共産主義者同盟(火花)

米国への同時多発突撃にみる帝国主義の論理破綻

渋谷一三
241号(2001年9月)所収


1.<我々の態度>

  1. 今回の突撃を支持することは出来ないが、理解はする。
  2. 小泉首相の米国支持に、断固反対する。
  3. 自らテロリズム国家である米国に今回のテロリズムを批判する一切の資格はない。

2.

 今回の突撃による死者は数千人に上ると言われている。おそらく、そうなるだろう。そのほとんどが一般市民であり、警官や消防士なども救出活動にあたっていたのであるから、戦闘員ではない。
 テロリズムだと規定するときも、テロリズムを非難するときも、その基準となっているのは、非戦闘員が巻き添えになっているという点である。
 今回の事件はこの「基準」の欺瞞性と無効性をあからさまにした。
 真珠湾50周年の際、米国の主論調は「原爆投下は、戦争を早く終結させるために有効であったし、これによって多くの貴い人命を救った」というものだった。この論調は現在も引き継がれ、エノラゲイの保存運動がその功績を讃える立場で公然とこの8月に動きを強めた。
 さて、原爆は一般市民を巻き添えにはしなかったのか。否。数十万人の民間人が直接に殺害された。民間人が巻き添えになるのをテロリズムと規定するのであれば、原爆投下は明らかにテロリズムであり、米国は原爆投下に対する深刻な反省とその明確な否定なくしてテロリズムに反対する資格はない。
 この事情は何も51年前に遡る必要もないし、もっと前に遡ってもよい。要するに、米国は一貫してテロリズム国家であり、テロかテロでないかを決定しているのは、米国の勝手な判断にすぎない。
 湾岸戦争ではどうだったのか。米国はトマホークを数百発打ち込み、それをミサイル搭載のカメラで全世界に中継することまでやってのけた。夜間のミサイル打ち込みは、それがいくら巡行ミサイルであっても、誤爆は避けられず、さらに誤爆がないとするなら、なぜ数百発も打ち込む必要があったのか。一般市民の多くが犠牲になったとするイラク政府の発表はデマとされ取材をしてくれと懇願する民間人の懇請に、メディアは何らかの規制があったのか、報道をしなかった。
 この時、米国はフセイン大統領の殺害を狙い、大統領官邸およびフセインがいそうな全ての場所にミサイルを打ち込んでいる。
 この時の米国の人的被書はゼロであり、このことによって当時の統合参謀本部長だったパウエルは今日国務長官に就任している。特攻隊なしにテレビカメラ搭載の巡航ミサイルによって気楽に見物しながらゲーム感覚でこうした攻撃をしていたのである。
 今回のみならず、アラブの攻撃はその貧しさゆえに、特攻以外に対抗手段を持たない。ところが、特攻攻撃には死を覚悟した優秀な人材が確実に失われる。米国のような気楽さで殺人ゲームを愉しむ「余裕」などない。真率な緊張が特攻隊員に求められる。
 この相違は大きい。湾岸戦争後も97年にアフガンに巡航ミサイルを打ち込んでいる。これもラディンさんの殺害を狙ってである。この構造が、宗教の相違によらない証左に、イスラエルも全く同じことをしている。
 01年8月、イスラエルはPFLP議長の暗殺を狙って、事務所の建物にミサイルを打ち込み、議長ごと殺害に成功している。対するパレスチナ民衆は投石で対抗するしかなかった。
 米国やイスラエルの二重基準(ダブルスタンダード)は明らかである。
 テロ非難を言わない限り「非国民」扱いを受けるヒステリー状況(ヒステリーという用語は今日女性の病気には使われていないので、差し支えはないと判断している)こそ問題にすべきである。
 イラン革命時にアメリカ大使館が占拠された際、米国内のイラン人が迫害されたが、今日13日、米国在住のイスラム教徒への集団レイプ・暴行・子どもへのいじめが報道されている。これは立派なテロリズムではないのか。
 そして、プッシュは報復テロを早々と宣言している中。彼の父親はフセイン大統領に対して「俺のケツの穴にキスしろ」と言い放った。その息子の大統領もまた「邪悪なケツの穴」とラディンさんに言い放っている。この品のない発言が親子で繰り返されるのは決して偶然ではなく、自らに逆らう者は悪人であると規定して疑うこともない傲慢さ、米国の傲慢さが体現されているのである。
 アフガンに、ラディンが「犯人」であろうがなかろうが、打ち込まれるであろうミサイルによる「報復攻撃」はテロリズムではないというのだ。
 以上、見てきたように、一般市民を巻き添えにしたか否かということは、テロリズムかどうかの基準にはならない。

3.

 攻撃の手段として武器ではない旅客機を武器として使用したのは許されない非人間的なことなのか。
 非難する人々の第2の論拠はおそらくこの点にある。
 武器を持っているばかりか国家を持っているテロリストに対抗する側は貧しく小火器ぐらいまでしか持っていない場合はどうするのか。本来武器でない旅客機を武器にしえたのは発想の転換であり、それ自体への価値判断を差し挟まねば柔軟な発想といえる。
 だが、目的はどうであれ手段を選ばないのは悪であるという命題を正しいとすると、いくら自己の命を犠牲にするからといっても許される行為ではないことになる。すると、パレスチナやアラブ側はやられ放題ということになる。このジレンマはどうしたらよいのだろう。
 もし、攻撃側を非難するのであれば、論理上、同じ強さで米国の巡航ミサイル廃棄を主張しなければならず、やられる側の対抗の手段の是非を論じるならば、全ての兵器の廃絶を主張しなければならない。そうしないのであれば、強い側の力の支配を容認し賛美しているだけのことである。
 今、突撃を非難する人々の中に、こうした真剣さで全ての武器の廃棄を主張している人々は見当たらない。ということは、これらの人々自体もまた自らの支配に気付いていないほど純感な一般市民気取りの傲慢な人々であると断定できる。
 一般市民は軍人によって守られるべき崇高な人々であり、軍人には攻撃をしてもよいが一般市民には手出しをしてはならないと主張しているのと同義である。ゆえに、米国内イスラム教徒への迫害などが平気でできるのである。

4.ピッツバーグの1機は墜落したのか撃墜されたのか

 編集されていない報道は時として真実を意図せずに報道してしまう。
 ペンタゴンの高官の談話として、炎上しているペンタゴンにさらにもう1機が接近中であり、これに対してファントム1機が迎撃に入ったと報道された。
 1機と思われた世界貿易センターピルに2機目が突入した直後であり、ペンタゴンあるいはそのそばのホワイトハウスにもう1機突入がありえると判断するのが妥当な時点での報道であった。その後、このことに関する報道は一切なくなり、しばらくして、ペンシルペニア州に1機が墜落した模様となり、2日後には乗客が決死の操縦室突入を図った模様と変化する。
 私は、90%以上の確信をもって、この最後の1機は撃墜されたと思っている。
 この時点では、航空機の衝突は衝突ではなく、突入だということがはっきりし、全ての航空機の発着を禁じて不審な航空機の残存数を数えることが出来ていた。だからこそ、急旋回しワシントン方面にむかった1機が浮かびあがったのである。
 この1機が突入するのを乗客の安全のために黙って見過ごしていたと考える方が妥当だろうか。否。私が大統領の立場であるなら迷わず撃墜を指示する。乗客を救出する手段はない。さらに犠牲者が出る。私なら、公然と撃墜を指示する。
 なのに、撃墜したと言えないのはなぜか。
 撃墜したと言えば、テロリストの卑劣さを非難できないという判断が働いたのであろう。その意志統一に時間がかかったために、「墜落した」というシナリオで発表するまでに時間がかかったのであろう。
 確かにそうである。目的のために手段を選ばないと言えなくなる。ホワイトハウスを守るために自国民を含め乗客を殺害したのだから、自国民主義の装いも生命尊重の化粧もできなくなる。「やむを得なかった」とでも言おうものなら、突撃側はもっとやむを得なかったのである。それが証拠に、突撃する側は自分も死んでいるではないか、と。
 おそらく50年後以降に、実はあの時は撃墜したのだったと発表されることもあるかも知れない。そのくらいのトップシークレットとして、明るみにでてくることはないだろう。
 この点でも米国は矛盾している。(注 墜落したのであれば尾翼部分が残る。米はこの機に関してのみ、映像を公開していない。立ち上る煙のみ、映している。)

5.

 こう検討してくると、今回の攻撃が米国によって非難されるべきものではないという結論に至る。その通り。米国によって非難される何らのいわれもない。米国がもし、非難したいのであれば、自ら行ってきた報復という名のミサイル攻撃や湾岸戦争という名の殺戮を悔い改めて、はじめてこのような闘争形態・戦闘形態を批判する価値観を守る戦いと言いうる。
 今の米国は、突撃側と同じ土俵でのそれも圧倒的な優位を持ったうえでのテロリズムを公然と反テロリズムの戦いなどと称しているだけの国家である。敵のテロリズムを生み出させたのは、みずからの圧倒的に強いテロリズムなのである。米国という強力なテロリズム国家が、それと戦おうとするものの一部にテロリズムを発生させたということである。
 テロリズムの複製という意味では、米国は見事に自己の複製を作ることに成功している。

 では、わたしたち自身が米国に対抗するために、今回の突撃隊のような戦術を取るのかと言えば、そうはしない。米国を批判してきた論理上、そうしないという立場をとるのは自明のことと理解していただけると思う。
 だが、米国に対して今回のような闘争戦術を取った人々に対して米国を擁護するいわれは全くなく、むしろ逆に、最大のテロリズムに対する戦いの上での闘争戦術の是非を問う論争課題とする。言い換えれば、米国に戦いを挑んでいる人々の側に共感する。
 パレスチナの人々が街頭にでて歓喜していた。我々もまたその側にいる。

6.突撃側は原発施設を狙わなかった

 人道のひとかけらもないかのように報道されているが、大量殺戮そのものが目的であるならば、原発施設に突入するのが最も効果的である。だが、突入側は原発施設は狙わなかった。できるだけ正確に米国がしていることをなぞった。米国民よ、自分たちがしていることはこういうことなんだよと語りかけでもするように。

7.米国が育てたラディンさん

 もし今回の突撃がラディンさんの指揮によるものとしたところで、そのラディンさんはソ連のアフガン侵攻に抵抗するゲリラ組織を立ち上げようとしていた米国とサウジアラビアによって実に200億ドルもの巨額な資金を受けて、ゲリラ組織の結成をした人物である。
 こうした意味でも米国自らがテロリズム国家であり、自分の育て上げた組織に、そのミニチュアに反抗されただけとも言える。
 このような人物に我々は共感を感じることはできない。

8.

 以上を要約すると、
  1.「今回の突撃を支持することは出来ないが、理解する」
  3.「自らテロリズム国家である米国に今回のテロリズムを批判する資格はない」
となる。

9.米軍の侵攻が開始された

 米国は早々とラディンさんを犯人と決め、「Not a single action. It will be a campaign.」として、今回の報復を掃討戦と位置づけている。さらに「支援している部分の無力化」を宣言し、タリバン政権の打倒を決めている。
 98年のようにミサイルを打ち込むだけでも、結局は個人に命中させることなどできないのだから、「誤爆」の山を築くだけなのだが、今回のように侵攻作戦を展開するとなると米国における犠牲者の数をはるかに上回る犠牲者が予想しうる。さらに、タリパン政権の転覆までを目標にしている以上、十数万人規模でで犠牲者がでるものと予想できる。
 すでに米軍の侵攻の下ならしとして、アフガンに展開していた国連職員およぴNGOの人々がアフガンからの撤退を完了した。また、パキスタン−アフガン間の国連の航空機の発着も禁止され、飢えたアフガン難民に食料を供給しできた活動は突然中止させられた。
 このことはもうすでに、米国の報復によってアフガンの「無辜の人民」が死に追いやられ始めたことを意味する。米国の自己中心的人道主義の正体とはこんなものだ。
 小泉さんは、こうした状況の展開が始まる前に早々と米国支持・支援を声明してしまった。またぞろ130億ドルもの戦費を出してあげながら馬鹿にされた湾岸戦争の二の舞をやっている。
 ことの是非の判断は別にして、米国に要請されるまで勿体つけるのが外交の常識というものだが、このレベルの判断すらなく、激情に駆られて、最大限の支持を表明してしまった。ブルジョア政治の枠内ですら失政である。
 だが、小泉さんの本質が露呈していることの方がより重要である。
 すなわち、米国に対する攻撃を分析抜きに自己への攻撃と同質に受けとめる点である。帝国主義へのいかなる物理的反対も許さない。その反対が口先である限りは許すが、有効な打撃を与えるような一切の行為は許さない。こうした体質が、分析する余裕すら失わせブルジョア政治的に見てすら失政である今回の発言を招いた。
 この結果、在日米軍基地が次の再報復のターゲットになる可能性が生じた。日本の関与の度合いが高くなればなるほど、この危険性は増す。
 自民党は在日米軍基地を自衛隊が守れるよう法「改正」を画策し始めた。日本を守ってやると言っている軍隊を日本の軍隊が守ってあげるという戯画を成立させようというのだから、三度、諸外国の失笑を買うというものだ。米国の核の傘の下に入ることを意味した日米安全保障条約は、その性格を変え、危険分担条約となる。NATOやANZAS同盟と同じ性質のものに変化する。
 そのNATOやANZAS同盟は米国の要請を受け、いち早く「加盟国のいずれかの国に加えられた攻撃は同盟国全てに対する攻撃とみなす」という条項を初適用し、今回の報復戦への参加を表明した。
 小泉発言が客観的に目指すものは、これである。日米安保条約のNATO化とでも表現しておこうか。
 日米安保が米国の核の傘の下に入ることを悪味した60年代、安保反対運動があれほど盛り上がったのは、もしこれを容認すれば、反核運動が急速に国際的影響力を失うという事情が論理的にあった。事実、これ以降、原水爆禁止運動は国内的にも分裂し、国際的影響力を漸減させ、遂に、原爆の投下は正当であったとする米の居直り発言を許すまでになった。
 今日、事態はこの域を担え、軍事同盟の性格を帯びようとしている。日本政府は、軍事的貢献が出来ないと言っては腑甲斐なさがるだろう。そして、少しでもいいから軍事的貢献のできる「普通の国」になれるよう、悪法改正をキャンペーンしていくこととなろう。
 こうした点からみて、今回の小泉発言は断固糾弾していくべきである。

10.その後の状況変化

1. 9月19日現存、アフガンのパキスタン国境沿いには、すでに10万人を越す避難民が集結している。犠牲者は国連の食糧援助を打ち切られ餓死線上をさまよい始めた人々に続き、国境の外に戦火を避けて避難することを余儀なくされた人々、避難したくても国境を越える財力を持たずにただ待ち続ける10万の人々と拡大してきた。
 米国への憎悪はまますます激しくなるだろう。アフガンの人々は「一般市民」ではないのだからどのような目にあってもよいのだと事実をもって宣告されているのだから。
 この点でも米国の論理破綻は明らかである.罪刑法廷主義・証拠主義は資本主義世界に生きる一般市民には適用されても、イスラム教徒には適用されないということ。民間人を死亡させたことは対米国上は許されない悪であるが、米国が他国の民衆に対して行う場合は正義となるということ。
2. ピッツバーグの「墜落」機に関して、それがばれた場合の準備を始めた。17日付けで各紙は、ワシントンが攻撃される場合撃墜指令を出していたと報じ、談話を掲載した。ピッツバーグで「墜落」した機はそのまま進めば確実にワシントンについた。あと数分の距離である。撃墜指令が出ていたのに撃墜されず、偶然、撃墜直前に墜落したのだそうだ。こんな、まわりくどい説明を誰が信じよう。
 撃墜したと発表すれば、「止むを得なければ撃墜は正当である」という論理を認めることになる。今回の自爆グループは自らの命を断っているのであり、死の100分の1秒前まで舵を切り、正確に当たるように努力していた立派な人たちである。もっと止むを得なかったのであり、正当化される。
 すでに、熱狂的報復熱に米国民の93%が感染した以上、今度は、撃墜したのに墜落したと偽りの発表をしていたことが暴露されることの方が、ダメージが大きい。用済みの嘘はそれが暴露された時の衝撃の方が大きいのだから、今度は撃墜したのだと暴露されてもよい土壌作りに乗り出したという寸法だ。
3. 小泉政権は、自衛隊の「自衛」の範囲を際限なく広げ、その「普通の」軍隊化に本格的に乗り出そうとしている。日本が米国と同種の帝団主義国であることを強く意識しているのは当然としても、帝国主義国家だから米国のようにやりたい放題に他国にミサイルを打ち込み、反発を買うという政治までそっくり真似なければならないというものでもない。フランスは老舗である。NATOに言及することで「米国との完全な連帯」を口にして、さんざん Lip Service をするが、自国としては具体的には何もやらない。そういう口先だけの態度だと相手に分かってもらってよく、その煮え切らない態度への怒りからフランスに米国が要求したり、頼んだりすることを狙って待っている。エッフェル塔にエール・フランス機は突入しなかった。
 小泉首相は余程、日航機が霞ヶ関に突入してほしいようだ。そうすれば、族議員も一掃できてうれしいからだろうか。
 フィリピン民衆はその大衆運動の高揚をもってして、アジア最大の最重要の米軍基地を撤去することに成功した。日本の米国の戦争への加担によって襲撃対象となる可能性の高まった米軍基地撤去闘争を発展させ、小泉の推進しようとしている反人民国家化の路線も粉砕しなければならない。

11.イスラム原理主義はなぜ発生し、発展しうるのか

 ドイツ首相の言葉によれば、「文明社会」であるところの欧米的価値観に支配されている資本主義国家は、「多様性の尊重」などという言葉で糊塗しようとも、どうしようもない価値観の崩壊に苛まれている。
 人の命の絶対化も臓器移植・臓器売買の現実の中で揺らぎ、米・日を中心にかつて有り得なかった型の犯罪の多発に喘いでいる。性は完全に商品化され 青少年の買売春はかつてない規模で普遍化し、中高年世代もまたネットを通じて婚外交渉にいそしむ人々が増え「愛−家族」といったものが今日ほど不確かで不安定な時代はない。
 資本主義の拡大と深化により、とりわけサービス業の拡大により、人間生活のほぼ全領域が商品化された。20世紀後半までは、資本主義への絶望を社会主義が担ってきた。だがスターリニズムの崩壊・計画経済なる経済を無視した経済体制による経済の崩壊などにより「社会主義国」は崩壊し、不断に生み出される資本主義への絶望を吸収するイデオロギーがなくなった。
 米国的価値観への絶望は、とりわけ米国によって経済的に収奪され、その文化を破壊される途上にある地域・国家においては、顕著に、むしろ直観的に認識され得る。この地域こそ、イスラム文化圏とかなりの程度で重なってきた。だからこそ、これらの地域で、資本主義への体系的批判はできないものの、資本主義でない別の道(オールタナティブ)を模索する直感的運動が興隆してきた.それこそが、イスラム原理主義である。
 女性の売春婦化に対して、一旦中世の様式に戻ることを提唱し、ペサルを復活させる運動が照応する。金を稼ぐことが唯一価値の基準になる資本生義の現実に対して、弱者を救済し、精神的に豊であることに価値の基準を置く運動が照応する。
 人類史的にみれば、資本主義が行き詰まった時、資本主義はもはやそれ以前の人類史に復元する能力を失っている可能性が高い。そして資本主義が行き詰まる時は必ず来るのであり、それが今なのかも知れない。その時、資本主義に復元能力が失われているとすればイスラムのみが、人類のやり直しを実現する唯一の可能性になることすら有り得る。マルクス主義がそういう可能性を保持しているとは、今のところ言い難い。
 イスラム原理主義が勃興してきた根拠はこの辺りにある。
 米国のその言葉とは正反対に、自らの価値観と異なるいかなる価値観も認めない。自らが文明社会であり、それ以外は非文明社会なのである。女性にペールを推奨し、女性の就労を禁止するのは立派な犯罪行為なのである。女性は男性と同様に労働力商品として狩りだされるのが正しい文明的姿であり、家庭内の労働などは労働ではないのだ。これこそ、自由主義であり、自らの行動の自由、自らの判断の絶対化の自由であって、自らの価値観と異なる者への自由ではない。西欧的価値観を正しいと承認しない者はその存在すら許してはならないのだ。
 かくして、米国はイスラム原理主義のさらなる発展におおいに寄与し続けている。
 石油を産出し、比較的豊かで例外であったはずのイスラム諸国(アラブ諸国)も、湾岸戦争後OPEC(石油輸出国機構)支配構造の崩壊の憂き目にあっているゆえに、これらのアラブ穏健派と勝手に呼ばれていた諸国の内部でも、イスラム原理主義が台頭し始めている。




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