共産主義者同盟(火花)

経済学ノート(1)

渋谷一三
240号(2001年8月)所収


<はじめに>

 今回から,不定期に経済学についてのノートを連載することにした。
 その問題意識は,マルクス主義の側の経済分析論争が皆無に近い低迷した状態にあるのに対し,近代経済学派(近経)の方は活発に論争を持続しており,はるかに生命力があるかのように見える状況が生まれていることに発している。
 近経が活発に論争を組織できているのは,ケインズ主義がもはや有効でない状況下になっても,現実の経済分析に他人より一歩でも接近できれば,莫大な報酬が約束されていることにあるが,それだけではなく,とにかく何とかしなければならないという現実の必要性があるからだ。
 現代資本主義がそれだけ病んでいるともいえるかもしれないが,筆者はそれほど楽観的ではない。病んでいるとレッテルをはって優越感を感じているほどマルクス主義経済学派に余裕などない。むしろ旧来の経済分析ではやってゆけなくなっている状況を素直に承認し,これを分析しようと必死になっている近経の態度の方が健全だと思う。

1.現代資本主義の特徴である膨大な信用創造

 現代資本主義という場合の筆者の用語規定は曖昧です。ケインズ主義が有効性を失いケインズ主義政策がとられなくなってからの世界資本主義という意味合いで使っているだけで,いつ頃からかとか,何をメルクマールとしているかなどはない。およそ1990年頃からというイメージで,今のところ曖昧です。
 デリバティブ,バブルなどの言葉が飛び交い,流行した現象そのものに,旧来の手法では分析が出来なくなった新たな事態が始まっていたことが見て取れる。
 近経の学者が一様に糸口としようとしているのが,信用創造であり,筆者もこの点では同じ立場に立つ。
 そこでやや遠回りの感を感じる読者もおられると思うが,信用創造とは何かから検討を開始したい。

2.信用創造

 信用創造というひとつを取ってみても実は諸説紛々なのです。
 一般に流布している「信用創造」は,非発券銀行が準備金(現金と準備預け金)に対してどの程度貸し出し可能かを経験的に算出し,それに応じて貸し出しを当座預金設定の形で行うことを指す。すなわち,準備預け金は中央銀行にあるのだが,その額をも含み込んで貸し出しを行うことを指す。
 これに対して,向井壽一さんは異論を唱えている。あまりにも狭義すぎるという。筆者も向井説に賛成するので,長くなるが引用する。

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金の集中

キンによる本源的預金の貨幣取扱業者への集中は,両替商や為替業者が生身のキンを漸次集積することによってなされる。
 両替取引や為替取引という商品をキンとして扱う貨幣取引業やキン細工匠のようなキンを原材料とする業者にキンが一定程度集積することは歴史的にどの国にも見られる。

金匠と両替商

 例えばイギリスではGold Smith(金匠)が商業銀行のルーツであったし,外国貿易のかたわらで貴金属を取り扱い,為替も取り扱っていた商人がマーチャント・バンクの前身である。
 日本でも三井銀行は,江戸時代には越後屋呉服店として江戸と京都の織物取引に携わるかたわら,両替商を兼営し,明治維新後に商業を扱う三越と金融を営む三井銀行に別れて発足した。

自己宛一覧払手形

 なぜキンを集積した貨幣取扱業者が銀行に発展しうるかといえば,彼らは自らの蔵(金庫)にある生身のキンを背景に,自己宛一覧払手形,つまり,いつでもこの手形を持ってくればキンと引き換えます,という約束手形を発行(発券)しえたからである。
 貨幣取扱業者の発行する自己宛一覧払手形は銀行券の前身である。この手形はいつでもキンと交換しうるからことから,信用度は絶大であり,通常の商業手形が金額や支払期限が限定されているのと明白に区別されうる。

金の流出と環流

 このような自己宛一覧払手形は,貸し出しに際して発行される。もし,当時の借り手が賃金や原材料の購入のために生身の金または金貨を必要とするなら,賃金の支払期間ごとに金貨に兌換されるであろう。
 だが,商業企業や製造業の間の決済に用いるのであれば,例えば「五十払い」と言われるような5や10のつく計算のしやすい商習慣によって決められた決済日に,貨幣取扱業者の発行した自己宛一覧支払手形をそのまま引き渡すことで通常の決済が済まされるようになってしまう。
 しかも,賃金等の所得に用いられた金貨も,家計が消費財・サービスを購入することで消費財・サービス販売商の手もとに流れてくる。この金貨は消費財・サービス販売企業にとっては自らの社員の賃金や企業経営者の棒給を支払う部分以外には当分必要ないので,再び貨幣取扱業者へ預金として預けることになる。
 銀行の発生 こうして,歴史的に本源的金を集中した貨幣取扱業者は自らの蔵(金庫)にある金を滞留させ,間歇的に一部を払い出す(自己宛債務の支払銀行)一方,他方で消費財・サービス業者から金貨での預金がたえず流入してくる。そこで,貨幣取引業者は銀行Bank(もともとは古代イタリアで貴金属を扱っていたテーブルを意味するbancoに語源を発する)となる。

 そして銀行の金庫から金貨が間歇的に,しかも一部しか流出せず,かなりの部分が滞留し,他方で金貨預金が流入してくる。そこで銀行業者は経験的にどの程度貸し出せば,どの程度の金貨がどういうテンポで流出し,他方,どういうテンポでどれだけの量の金預金が流入してくるかを,しだいに計算できるようになってくる。つまり,一定の準備金のもとでいくら信用創造で貸し出しができるかが分かるようになるわけである。

本源的預金概念の混乱

 ところが,銀行制度が整備され,金準備を集中した中央銀行とは別個に,市中銀行が当座預金と貯蓄性定期預金の両方を扱うようになると,貯蓄性定期預金の方が,「本源的預金」で,当座預金は貯蓄性定期預金の滞留性を条件として設定される「派生的預金」というように観念されていく。
 私の議論は銀行の歴史的出発点としての金(キン)の集中を本源的預金としており,現在の貯蓄性定期預金を指して本源的預金といっているのではない点に留意してほしい。

信用創造と信用拡張

 貯蓄性定期預金も商業銀行が兼営するために混同されやすいが,通貨概念M1に含まれる当座預金と,本来非通貨金融仲介機関が行うべき貯蓄性定期預金M2は明確に峻別されなければならない。
 当座預金の設定は信用創造であり,貯蓄性定期預金を集めた金融仲介機関が中長期的貸し出しを行って,それが再び流入することによって信用供与量が膨張するのは信用拡張である。

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 以上,長々と引用させていただいた。
 信用創造と信用拡張に関する向井さんの分析は見事なものだと思うが,この向井説を承認しないかぎり以下の議論が出来ないというものではないのが,また,強みでもある。

 以下は,次回に。
 次回は,いよいよ架空資本の定義に迫ります。
 この架空資本の膨大化が,信用資本主義という概念のキーポイントになる。




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