共産主義者同盟(火花)

2001年9月11日−そしてそれから

早瀬隆一
243号(2001年11月)所収


 何か文章を書かねばと思い立ったものの、今だ論旨を整理できずにいる。進行している現実は単純にも錯綜したものにも見える。以下、とりあえずの断片的メモとして読んでいただきたい。

 私にとって問題を錯綜したものとしているのは、9/11の行為(以下<9/11>と表記)がこれまでの論理では解読不可能な地平に存在し、しかもその特異さが一方で今日の現実世界そのものの反映であることに因っている。<9/11>をどうとらえるべきなのか、我々が創造すべき社会あるいはそのための戦術観に照らして、今、何をどう語るべきかがうまく整理できないのである。

 左派の主張を散見するかぎり、<9/11>の行為に対して倫理的・良識的見地から批判するもの、帝国主義・資本主義の<悪>の暴露に力点を置き結果として<9/11>への批判・評価を後景化するもの、その現れはさまざまである。

 今、多くの人々は「報復戦争は問題を解決しない」ことを認識しつつも、「別の解決方法」を見い出せず、不安のうちに推移を見守っているかに思える。アメリカ政府によるアフガニスタン軍事侵攻が国家による報復テロであり、なんら「正義」を体現するものでないこと、なんらの「解決」も結果しないであろうこと、このことは明白であり、かつ多くの人々が認識していることである。求められているのはこの間の事態の直接の起点(実際には報復の連鎖の一断面)である<9/11>への階級闘争の側からする明確な評価ではないだろうか。

 <9/11>の実行主体が、どのような目的を持ち、どんな未来を展望しているのか、何らの「声明」も出されていない現状においてそれは定かではない。にも関わらず、世界貿易センタービルとペンタゴンという破壊対象が<9/11>の反米闘争としての輪郭を指し示すという構造をもっている。人々はそれぞれの立場に応じて<9/11>に自らの世界認識を投影させているかに見える。

 直感的な印象を語るならば<9/11>とその後の事態はまるでハリウッド映画のようであった。TVセットに映し出されたスペクタクルがそうだというだけではない。スーパーパワー対スーパーテロルという図式そのものが安直極まるハリウッド映画なのだ。少なくとも私にはそこから何らかの変革の未来や希望を抽出することはできない。極度に抽象化された<アメリカ>なるものが<9/11>における破壊の対象であったかに見える。その行為において政府と民衆の区別あるいは階級階層の諸関係は全く問題にされてはいない。そこでは<アメリカ>にまつわる一切のものが攻撃の対象であるかに見えるのだ。そこから紡ぎ出せるのは<変革の論理>ではなく<戦争の論理>である。もとより抑圧−被抑圧の関係は考慮されねばならない。資本主義・帝国主義が歴史的に形成してきた抑圧−被抑圧の連鎖のうちに人々は組み込まれている以上、現実世界において「無関係な人」なるものは存在しない。しかし、変革の過程のなかで我彼の関係が止揚されていく可能性、この可能性をあらかじめ捨象したところにいかなる世界が獲得されるというのだろうか。<9/11>の行為からは他者との関係性の契機があらかじめ遮断されているように思えるのである。破壊のための破壊、報復のための報復、復讐のための復讐、と裁断するのは言い過ぎであろうか。もとより<9/11>の実行主体をかかる行為に追いこんだのは帝国主義・世界資本主義の日々作り出す現実である。<9/11>の行為を生み出す必然性を生み出す根拠を帝国主義・世界資本主義−わけても今日のグローバリゼーションの進展−は有している。しかし、このことは<9/11>の行為の当否とは区別して語られるべきであろう。もし9/11テロルに意味があるとするならば、この資本主義世界が憎悪・暴力・戦争等と不可分の絶望にまみれた世界であること、このことを北の世界に生活する人々に「ささやかな絶望の贈り物」をもって指し示したことであろう。しかし、それとて肯定的な事柄ではない。<9/11>は憎悪・暴力・戦争を拡大させることにしか繋がらないからである。否、むしろそれこそが<9/11>の目的のようにすら思えるのだ。目指すべき社会とそのための戦術観を基準として判断するかぎり、私には<9/11>を認めることは全くできない。
 
 少なからぬ左派の人々が、グローバリゼーションの進展に伴う第三世界民衆(わけてもパレスチナ民衆)の絶望的現実を<9/11>の背景として指摘している。「声明」もない現状において定かではないものの、これらの指摘は概ね誤ってはいないだろう。帝国主義の<悪>を暴露し被抑圧者の側に立とうとする人々の姿勢を私も共有する。ただし私たちは慎重に語らねばならない。<9/11>が第三世界民衆の利益を代表する行為だとは認められないし、第三世界民衆の現実は螺旋的に<9/11>に行き着くというものでもない。そもそも第三世界の民衆のなかに存在するのは絶望だけではない。現下に進行するグローバリゼーションの現実、にもかかわらず、それに対抗する社会的営為が変革の息吹として脈々と展開されている。スーパーパワー対スーパーテロルという図式の引き合いに第三世界民衆を出すこと自体が、彼/彼女らへの冒涜のようにも感じられ、私は筆が止まってしまうのである。

 <9/11>の実行主体はイスラム原理主義急進派だと言われている。イスラム原理主義に少し言及しておこう。イスラム原理主義諸勢力は帝国主義・資本主義に対する戦闘的な「対抗勢力」として現に存在している。アラブをはじめとして少なからぬ民衆がそれを支持しているのも事実である。しかしなお、イスラム原理主義諸勢力を評価するいかなる理由も私のなかにはない。彼らの思想・運動のうちに私の求める社会はないからである。朝鮮労働党に対する見地と同様、帝国主義との対抗関係を基準に物を見ることはできない。創出すべき社会、実現すべき社会こそが基準とされねばならないと思うのである。論証抜きに言い放つならば、イスラム原理主義は歴史の反動であり、資本主義を揚棄していくものではない。イスラム原理主義諸勢力の台頭を許していること、ここに我々を含めた共産主義運動の混迷と立ち遅れを見ないわけにはいかない。目指すべき革命社会の在りよう、そのための戦術観etcを巡る議論と実践のなかで、共産主義運動の解体と再生が早急に求められている。

 留意しなければならないのは、<9/11>とその後の推移のなかで、世界史が後方へと押し戻されつつあるかに見えることである。そこでは揺らぎ瓦解しつつあったものどもが、一転、その存在を誇らしげに主張せんとしているかに見える。それは例えば、国家の論理、戦争の論理、権力者による意志の占有、軍事による問題の決着etcといったものどもである。国民国家・民族・宗教の枠組の復権と言ってもよいかもしれない。スーパーパワー対スーパーテロル、ブッシュ、ビンラディン、タリバンetcこれら合せ鏡のような登場人物によって形作られる<土俵>そのものを無化する運動の質が求められている。

 資本主義・帝国主義の歴史がおしかぶせてきた我彼の関係−政治的・経済的・文化的関係−をときほぐし止揚していく社会的営みは、現実の政治過程の進行を前にして、あまりに脆いものであるかに見える。しかし、迂回路であれかかる社会的営為にしか問題を根本的に解決していく方途はないように思う。現下の推移に抗しながら、国民国家・民族・宗教の枠組を超えた(無化する)諸個人の多様な協働を促進していくこと、このことが迂回路ではあれ、また火急の回答にはならないとはいえ、やはり堅持すべき方位であろうと思うのである。

追伸 かのシュトックハウゼンは<9/11>を「宇宙全体で想像しうる最大の芸術作品」と評し物議をかもしたという。なんとなく理解できるのだ。あの日のニューヨークの光景、私もまたその光景を<美しい>と感じた。抽象化された<アメリカ>なるものへの「ザマーミロ」との思いが交錯するうちにである。崩壊するツインタワー、私たちはその瓦礫の下に具体としての数千におよぶそれぞれの<生>が埋もれていることを見ないですますこともできる。ちょうど「軍事報復」を支持する人たちが、空爆の下に生きる数千・数万の<生>を想像力の範疇外に置けるようにである。しかし、具体としての<生>の織り成す諸関係の在りようを抜きに<変革>の現実性は存在しない。今、私はそのように思う。




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