共産主義者同盟(火花)

ブッシュ政権と小泉政権の現実について

流 広志
246号(2002年2月)所収


ブッシュ政権の性格と米帝の現在

 米帝ブッシュ政権の特徴として,外交政策におけるユニテラリズム(一方的外交主義),愛国主義,自由主義的経済政策(減税策など),宗教保守主義,等々があげられる。
 ブッシュ政権は,誕生直後から,地球温暖化防止条約京都議定書からの一方的離脱,大陸間弾道弾迎撃ミサイル制限条約からの脱退,核実験の権利の強調等々と従来の外交政策の転換を次々と打ち出してきた。そうした外交姿勢がユニテラリズムと呼ばれる。対タリバン・アルカイダ戦争においても,当初,ブッシュは,単独での早期の攻撃開始を主張したが,湾岸戦争を指揮したパウエル国務長官が,多国間外交の展開による国際包囲網の形成を優先させることを主張して,結局,単独での早期の軍事行動を思いとどまったという。米帝のユニテラリズムは,ソ連・東欧のスターリン主義体制崩壊,日帝の経済停滞後,「一人勝ち」の1990年代のアメリカ経済の成長が生み出した面がある。しかし,この繁栄は同時に没落をはらんでいた。9・11事件によって,アメリカ経済が打撃を受けたのは確かであるが,すでにそれまでに景気後退過程に入っていたのであり,事件はこの過程をより深刻にし,早めたにすぎないのである。
 ブッシュは,大統領選挙の最中に「思いやりの保守主義」を掲げてリベラル層の取り込みをはかったが,当選するやいなや,保守主義者としての本性を顕した。かれは,宗教右派やキリスト教原理主義者を支持基盤として登場したレーガンのやり方を真似ているかのようである。レーガンは,ソ連を悪の帝国と呼び,大軍拡を実行した。それと同じように,ブッシュは,タリバンとアルカイダに対して,文明と野蛮,善と悪の闘い,を呼号して,全世界からテロを一掃する闘いのためとして軍事予算を拡大し,さらにアメリカがテロ支援国家に指定したイラン・イラク・「共和国」(北朝鮮)の三ヶ国を「悪の枢軸」と呼び,テロ支援を止めなければ武力攻撃を辞さないと叫んだ。その際に,テロを地上から一掃するために闘うアメリカは神に近づいていると述べた。日本では一昨年に,「日本は天皇を中心とする神の国である」と発言して批判された総理大臣がいたが,アメリカでは,大統領がこんなことを言っても,政教分離原則に抵触する問題になっていない。
 アメリカは,現在,フィリピンにおけるアルカイダ系といわれているアブ・サヤフ掃討作戦のためにアロヨ政権と協力して,大規模な軍事演習を行い,軍事顧問と特殊部隊を派遣している。アブ・サヤフの現有勢力は,せいぜい数百人と見られており,それに対するフィリピン国軍と米軍の軍事的優位は圧倒的である。これがアブ・サヤフ掃討だけに限定された行動であるのか疑わしいし,アメリカとアロヨ政権は,モロ民族解放戦線,フィリピン共産党シソン派新人民軍を含む国内反政府ゲリラをこの機に壊滅させる狙いを秘めているのではないかと疑われる。アメリカ帝国主義が世界中で遂行しようとしている対テロ作戦には,アルカイダに限らず,共産主義勢力,民族解放闘争,反米テロ組織,等など,帝国主義政界秩序を脅かす恐れのあるもの一切を取り除く狙いがあり,そういう一般的な政治目的の一局面としてフィリピンでの軍事作戦があると見られるのである。
 ブッシュは,「文明と野蛮」「善と悪の闘い」を叫び,正義,神,を持ち出して,自らの戦争に文明間戦争,宗教戦争という色合いを与えようとしているが,それは,かれが,この戦争を,国家間戦争と異なる非対称戦争として国家間戦争と別に規定されるものであることを世界に認めさせたいからである。たとえば,ブッシュ政権は,これまで国家間戦争に適用されてきた国際ルールはこのケースには適用されないと主張して,アフガニスタンで捕捉したアルカイダ兵はジュネーブ条約で規定されている戦争捕虜ではなく,同条約で規定されている捕虜の人道的取り扱いの項目は適用されないと主張した。それに対して,EU諸国は,戦争捕虜の人道的扱いを遵守するようアメリカ政府に要求している。EU諸国は,アルカイダ兵捕虜を,ジュネーブ条約上の戦争捕虜だと主張した。結局,米帝は妥協を余儀なくされ,戦争捕虜とは認めないが,この条約上の戦争捕虜の取り扱いの規定を適用することをしぶしぶ認めた。
 ブッシュが神を強調していることは,共和党保守派の支持基盤となっている宗教右翼の問題がレーガン時代に大きな社会問題となったことを思い起こさせる。堕胎問題で堕胎を行う医師の殺害事件まで引き起こした宗教右翼は,『聖書』の記述を無視・歪曲し,それを愛国主義と結びつけた。『新約聖書』は,神への愛と隣人愛を基本的な教えとし,また「敵を愛し,あなたがたを憎む者に親切にしなさ・・・・」(ルカ,新共同訳)とあるなど,旧約的な復讐法を否定しているが,それとは反対に,ブッシュは,報復,アメリカ=神の国,戦争の勝利によって神に近づいた,と叫んでいる。アメリカこそが神に近い国であり,神はアメリカを選んで祝福している(God bless of America)というのは,彼の信仰するのは,実際にはゴッド=アメリカという愛国主義だということである。かかる『新約聖書』の神に対する冒涜を公然と行う大統領を,約80%が支持するというまさに反『新約聖書』的状態がアメリカを覆っている! 神学者の北森嘉蔵氏(かれの神学は北森神学と言われ,「日本を代表する世界的神学となった」〔306頁〕という)は,『神の痛みの神学』(講談社学術文庫)の中で,象徴symbolonという語の語源が,ギリシャ語の「結合する」symballeinであることを示した上で,「象徴は,人間的真理を神的真理と結合することによって神的真理を証することである」(98頁)「象徴は,現実が自己の固有性を維持したままで,現実を越えたものを指し示すところに成り立つ」(112頁)と述べている。そこで,氏は,キルケゴールに賛意を示しつつ,シュマイエルマッハー流の愛の神学やヘーゲルの理性の狡知を批判し,神の痛みの神学,象徴による神と人間との神秘的結合を提唱している(こうした神秘主義的な象徴的結合は,象徴天皇制との闘いを重要な課題としてきた日本の階級闘争や大衆的諸運動の立場からは,素直に受け取れるものではない)。『聖書』には,隠喩,象徴,たとえ話が多いが,実際にはその内容は,それぞれの時代の支配思想である(そうでない場合には弾圧されたりした)。そうやってキリスト教も他の宗教と同じく生き残ってきたのであり,プロテスタンティズムは近代資本主義への適応形態の一種であり,資本主義精神に他ならない(エンゲルス)のである。
 ブッシュは,神とアメリカの神秘主義的象徴的に結合させている。実は帝国主義的な愛国主義に他ならないこのブッシュ「神学」は,アメリカ帝国主義が,多国籍企業形態でグローバル化してきた現実と自己の国民経済的な限界との矛盾衝突として,絶えざる限界突破の圧力として自己に襲いかかっていることの困難の解決が暴力的なものとして立ち現れてくるという現実に囚われていることの反映に他ならない。多国籍企業の国際的世界的展開による資本の利害の防衛は,抽象的には,世界平和という理念として現れてはいるが,しかしそれは実態としてはG7・サミット,国連安保理などによる帝国主義国際秩序であり,それは,多国籍企業の世界的展開を背景とした一握りの先進的帝国主義諸国によるその他の国々に対する支配とそれらの国や地域の人々への搾取・収奪の体系としてしか存在していない。そうした現実に沿って,それを公然と推進しようとしているのが,米帝ブッシュ政権であり,それが外交政策ではユニテラリズムと言われる自国益優先であると同時に帝国主義国際秩序確立に向けた外交軍事戦略の採用なのである。そのこと,すなわち,もはや世界を完全に自らの支配に屈服させつつあるという自負こそが,神に近づいたという意味であろうし,それに敵対する文明の敵であり悪である反米テロリストを片づけることは,資本主義文明の守護神たるアメリカの崇高な使命であるということなのだろう。
 しかし,たとえば,一昨年の右派リクードのシャロン党首による聖地入りの挑発行為に端を発したパレスチナとイスラエルの衝突は,ビンラディン氏とアルカイダの反米テロの口実となったが,ビンラディン氏とアルカイダに関わりなく,オスロ合意の実行が遅々として進まなかったことが,パレスチナ人の多くに,和平への期待と幻想を失わせていったことによって,和平推進のアラファト議長派ではなく,武闘派のハマスなどへの大衆的支持が拡大したということがあるが,対外政策の面でも,闘争にさらされている。和平を停滞させたのは他ならぬシャロン・イスラエル首相自身であり,また,様子見を決め込んで,イスラエルのロケット・武装ヘリのミサイル攻撃,戦車・装甲車による侵攻,と,過剰な報復攻撃を仕掛けているイスラエルの好き勝手を放置することで,事実上,イスラエルの側にたった米帝ブッシュ政権である。それなのに,アメリカとイスラエルは,不当にも,和平停滞の責任をアラファト議長に転嫁しているが,こうした両者の態度を見て,アラブ民衆が,さらに反米姿勢を強めることは確実である。このように,アメリカ帝国主義自身が,反米テロの火種をまいているのである。

日本資本主義下の社会福祉の過去と現在,新しい社会運動について

 日本では,小泉政権や民主党,自由党などが,民営化,規制緩和の構造改革路線の大合唱をやっている。しかし小泉改革は,たんなる財政論に終わりそうな感じである。構造改革を優先させるというのが小泉構造改革の根本態度であったはずであるが,実際にやったことは,財務省の意向を反映した財政再建のためのたんなる節約策が多いことがはっきりしてきた。小泉政権誕生時に,かれは大蔵族だと指摘した佐高信氏は慧眼である。構造改革路線によって多くの人々にとって確実に負担増となる社会福祉(社会保障)の領域で,今なにが問題となっているのかを,若干であるが,検討たい。その際に,まず,1972年の一番ヶ瀬康子氏の『社会福祉の道』(風媒社)から,それ以前の社会福祉論について大まかに見ておきたい。
 一番ヶ瀬康子氏によれば,古典経済学派の社会福祉論は,マルサスが貧困問題を社会的原因によるものではなく,自然法則としてとらえる立場から「救貧法」を批判したのに対して,ジョン・スチュアート・ミルが,自由放任主義を基本としながら,分配政策を修正して貧困問題に対処すべきという提案を行ったり,ロマン主義や人間主義の立場からの古典派経済学批判があったが,その基本発想は,あくまで個々人の自助ということであり,自助の助言,あるいは自助の心がけの説教であり,貧困者に対して,心の交流の中身として,「とにかく働け,働けるかぎり働け,怠けるもの働く能力のないものが貧乏になるのだという個人的な心がけの問題に帰」(95ー6頁)すものであった。キリスト教社会主義やトーマス・ヒル・グリンの人格主義等はこういう古典派経済学に基づく自助の救貧論を批判した。また,それに影響を受け,最後にはセツルメント活動を展開したトインビーなどが現れた。その後のイギリスにおける社会福祉論は,地域的実態調査(ケーススタディ)の精緻化を通じて,実態と問題点を明らかにするという統計的分析手法をとりつつ,社会福祉教育と制度の構築に向かい,また制度としての社会福祉という視点をもったことに特徴があったとしている。そして,福祉国家化の流れを決定づけたといわれる「ビバリッジ・リポート」において,国民の基礎的ニーズの最低水準を国家が保障すべきだというナショナル・ミニマムの原則が打ち出された。それは,ラウントリーの「貧乏研究」という調査報告書で発見されたライフサイクル概念を取り入れて,社会保険を中心にした社会保障制度を主張するものであったという。それは水平分配を促進するが垂直分配には意味を持たないものであり,ライフサイクルが「生産関係から生じる賃労働の矛盾については・・認識されない」(108頁)という限界を持つものだと氏は批判している。
 アメリカの場合,イギリス以上に自助というものが強調され,イギリス型の社会福祉制度への発展がなく,COS運動・慈善組織協会の中で発展した友愛訪問活動から,ソーシャルケースワークという「一種の社会技術としての社会福祉の方法をとっていった」(118頁)。氏は,アメリカにおけるケースワーク論の特徴として,自助,自己決定,自己責任(原因を本人の不心得や無能力,精神的・心理的病気に帰すること等),心理重視主義,精神分析重視,をあげ,その欠陥を環境の無視にあると批判している。それからそれを批判したフェビアン社会主義左派のラスキの影響を受けていたリンデマンのケースワーク批判を紹介している。リンデマンは,ケースワークの統一原理を不適応な人間関係の調整におくことを批判して,社会主義の道具として最高のレベルの機能をケースワークの過程に導入すべきだと主張した。それから1950年代に,ケースワーク批判が盛んになり,ケインズ経済学者のバーンズは,ソーシャル・ワーク(社会事業)が,熟練サービス機能に専門化してきて,職務遂行の技能化におちいり,民間事業にケースワークが集中してきたことを批判した。彼は,ケースワークの基本は,社会問題への関心であることを強調した。1967年に,パールマンは,「ケースワークは死んだ」という逆説的なことを述べ,ケースワークは社会問題の一小部分を扱うにすぎず,むしろ問題の解決のためには,社会計画,福祉計画,社会政策が必要であり,それを担う社会活動家が必要であり,そして,個別具体的ケースに関わるケースワークとそれらが分業(機能分担)しつつ協業することが必要だと主張した。ついで,社会科学の知識の導入があり,フロイト精神分析学を取り入れているケースヒストリーを社会史の中に位置付ける試みが発展した。氏は,当時(1972年)の,イギリス・アメリカの社会事業・社会福祉の方法として,ケースワーク,グループワーク,コミュニティ・オーガニゼイション,アドミニスタレイション,ソーシャル・ワーク・リサーチ,ソーシャル・アクションの六つをあげ,ソーシャル・アクションからウェルフェア・ムーブメントへの発展に新たな可能性を見いだしている。つぎに,新しい社会運動の主体であるNGOが活躍しているこの領域の現状を,大ざっぱに見ていきたい。
 日本政府の社会福祉と社会保障について態度と現状を確認したい。『基礎社会学』(福村出版)の「11章福祉社会への歩み 1節 社会福祉と社会保障」によると,両者は,存在概念としては,ほぼ同義語であるが,日本政府がとっている分類では,広義の社会保障として,社会保険・公的扶助・社会福祉(狭義)・公衆衛生・恩給・戦争犠牲者援護があり,狭義の社会保障は,社会保険から公衆衛生までであり,それに,社会保障関連制度として住宅政策と雇用・失業対策がある。日本の場合,同書中の統計によると,1988年の社会保障関係費は,国の一般会計予算中18・3%を占めるが,その過半数は社会保険費であり,社会福祉費はその3分の1以下,しかもその中身は,保育所等の児童福祉施設や老人ホームの運営費などの社会福祉関係の費用と公費医療負担が中心である。また,同書191頁の社会保障関係費の推移のグラフによると,74年度から88年度までに,失業対策費・保健衛生対策費・社会保険費・社会福祉費・生活保護費のうち,大幅に増えているのは社会保険費だけである。
 現在政府は,経済財政諮問会議が昨年まとめた『骨太の方針』で,自助と事業化(効率性規準の導入),市場原理による選択の拡大などの新自由主義的な考えへの社会保障の基本原則の転換を打ち出している。『骨太の方針』が掲げる自己責任・自助原則への社会福祉・社会保障の原則転換には,年金制度で401Kが導入されたように,個人を単位とし市場原理と結びついた社会福祉・保障体制への転換を必要とするが,その場合,建て前であれ,社会の基本単位として,相互扶助システムの中核をなしてきた家族制度も個人単位へと再編されなければならない。社会の基本単位の個人化は,夫婦別姓制の現実化をも促している。しかし,こういう基本的な点での社会的な議論はまったく不足しており,財政破綻回避を優先する財務省流の節約路線や亀井静香のような家族制度の再生による相互扶助を基本にしそれに公的支援を加えるという社会福祉論などが,脈絡なくぶちあげられているのが実態である。こうした問題においても,右往左往する日本のブルジョアジーが問題解決能力を失っているのは明らかである。
 すでに,介護保険の導入によって,民間企業が介護事業の主体として参入しているが,その中で,介護福祉士の大量解雇の問題や要介護認定の規準とその実際の間のギャップとか,介護かサービスかの線引きの困難などの諸問題が噴出している。当初の予測に反して,現時点では,介護サービスを申請する者は少ない。一番ヶ瀬氏も指摘しているが,日本においては,家族主義的な発想が文化の底に色濃く残っているために,老人介護でも,家族がその主要な主体とする慣習があり,家族の面倒は家族が看るというのがいまだに一般的であって,それを社会に委ねることへの抵抗感が根強くあることがその一因にあるといえよう。民法も,家族・親族間の相互扶養義務を基本原則としている。しかしながら,現実には,核家族化・単身世帯化と高齢化の中で,家族だけでの老人介護は難しくなっている。それに対する対応として,かつて政府ー厚生省は,「レインボープラン」なる特別養護老人ホームの全国への建設・配置を進めてきたが,それも,岡光事務次官の贈賄事件に明らかなように,ゼネコン,業者,厚生官僚が利益を分け合う利権の元になっていただけであった。今度は,高齢化の進展のスピードの早いこともあって,保険方式の介護保険制度が導入されたのである。民間企業の事業参加による競争での淘汰によって,福祉サービスの向上と低廉化をはかろうとする新自由主義的・古典派経済学的な福祉政策が持ち込まれたのであるが,それは老人介護の実態とかけ離れている。これは,社会保障の経費を節約し,別のことに使いたい大ブルジョアジーの利害を背景にしている。
 従来の福祉行政では,ケースワーカーを行政官として位置づけ,かれらが訪問していながら餓死する事件が続発したことで明らかな予算の節約・最小限の福祉(ナショナル・ミニマム原理)という限界を頑なに保守するやり方やプライバシー保護などを名目としながらできるだけ消極的で最小限の保護に止めようとしてきたやり方,またその官僚主義が問題である。こうした福祉行政の在り方は,日本資本主義が英米のそれを基礎づけてきた古典派経済学的な自助の原則を模倣すると同時に家族制度に福祉分野の責任を帰してきたことによって生み出されている面がある。後者は,核家族化や少子高齢化,単身世帯の増加の急速な進行によって基礎から揺らいでおり,その上に築かれてきた日本型社会福祉制度の改革は避けて通れない課題となっている。
 ケースワークを行政の延長と位置づけてきた福祉行政とそれとの関係に新たな変化をもたらしつつあるのが,NGO・NPOのこの分野での活動の発展である。これまで,行政の延長かボランティアかは明瞭に区別されてきたが,そのどちらでもないような空間で,様々な社会運動が展開するということが起きている。たとえば,阪神大震災後の災害弱者問題の一つである仮設住宅やその後の移転先での高齢者の孤独死の続発などの孤立情況に対するケアの不足は,現行福祉行政の欠陥を浮彫にしたと同時に都市部での家族親族による相互扶助扶養体制の顕著な崩壊という社会的変化への対応が,コミュニティーにおいても福祉行政においてもできていないということを意味しているが,両者の空白地帯で,NGOは,高齢世帯への訪問活動やコミュニティー形成活動を行っている。都市部への資源集中による高コスト構造もあって施設建設に重点を置いてきた従来の福祉行政のやり方が行き詰まり,その点からも対人福祉サービスへの転換が求められていたが,神戸のNGOの活動はそれを先取りしていたともいえる。
 公的介護制度において,地方自治体ー民間企業・NGO・NPOー医療ー家族ー介護対象者などが結ぶ社会関係において,ケアマネージャー,医療従事者,行政労働者,介護福祉士,ヘルパー等々が,福祉労働の社会性の質を規定することが必要となるが,それは同時に,既存行政の延長としての行政サービスの質に対峙しつつ資本主義的自助原則をも超える社会性の水準を切り開く福祉労働の質を獲得していくことが求められている。そうでなければ,それぞれが,アメリカで進行したような,熟練技術労働の高度化に偏った技能主義と専門化による分業と協業の資本主義的構成の下に従属させられ,社会的サービス労働としての質を失い個別的サービス労働としての質に還元されてしまう。それでは,少子高齢化,さらなる核家族化,単身世帯増加,という現実に対して,個人主義的な自助原則と自己責任原則によって社会的な福祉サービス体制を解体していったレーガン時代のアメリカ,サッチャー時代のイギリスで起きたことが進むだけである。それはプロレタリア大衆に不利益をもたらすだけである。それに対して,アメリカなどで,NGO・NPOが大量に生まれていることで明らかなように,社会連帯的で社会主義的(あくまで「的」)な社会性の質が発展していることに着目しなければならない。
 他方で,かかる社会運動には政府外務省を襲ったアフガニスタン復興支援国会議へのNGO参加排除問題に現れたように,そこで不断に発生する政・官・業が絡み合っている官僚的空間と社会的空間とのあつれきの解決をどうはかるかという政治課題が問われる。当事者が焦眉の課題として意識しないにしても,それは社会運動がプロ独という領域に自然発生的に突き当たっていることを意味している。それを存在しないかのように無視し続ければ,日本共産党系の発達保障論が,施設制度行政に組み込まれてしまい,ブルジョア官僚独裁機構の一翼を担うだけにすぎなくなっているように,社会運動はブルジョア的な社会性の質を越えられないし,この壁の前で足踏みし,それに包摂されるだけである。日共は,新自由主義的な自助原則の福祉社会論にたいして,ブルジョア独裁官僚機構の一環に組み込まれている既存の施設制度を軸におく福祉行政体制を守り,その民主化を対置しているにすぎない。それは「元の主人か,新しい主人か」の選択にすぎない。したがって,それが,弱々しい改良以上の社会前進を生まないことは明らかである。

日本の政治・外交・安保・アフガニスタン・NGOの現状と任務について

 アメリカの対タリバン対アルカイダ戦争をいち早く支持し,たいした国会議論もしないまま,「反テロ特措法」「自衛隊法改悪」を強行した小泉政権は,有事立法法案の今国会での提出に動いている。しかしながら,カンボジア復興会議へのNGOの参加をめぐる外務省・自民党外交族鈴木宗男衆院議員と田中外務大臣の対立問題を,外相更迭,野上事務次官更迭,鈴木宗男議員の議院運営委員長辞任で切り抜けようとした対応が世論の批判を浴び,小泉政権の頼みの綱であった支持率が大幅低下して政権基盤が弱体化し,その行方に暗雲が立ちこめてきた。
 この問題で,野党第一党の民主党は,もとから有事立法推進を一貫して主張してきており,「反テロ特措法」をめぐって党内の旧社会党系の横路グループがようやく反対の声をあげたとはいえ,この政策に対しては,基本的には賛成のスタンスをとるものとみられ,根本的に小泉政権と対決できないことは確実である。それを支えているのは,自由と民主主義の価値を礼賛する自由主義的な「連合」労働運動である。しかし,その組織率は過去最低を更新中であり,大企業でのリストラの進行によって,減少傾向にある。失業者・半失業者を含む未組織労働者は今や「連合」系の組織労働者数を圧倒的に超える労働者の多数派になった。この多数派を代表する議会政党はない。「連合」が労働者の代表のような顔ができるのは,労働者の一定部分を組織していることに基づいているにすぎない。労働者の多数を組織することによって「連合」の自由主義的労働運動に対抗しうる共産主義と結合した労働運動の発展の可能性が切り開かれるだろうが,同時に,今や労働者の少数派になった「連合」内から労働貴族・労働官僚を追放することで,共産主義と結合した労働運動への転化を促すことも必要である。「連合」が掲げている自由と民主主義の価値を,ブルジョア自由主義的な資本の自由と抽象的形式的平等という民主主義ではなく,資本とその国家と闘う自由,実質的な平等を内容とする民主主義を対置することが必要である。
 つぎに,田中外相更迭の原因となったアフガニスタン復興会議参加問題で注目されたNGOと政府の関係について見てみたい。直接の当事者となったNGOは,大西氏を代表とする「プラットフォーム」系の「ピースウイング・ジャパン」である。かれらは,アフガニスタン難民にテントを送るなどの活動を行い,タリバン崩壊後いち早くアフガニスタンに入って北部同盟の最高幹部との関係を築き,日本からの議員の視察の案内や設定役を努めていたようである。かれらは,外務省から援助を受けるなどの関係があり,現地の実情にも詳しいことから,日本でのアフガニスタン復興会議に参加の予定となっていた。ところが,かれらは,大西氏が朝日新聞の記事でお上(政府)批判を言ったことに激怒した鈴木宗男議員から呼びつけられ,「政府を批判するなら税金はやれない」などと恫喝された上,鈴木議員の圧力に屈した外務省幹部から会議への参加を拒否された。それにたいして,田中外相は,この決定を覆し,2日目から参加させた。それが,田中外相と大西氏らの証言から見た経過である。鈴木議員は,自らの発言権や影響力や利権が脅かされると感じて,NGOを外務省から遠ざけ,排除したかったのだろう。
 他にアフガニスタンに関わっている有名なNGOとしては,中村哲氏が代表をつとめる「ペシャワール会」がある。この組織は,以前から,アフガニスタンで難民への医療活動を行ってきた。特徴的なのは,カンパを募って活動費としていることで,政府や国家機関から独立していることである。中村氏は,政府を批判し,公然と反戦を主張しているが,それは政府や行政からの援助に頼らず,自分たちの手ですべてを行っているという活動の政府行政からの独立への自信といったものがうかがえる。氏は,アフガニスタンでの英米などによる空爆を「かえって難民問題を深刻にする」と批判し,戦争反対という態度を明確にした。難民の救済や反戦という点では,「ペシャワール会」の立場は明確であるが,アフガニスタンの歴史的課題についてどう考えているのかは見えてこない。内戦の終結と平和は,重要な課題であることはいうまでもないが,その原因については,民族間の不和や軋轢,武器の拡散,貧困一般としてしか語られていないように思われる。私自身が,アフガニスタンの階級階層関係,生産力と生産関係,所有関係などがよくわかっていないので,あまり他人のことを言えないが,それでも農村における族長制の存在やそれが武装して小軍閥を成して部族単位で行動する姿が見えてきている。そこには,農業における封建的諸関係や地下に張り巡らされた水路の存在からは東洋的専制の基礎をなす潅漑施設の支配の問題等々が絡んでいるかに見えるということはある。もしこれらのことが事実とすれば,アフガニスタンの歴史的課題は,封建的生産関係の打破であり,それを実現すべき政治勢力が必要である。アメリカ帝国主義が帝国主義としての本性を露にしたのは,アフガニスタンにおいてかかる課題を徹底して遂行しうる勢力ではなく,封建的族長的地方軍閥の首魁の国王側近のカルザイ氏を暫定連立政権の議長(首相格)に据えたことである。なるほど,イランにおけるパーレビ国王のように,王政下で上からの近代化を強行した事例があり,必ずしも,王政イコール反近代派の反動というわけではない。天皇制の下での近代化を経験している日本の例は周知のとおりである。しかし,パーレビの上からの近代化は,自らの特権と利権を拡大させ,犠牲を一般民衆に課すだけの過酷な収奪体制にしかならず,イラン革命によるイスラム体制にとってかわられたのである。
 アフガニスタンをくり返し復古に導いた構造と力の源泉は,農村社会を支配する生産関係にあると推測されるが,それを無視して,都市部に注目し,タリバン政権によるブルカ着用の強制や教育からの排除などの女性への抑圧政策を非難する欧米人権派は,自分たちの優位や先進性の高地から後進地域を見下しているのである。女性への抑圧・差別を解消するためには,かかる現象を再生産している構造と力の源泉である生産関係とそれに対応した政治・社会関係,支配構造,階級階層関係をとらえ,全面的に社会変革することが必要である。一部の女性抑圧現象をきわだたせて退治しても,真の解決にはならないのである。フェミニズム運動の発展にも関わらず労働力として必要な限りでわずかに進んでいるにすぎないのに,物的条件の成熟していないアフガニスタンのような国や地域の女性差別や人権侵害を一方的に居丈高に非難する欧米諸国の態度は傲慢である。
 北部同盟が,アフガニスタンの生産関係をどうしようとしているのかはまだよくわからない。暫定政権が掲げているのは,工業化と農業への投資促進といったことで,外国資本を積極的に導入して,カルザイ氏が「援助を受けるより与える側になりたい」と言ったように富国をはかるということである。それは,現在の社会構造と経済関係の下では,近代化の方向に向かうよりも,地方軍閥や族長の利権に結びついて復古への物質力となる可能性の方が高いのではないだろうか。そのへんをよく見極め,踏まえた上でのアフガニスタン民衆との連帯・支援活動が求められているように思われる。

 この間,帝国主義と軍事の論理が前面に出ているようになっていることは誰の目にも明らかである。アメリカ帝国主義ブッシュ政権は,9・11事件に対する報復に際して,宣戦布告なき,21世紀型の新たな非対称な形態の対テロ戦争への突入を宣言した。しかしそれは実際には,すでに対ゲリラ掃討戦などでこれまでも行ってきたLIC・LIWの大規模化な発動にすぎない。こうした米帝の軍事作戦・戦争にどのように協力するかが日帝小泉政権の「反テロ特措法」のテーマであった。それに対して今国会に法案が提出されようとしている有事立法は,日本有事の場合の法整備と日米軍事協力を規定する法案であり,日帝は帝国主義大国としてふさわしい軍事体制を整え,実効性の高い軍事力をもって,その利害への脅威や動揺に対処し,威嚇力を増大させようというのである。その対象に,資本主義的帝国主義を打倒せんとする階級闘争に立ち上がる国内外のプロレタリア大衆と共産勢力がある。主に朝鮮半島有事を想定した「周辺事態法」,それに「反テロ特措法」の「反テロ法」化が加われば,世界におけるあらゆる地域での軍事行動に参加できる体制が整備される。プロレタリア大衆は,かかる支配階級の戦争策動と革命鎮圧策動を阻止し,あらゆる分野で社会革命の潜勢力を掘り起こし,それと結びついて,政治革命,文化革命をともなう社会革命を前進させなければならない。




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