共産主義者同盟(火花)

現代唯物論発展のために(4)

流 広志
236号(2001年4月)所収


流通手段

B 貨幣の流通

「労働生産物の物質代謝がそれによって行われる形態転換,W−G−Wは,同じ価値が商品として過程の出発点をなし,商品として同じ点に帰ってくることを,条件とする。それゆえ,このような商品の運動は循環である。他方では,この同じ形態は貨幣の循環を排除する」(『資本論』1分冊 204頁,以下ページ数のみ)。

 商品流通によって直接に与えられる貨幣の運動形態は,貨幣が絶えず出発点から遠ざかって,ある商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んでいくことであり,貨幣の流通である。
 貨幣の流通では,商品が売り手の側にあり,貨幣は購買手段として買い手の側にある。貨幣は商品価格を実現する購買手段として機能し,商品を買い手に移し,同時に買い手から売り手に移って,また別の商品と同じ過程をくり返す。ところがこのような一面的な貨幣の運動形態は,商品流通の二面的な運動形態から生じることが隠されている。商品は第一の変態において,貨幣と場所を取り替える。同時に,商品の使用姿態は流通から抜け落ちて,消費に入る。「その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占める」(206頁)。流通の後半を商品は金の皮をつけて通り抜ける。商品にはこのように二つの反対の過程を含む同じ運動が,貨幣の固有の運動としては,貨幣と別の商品との場所転換を含んでいる。そのために,商品流通の結果,別の商品による商品の取り替えは,商品自身の形態転換ではなく,流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるように見え,この貨幣が,それ自身としては運動しない商品を流通させ,商品を,それが非使用価値であるところの手から,それが使用価値であるところの手へと,つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移して行くというように見えるのである。

「貨幣は,絶えず商品に代わって流通場所を占め,それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら,商品を絶えず,流通部面から遠ざけて行く。それゆえ,貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに,逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現れるのである」(206頁)。

「他方,貨幣に流通手段の機能が属するのは,貨幣が諸商品の価値の独立化されたものであるからにほかならない。だから,流通手段としての貨幣の運動は,実際は,ただ商品自身の形態運動でしかないのである。したがってまた,この形態運動は感覚的にも貨幣の流通に反映しなければならない」(207頁)。

「一国では毎日多数の同時的な,したがってまた空間的に並行する一方的な商品変態が,言いかえれば,一方の側からの単なる売り,他方の側からの単なる買いが,行われている。商品は,その価格において,すでに決定された想像された貨幣量に等置されている。ところで,ここで考察されている直接的流通形態は,商品と貨幣とをつねに肉体的に向かいあわせ,一方を売りの極に,他方を買いの反対極におくのだから,商品世界の流通過程のために必要な流通手段の量は,すでに諸商品の価格総額によって規定されている。じっさい,貨幣は,ただ,諸商品の価格総額ですでに観念的に表されている金総額を実在的に表すだけである,したがってその総額が等しいということは自明である(208頁)。

 ところが,商品価値が不変の場合,商品価格は,金(貨幣材料)そのものの価値といっしょに上下する。商品価格は金の価値が上昇すればそれに比例して上がり,逆の場合は下がる。商品価格の上下に応じて,流通貨幣量が増減する。それは流通手段機能からではなく価値尺度機能から生じる。

「諸商品の価格がまず貨幣の価値に反比例して変動し,それから流通手段の量が諸商品の価格に正比例して変動するのである」(209頁)。

 同じことは,銀が価値尺度としての金にとって代わる場合にも起こる。どちらの場合も,

「まず貨幣材料の価値,すなわち価値の尺度として機能する商品の価値が変動し,そのために商品価値の価格表現が変動し,またそのためにこれらの価格の実現に役だつ流通する貨幣の量が変動するということになるだろう」(同)。

 商品流通部面にある一つの穴を通って,金銀などの貨幣材料が与えられた価値のある商品として流通部面に入ってくる。この価値は,価値尺度としての貨幣の機能では,したがって価格決定にさいしては,すでに前提されている。たとえば価値尺度そのものの価値低下の場合には,それは,まず第一に,貴金属の生産源で商品として貴金属と直接に交換される諸商品の価格変動に現れる。最初,既存の幻想的な価値尺度の価値で評価されるが,しだいに,調整され,ついにはすべての商品価値が貨幣金属の新たな価値に応じて評価されるようになる。このような調整過程は,直接に貴金属と交換される諸商品に代わって流入する貴金属の継続的な増加を伴う。
 この前提のもとでは,流通手段の量は実現されるべき諸商品の価格によって規定されている。価格が与えられていれば,諸商品の価格は,流通のなかにある商品量によって決まる。
 商品量が与えられていれば,流通貨幣量は,諸商品の価格変動につれて増減する。流通貨幣量が増減するのは,諸商品の価格総額がそれらの商品の価格変動の結果として増減するからである。そのためには,すべての商品の価格が同時に上がったり下がったりする必要はない。すべての流通する商品の実現されるべき価格総額を増加または現象させるには,したがってまた,より多量またはより少量の貨幣を流通させるには,一方の場合には或る数の主要物品の価格上昇が,他方の場合にはそれらの価格低下があれば,それで十分である(211頁 下線は引用者)。
 同じ貨幣片はくり返し場所転換を行う。

「同じ貨幣片が繰り返す場所転換は,商品の二重の形態転換,二つの反対の流通段階を通る商品の運動を表しており,またいろいろな商品の変態のからみ合いを表している」(212頁)。

この過程が通る対立していて互いに補いあう諸段階は,空間的に並んで現れることはできないのであって,ただ時間的にあいついで現れることができるだけである。それだから,時間区分がこの過程の長さの尺度になるのである。与えられた時間内の同じ貨幣片の流通回数によって貨幣流通の速度が計られるのである。
 したがって,流通過程のある与えられた期間では,諸商品の価格総額÷同名の貨幣片の流通回数=流通手段として機能する貨幣の量 という一般法則が成り立つ。流通部面が吸収しうる金量は,その各個の要素の平均流通回数を掛ければ実現されるべき価格総額に等しくなるような量に限られるからである。それゆえ,貨幣片の流通回数が増せばその流通量は減るのであり,貨幣片の流通回数が減れば,その量は増すのである。流通手段として機能しうる貨幣量は,平均速度が与えられていれば与えられているのだから,たとえば一定量の一ポンド券を流通に投げこみさえすれば,同じ量のソヴリン貨をそこから投げだすことができるのである。これは,すべての銀行がよく心得ている芸当である。
 貨幣流通の速さには,対立しながら互いに補い合う諸段階の,価値姿態への使用姿態の転化と使用姿態への価値姿態への再転化との,または売りと買いという両過程の,流動的な統一が現れる。逆に,貨幣流通の緩慢化には,これらの過程の分離と対立的な独立化,形態変換したがってまた物質代謝の停滞が現われる。この停滞がどこから生じるかは,もちろん,流通そのものを見てもわからない。流通は,ただ現象そのものを示すだけである。
 実現されるべき価格総額を規定する要因は,価格の運動と流通商品量と貨幣の流通速度の三つである。それらは,別の方向,違った割合で変動することができる。
 商品価格が変わらない場合。流通手段の量が増大しうるのは,流通商品の増加あるいは貨幣の流通速度の低下あるいは両方がいっしょに作用する場合である。逆に,流通手段の量は,商品量の減少または流通速度の増大につれて減少することがありうる。
 商品価格が上昇しても流通手段の量が不変でありうるのは,商品価格上昇と同じ割合で流通商品量が減少する場合か,流通商品量が不変で,価格上昇と同じ速さで貨幣の流通速度が増す場合である。流通手段量の減少は,商品量が価格上昇よりも速く減少するか,流通速度が価格の上昇よりも速く増すからである。
 商品価格が下がっても,流通手段の量が不変であるうるのは,商品価格が下がるのと同じ割合で商品量が増大するか,または価格が下がるのと同じ割合で貨幣の流通速度が落ちる場合である。流通手段の量が増大しうるのは,商品価格が下がるのよりももっと速く流通速度が落ちる場合である。
 いくらかの長い期間を考察すれば,外観から予想されるよりもずっと不変的な,それぞれの国で流通する貨幣量の平均水準が見いだされるのであり,また,周期的生産恐慌や商業恐慌から生ずる,またもっとまれには貨幣価値そのものの変動から生ずるひどい混乱を別とすれば,外観から予想されるよりもずっとわずかな,この平均水準からの偏差が見いだされるのである。
 流通手段の量は,流通する商品の価格総額と貨幣流通の平均速度とによって規定されているという法則は,次のようにも表現できる。すなわち,諸商品の価値総額とその変態の平均速度が与えられていれば,流通する貨幣または貨幣材料の量は,それ自身の価値によって決まる,と。これとは逆に商品価格は流通手段の量によって規定され,流通手段の量はまた一国に存在する貨幣材料の量によって規定される,という幻想は,その最初の代表者たちにあっては,商品は価格をもたずに流通過程にはいり,また貨幣は価値をもたずに流通過程にはいってきて,そこで雑多な商品群の一可除部分と金属の山の一可除部分とが交換されるのだ,という仮説に根ざしているのである。

C 鋳貨 価値章標

 流通手段としての貨幣の機能からは,その鋳貨姿態が生ずる。諸商品の価格または貨幣名として想像されている金の重量部分は,流通のなかでは同名の金片または鋳貨として商品に相対しなければならない。価格の度量標準の確定と同様に,鋳造の仕事は国家の手に帰する。金銀として身につけ世界市場では再び脱ぎ捨てるいろいろな国家的制服には,商品流通の国内的または国民的部面とその一般的な世界市場部面との分離が現われている。
 金鋳貨と金地金は元来は形態が異なるだけだが,流通しているうちに金鋳貨はすり減って,同名の金鋳貨でも,重量が違うために,価値の違うものとなる。したがって,それによって,流通手段の金は,度量標準としての金から離れ,したがってまた,それによって価格を実現される諸商品の等価物ではなくなる。

「貨幣流通そのものが鋳貨の実質純分を名目純分から分離し,その金属定在をその機能的定在から分離するとすれば,貨幣流通は,金属貨幣がその鋳貨機能では他の鋳貨機能では他の材料から成っている章標または象徴によって置き替えられるという可能性を,潜在的に含んでいる」(222頁)。

 金または銀の微量部分の鋳造の技術的な障害,また,最初には金のかわりに銀が銀のかわりに銅が価値尺度として役だっており,それらが順に高級な金属によって置き換えられる瞬間にそれらが貨幣として流通しているという事情が,銀製や銅製の章標が金鋳貨の代理として演ずるのを歴史的に説明する。補助鋳貨は,最小の金の何分の一かの支払いのために金と並んで現われる。金は,絶えず小額流通にはいるが,補助鋳貨との引き換えによって同様に絶えずそこから投げ出される。
 銀製や銅製の金属純分は,法律によって任意に規定されているが,それらは,流通しているうちに金鋳貨よりももっと速く摩滅する。それゆえ,それらの鋳貨機能は事実上それらの重量には関わりのないものになる。すなわち,およそ価値というものにはかかわりのないものになる。金の鋳貨定在は完全にその価値実体から分離する。つまり,相対的に無価値なもの,紙券が,金に代わって鋳貨として機能することができる。金属製の貨幣章標では,純粋に象徴的な性格がまだいくらか隠されている。紙幣では,それが一見してわかるように現れている。
 ここで問題にするのは,ただ,強制通用力のある国家紙幣だけである,それは直接に金属流通から生まれてくる。これに反して,信用貨幣は,単純な商品流通の立場からはまだまったくわれわれに知られてない諸関係を前提する。だが,ついでに言えば,本来の紙幣が流通手段としての貨幣の機能から生ずるように,信用貨幣は,支払い手段としての貨幣の機能にその自然発生的な根源をもっているのである。
 貨幣名の印刷された紙券が国家によって外から流通過程に投げ込まれる。それが現実に同名の金の額に代わって流通する限り,その運動にはただ貨幣流通そのものの諸法則が反映するだけである。流通部面が吸収しうる金量は最小限に制限される。最小量の金片が絶えず流通部面を駆け回っているからこそ,この最小量は紙製の象徴におって置き替えられることができるのである。もし流通水路がその貨幣吸収能力の最大限度まで紙幣で満たされてしまうならば,これらの水路は,商品流通の変動のために明日はあふれてしまうかもしれない。しかし,紙幣がその限度,すなわち流通するであろう同じ名称の金鋳貨の量を越えても,それは,一般的な信用崩壊の危険は別として,商品世界のなかでは,やはり,この世界の内在的な諸法則によって規定されている金量,つまりちょうど代表されうるだけの金量を表しているのである。紙券の量が,たとえば1オンスのかわりに2オンスずつの金を表すとすれば,事実上,たとえば1ポンド・スターリング,はたとえば 1/4オンスの金のかわりに 1/8オンスの金の貨幣名となる。結果は,ちょうど価格の尺度としての金の機能が変えられたようなものである。したがって,以前は1ポンドという価格で表されていたのと同じ価値が,いまでは2ポンドという価格で表されることになるのである。それは名目的なものにすぎない。

「紙幣は金章標または貨幣章標である。紙幣の商品価値にたいする関係は,ただ,紙幣によって,象徴的感覚的に表されているのと同じ金量で商品価値が観念的に表されているということにあるだけである。ただ,すべての他の商品量と同じにやはり価値量である金量を紙幣が代表するかぎりにおいてのみ,紙幣は価値章標なのである」(226頁)。

 金が無価値な章標に代理されるのは,それが鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化,独立化されるかぎりのことである。紙幣によって代理されうる最小量の金は,つねに流通部面にあって,ひきつづき流通手段として機能し,したがってこの機能の担い手としてのみ存在する。W−G−Wの過程では,商品の交換価値の独立的表示は,ただ瞬間的な契機でしかない。貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけて行く過程では,貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては,貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり,したがってまた章標によって代理されることができるのである。
 貨幣の章標,紙製の象徴は,客観的な社会的有効性を,国家の強制通用力によって,与えられている。

「ただ,一つの共同体の境界によって画された,または国内の,流通部面のなかだけで,この国家強制は有効なのであるが,しかしまた,ただこの流通部面のなかだけで貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能に解消してしまうのであり,したがってまた,紙幣において,その金属実体から外的に分離された,ただ単に機能的な存在様式を受け取ることができるのである」(228頁)。

 商品は,流通の第一の形態転換で,流通部面から脱落して消費に移る。その代わりに新しい商品が次々と流通に入ってくる。商品は貨幣とひきかえに売られてしまえば,消費される。それにたいして貨幣は,流通手段としては流通部面にとどまり,その内部を駆け回っている。したがって商品流通のために必要な流通手段の量は,実現されるべき商品価格総額と商品流通の緩急によって規定される。実際には,支払い手段の流通があるので,それも加わる。だがそれを明らかにするのは次回の課題である。
 流通手段の機能からは,鋳貨機能が生じる。鋳貨の製造が国家の仕事になり,貨幣金と同じものとして鋳貨が流通手段として流通する。金属鋳貨は,流通するうちに摩滅し,それが表す金属重量名と実際の重量が乖離してくる。したがって,同名の金鋳貨が同一の価値物ではなくなり,金の度量標準機能から離れて,それによって価格実現される諸商品の等価物ではなくなる。かくして,金の鋳貨定在は価値実体から完全に遊離する。その結果,金の鋳貨機能は相対的に無価値な紙券に置き換えられるようになる。国家に保障された強制通用力のある国家紙幣は,貨幣の流通手段機能から生まれた鋳貨機能を代理する貨幣章標であり,象徴である。商品−貨幣−商品の過程では,貨幣はただ商品価値を独立的に表示し,あるいは価格を表示するためには,瞬間的に役立てばよい。したがって,それは章標によって機能することができ,また代理することができるのである。
 くり返しになるが,相対的に無価値な紙券には,流通手段の鋳貨機能から生じる強制流通力のある国家紙幣と支払い手段としての機能から生じる銀行券などの信用貨幣の二種類があることを混同しないようにしなければならない。両者の土台には異なる諸関係(流通諸関係・信用諸関係)があるのである。




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