の賃金は下がり続け、デフレが進行し続けるというのがこの先10年間の不可避的動きであると断定できる。

3.竹中試案の挫折は新自由主義の破綻を意味する。

 2章で検討したように、日本の不況は企業がその生産拠点を海外に移さざるをえなくなったために、国内の失業者が増大し、購買力の総体が減少したこと、世界一高い賃金水準を下げない限り、2次産業の繁栄は望むべくもないこと、がはっきりした。
 ここで竹中試案のように不良債権処理を急げば、自己資本は急速に減少する。さらに、引当金の税還付を5年から1年に短縮すれば自己資本比率は急速に悪化する。単純に計算しても44%を占めていた還付金が8.8%になるのだから、BIS規制割れを起こすのは目に見えている。銀行は自己資本比率を高めるために、貸し出さないという方策を取る以外にはない。すると、銀行の最も基本的な業務である貸し出しが出来ず、銀行はその経営を圧縮し、手数料収入に依存する体質に変えなければならない。すると、金融の流れがとどこおり、企業は株式で資金を手当てする以外にはなくなる。不況で倒産が相次いでいるなかで銀行の貸し出しが無くなれば運転資金に困る企業が続出するのは目に見えている。
 これが、小泉―竹中以外の全ての勢力が、竹中試案に反対する理由です。
 なるほど、もっともである。
 ということは、市場任せにすればよいという新自由主義の基本理念が破綻していること示しているのは言うに及ばず、新自由主義的政策を取る余地も全くないことを示している。これは、新自由主義の破綻を意味する。
 翻って考えてみれば、新自由主義なるものは、それを標榜することによって後進国からの収奪を容易にするための方便に過ぎなかった。日本のように資本輸出をして収奪することに失敗し、新自由主義によってバブルを転嫁された国にとっては、全く意味のない代物であったのです。むしろ新自由主義に反対していれば、少なくともバブルを転嫁されることはなかったが、それは帝国主義として生きることを放棄することと同じである以上、そうすることも出来なかったということです。
 結論。日本において新自由主義を標榜するのは、それが他国を収奪するための方便であることを理解していない者か、新自由主義によって日本は利益を生むことができなかった立場であることを理解していない者である。
 いずれにせよ、新自由主義は御用済みであり、とうに破綻した代物である。

4.ケインズ主義への回帰は成功しない。

 かくして、どちらかと言えばケインズ派である田中派―橋本派の流れは、再び、比較大きな政府を目指し、政府・国家が経済において果たす役割を増大させる路線を提案している。
 この路線は副賞として賄賂や利権構造によって政治家に金が入るという利点があり、かつ、政治家のおかげで経済がうまくいった(いかなかった)等の「やりがい」が付随するという自己満足も得られる。
 だが、過去の号で何度か述べてきたように、経済のグローバル化によってケインズ主義を貫徹しようとするならば世界政府を作り、世界中央銀行を作る以外にない。
 日本経済は短期的合理性からするケインズ主義的政策への一定の回帰のような現象を見せつつ、ケインズ主義的政策を取り続ければ大打撃を蒙るという状況に立ち至っている。換言すれば対症療法の連続という一貫性のない政策しか取りえないのであり、これに一貫性を対置するのは、夢想主義以外の何物でもないという局面に立ち至っている。
 竹中反対派が勝利し続け、ケインズ主義路線に回帰しようとすれば、現実経済から鋭いしっぺ返しを受け、政策変更を余儀なくされるということです。




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