共産主義者同盟(火花)

現代唯物論発展のために(2)

流 広志
234号(2001年2月)所収


 資本主義の現在から共産主義の未来への飛躍の契機を現在の諸条件の下で探り,それを解放する階級闘争を発展させることが共産主義運動の現在の任務である。この共産主義運動としての一般的な任務は同時にマルクス主義的共産主義の現代的発展として展開される。それは,前回明らかにしたように,資本主義的社会構成体の編成・規則を科学的に解明するための基礎を与えたのはマルクスだったからである。そのうえで,ソ連・東欧体制崩壊の総括として商品・貨幣を廃絶する社会革命の課題を掲げているわれわれはこの問題を解明する必要がある。マルクスは貨幣とは「諸商品が交換過程そのものにおいて形成する,諸商品の交換価値の結晶」(『経済学批判』国民文庫 54頁,以下ページ数のみ)であるとしているのだから,貨幣の秘密は商品の解明に求められねばならない。そこで,まずはマルクスの商品の解明を確かめなければならない。

『経済学批判』におけるマルクスの商品論

 『経済学批判』は商品論ではじまっている。
 ものの使用価値が経済学の対象となるのは,それが形態規定である場合,すなわち,使用価値が「一定の経済的関係である交換価値があらわされる素材的土台である」(25頁)場合だけである。
 まず交換価値は使用価値の交換されうる量的関係としてあらわれる。例えば,一つの宮殿の交換価値は一定数の靴墨の缶で表現される。「諸商品は,それらの存在のしかたとはまったく無関係に,またそれらが使用価値として満足させる欲望の独特の性質にもかかわりなく,一定の量においては互いに一致し,交換で互いに置き換わりあい,等価物として通用し,こうしたその雑多な外観にもかかわらず,同じひとつのものをあらわしている」(26頁)。この「同じひとつのもの」とはなにか。使用価値自体は,生活手段であり,消費過程において自己を実現するものであり,社会的関連のなかにあって社会的生産関係を表現するものではない。ところが,これらの生活手段は,社会的生活の生産物であり,支出された人間生命力の結果であり,対象化された労働である。すべての商品は社会的労働という同じひとつのものの物質化されたものである。したがってこの「同じひとつのもの」とは「交換価値であらわされる労働の一定の性格」(同)なのである。
 ではこのような労働の性格とはなにか。1オンスの金,1トンの鉄,1クォーターの小麦,20エレの絹が,等しい交換価値であるとすれば,これらの使用価値は,質的区別を抹消した等価物としては同じ労働の等しい量をあらわしている。これらに一様に対象化されている労働の一定の性格は,一様性無差別性単純性,である。まずこの労働はどこに現れるかはどうでもよい。それは使用価値の特殊な素材にたいしても労働の特殊な形態にたいしても無関係であり,またそれは労働する者の個性が抹消された同等で無差別な労働をあらわしている。したがって「交換価値を生みだす労働は,抽象的一般的労働である」(27頁 下線は引用者)。
 交換価値にとっての唯一の区別は量的区別である。交換価値には大小の区別しかない。交換価値の大小を測る尺度あるいは労働の量的定在は,運動の量的定在が時間であるように,労働時間である。同質の労働は,「労働時間としては,時間,日,週等々の自然的な時間尺度を度量標準としている」(同)。
 「労働時間は,労働の形態,内容,個性にたいして無関係な,労働の生きた定在である。それは,同時に内在的尺度をもそなえた量的定在としての生きた定在である」(27〜28頁)。「諸商品の使用価値に対象化された労働時間は,これらの使用価値を交換価値とし,したがって商品とする実体であるとともに,諸商品の一定の価値の大きさを測る」(28頁)。すなわち抽象的一般的労働の労働時間は,使用価値を交換価値にし,労働の生産物を商品化する実体であると同時に商品の価値尺度である。
 ここでマルクスが注意を促しているのは,1.単純な,質をもたない労働への労働の還元,2.商品生産労働が社会的労働をなしている独特の様式,3.使用価値に結果する労働と,交換価値に結果する労働との区別,である。
 諸商品の交換価値を労働時間で測るためには,様々な労働が,無差別な,一様な,単純な労働,すなわち質的に同一で量的にだけ区別される労働,に還元されなければならない。「この還元はひとつの抽象として現れるが,しかしそれは,社会的生産過程で日々おこなわれている抽象である」(28頁,『資本論』では「現実抽象」)。時間によって測られる労働は,いろいろな主体の労働ではなく,労働者個人が労働そのものの諸器官としてあらわれる。それは一般的人間的労働として表現される。この抽象は,平均的個人がなしうる平均労働,人間の筋肉,神経,脳等々のある一定の生産的支出のうちに実在している。この平均労働は,すべての平均的個人が慣れることによってなしうるし,なんらかの形態でなさざるをえない単純労働である。複雑労働は単純労働を複合し数乗したものである。
 交換価値を生みだす労働の諸条件は,独特な種類の社会性であり,労働の社会的諸規定または社会的労働の諸規定である。それはまず,個人労働の同等性という社会的性格をもち,すべての労働が同質な労働に還元されることによって相互に関係しあい,そうである限りにおいて,この労働は交換価値であらわされる。

「交換価値のうちには,個々の個人の労働時間が直接に一般的労働時間として現われ,個別化された労働のこの一般的性格がその労働の社会的性格として現われる。交換価値であらわされる労働時間は,個々人の労働時間であるが,他の個々人とは区別されない個々人の,同等の労働をおこなっているかぎりでのすべての個々人の労働時間であり,したがってある一人が一定の商品の生産のために必要とする労働時間は,ほかのだれもが同じ商品の生産のためについやすであろう必要労働時間である」(30〜31頁)。

 労働が社会的性格を受け取る場合の独特な形態は,例えば二種類の労働の生産物が「一般的労働時間の等量をあらわしており,したがって等量の労働時間をふくんでいるどの使用価値にたいしても等価物であるかぎりでは,それらは互いに等価物である」(32頁)が,両者の労働時間が一般的労働時間として,したがって両者の生産物が「一般的等価物としてあらわされることによってだけ,一方の労働が他方のための労働となり,つまり彼らの労働が両者のための社会的定在となる」(同)という形態である。

 それにたいして,家父長制的農村工業では,自家需要のために女たちが紡ぎ,男たちが織る糸とリンネルとは社会的生産物であり,それらの労働は社会的労働ではあるが,その社会的性格は原生的な分業をもつ家族関連が,労働生産物にその固有な社会的刻印を押したのである。中世の賦役と現物給付では,現物形態の個々人の労働が,労働の特殊性をなしている。また原生的な共同労働では,その社会的性格は,個々の労働を直接に社会有機体の一肢体として現わさせるのは,生産の前提である共同体である。

 交換価値にあらわされる労働の社会的性格は,労働生産物が一般的等価物と交換され,両者が同じ一般的労働時間のどちらでもよい,同じ意味の表現として互いに交換されることにあり,個々人の労働が一般性という抽象的形態をとることによって,つまり彼の生産物が一つの一般的等価物の形態をとることによって媒介されていることである。

「交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは,人と人との社会的関係が,いわば逆さまに,つまり物と物との社会的関係としてあらわされるということである。一つの使用価値が交換価値として他の使用価値に関係するかぎりでだけ,いろいろな人間の労働は同等な一般的な労働として互いに関係させられる。したがって交換価値とは人と人とのあいだの関係である,というのは正しいとしても,物の外皮の下に隠された関係ということをつけくわえなければならない」(33頁)。

 1ポンドの鉄と1ポンドの金が,物理的化学的属性が違うにもかかわらず,同一の量の重さをあらわしているように,「同一の労働時間をふくんでいる二つの商品の使用価値は同一の交換価値をあらわしている。交換価値は,使用価値の社会的な自然規定性として,物としての使用価値に属する一つの規定性として現れる」(同)。

「社会的生産関係が対象の形態をとり,そのために労働における人と人との関係が物相互の関係および物の人との関係としてあらわされること,このことをあたりまえのことのように思わせるのは,ただ日常生活の習慣にほかならない」(34頁)。

 交換価値を生みだす労働は,一般的等価物としての諸商品の同等性のうちに実現されるが,合目的的な生産的活動としての労働は,諸商品の使用価値の無限の多様性のうちに実現される。交換価値を生みだす労働は,抽象的な,一般的な,同等の労働であるのにたいして,使用価値を生みだす労働は,形態と素材におうじて際限なくさまざまな労働様式に分かれる具体的な特殊な労働である。

 ある商品の交換価値は,その一商品が他のそれぞれの商品と交換されうるいろいろな比率の総体でだけ,完全にあらわされる。したがってたとえば一系列の等式

        1エレのリンネル=1/2ポンドの茶
        1エレのリンネル=2ポンドのコーヒー
        1エレのリンネル=8ポンドのパン
        1エレのリンネル=6エレのキャラコ

は次のように表示できる。

        1エレのリンネル=1/8ポンドの茶+1/2ポンドのコーヒー+2ポンドのパン+1と1/2エレのキャラコ

 「こうして一商品はその交換価値を他のすべての商品の使用価値で測ると同時に,逆に他のすべての商品の交換価値は,それらによって測られているこの一商品の使用価値で測られる」(41頁)。一般に「尺度が,測られるものがあるしかたで測るものの尺度になるという関係を,測られるものにたいしてもつということも,尺度の一つの特質である。」モンタナーリ『貨幣について』。所収,クストディ編『論集』,近古の部,第三巻,四八ページ。(同)

 ここまでは,使用価値と交換価値は一面的に考察された。だが,商品は直接に使用価値と交換価値との統一である。商品は他の諸商品と関係するかぎりで商品である。「諸商品相互の現実的関係は,それらの交換過程である」(44頁)。独立した個人としての商品所有者は,交換過程の意識的な担い手としてだけあらわれる。
 商品は,使用価値であるが,同時にまた使用価値ではない。なぜなら商品所有者にとっては,商品は使用価値として直接に彼自身の欲望を充足させるための手段ではないからである。彼にとっては自らの商品は,非使用価値であり,交換価値のたんなる素材的な担い手,たんなる交換手段である。商品所有者は,自らの商品を交換することによって,生活手段を手に入れなければならない。そういう生活手段を商品として持っている人と交換しなければならない。「使用価値として生成するためには,商品が充足の対象であるような特殊の欲望に出会わなければならない。だから諸商品の使用価値は,商品が全面的に位置を転換し,それが交換手段である人の手から,それを使用対象とする人の手に移ることによって,使用価値として生成するのである」(44〜45頁)。
 個々の商品は使用価値としては独立の存在としてあらわれる。それは交換価値としては他のすべての商品との関係で考察されたが,この関係は理論的な,思考上の一関係にすぎなかった。この関係が実際に証明されるのは交換過程においてである。他方では商品は対象化された労働時間であるかぎり交換価値であるが,それは直接には特殊な内容の対象化された個人的労働時間であり,一般的労働時間ではない。それはこれから交換価値にならなければならない。「商品は,交換価値として実現されることによってはじめて使用価値として生成しうるが,他方ではその外化において使用価値として実現されることによってはじめて交換価値として実現されうるのである」(46頁)。
 使用価値としては商品は互いにたいして独立した存在としてあらわれるが,等価物としてのみ交換されうる。それらの商品が等価物であるのは,ただ対象化された労働時間の等しい量としてだから,「使用価値としての商品の自然的諸属性への顧慮,したがってまた特殊な欲望にたいする商品の関係への顧慮は,いっさい消え去っている」(47頁)。
 「同じ関係が,本質的に等しく,ただ量的にだけ違う大きさとしての諸商品の関係でなければならず,一般的労働時間の物質化したものとしての諸商品の等置でなければならず,それと同時にまた,質的に違う物としての特殊な欲望にたいする特殊な使用価値としての諸商品の関係,つまり諸商品を現実の使用価値として,〔互いに〕区別する関係でなければならない。しかしこの非等置と等置は互いに排斥しあう」。こうして「一つの条件の充足がその反対の条件の充足と直接に結びついていることによって,相矛盾する諸要求の一全体が現れる」(同)。

 ここまでで明らかになったのは,諸商品が使用価値として交換過程の内部でどのようにあらわれるかである。それにたいして交換価値は抽象のなかに,交換価値としての商品は意識の中,個々の商品所有者の抽象の中に存在していただけであった。困難は,「商品は自分を交換価値として,対象化された労働としてあらわすためには,あらかじめ使用価値として外化され,人手に渡されなければならないのに,使用価値としてのその外化は,逆に交換価値としてのその定在を前提するということ」(48頁)である。さらに「一方では商品は,対象化された一般的労働時間として交換過程にはいってゆかなければならないのに,他方では諸個人の労働時間の一般的労働時間としての対象化そのものは,交換過程の所産にほかならぬという困難」(50頁)がある。
 あらゆる商品は,使用価値の外化によって交換価値の対応する存在を受け取らなければならないので,交換過程ではその存在を二重化しなければならない。交換過程では諸商品が対立しあうだけなので,交換価値としてのその第二の存在は他の一商品でなければならない。問題は,「どういうふうにある特殊な商品が対象化された一般的労働時間として直接にあらわされるのか,あるいはまた同じことだが,ある特殊な商品に対象化されている個人的労働時間にどういうふうに直接に一般性という性格をあたえるのか?」(同)である。その答えは先の等式の総和を逆転させることによって与えられる。先の等式では商品が一定量の対象化された一般的労働時間としてただ考えられていたにすぎず,この表現は理論的なものにすぎなかった。「一般的等価物としての特殊な一商品の定在は,以上の諸等式の系列を単純に逆転することによって,たんなる抽象から交換過程そのものの社会的な結果となる」(51頁)。

        2ポンドのコーヒー=1エレのリンネル
        1/2ポンドの茶 =1エレのリンネル
        8ポンドのパン =1エレのリンネル
        6エレのキャラコ =1エレのリンネル

 前の等式の系列では,交換価値としては,どの商品も他のすべての商品の価値尺度となっていた。ここでは,すべての商品がその交換価値を特殊な一商品で測ることによって,この排除された商品が交換価値の十全な定在,一般的等価物としてのその定在となる。

「すべての商品は交換価値としてはただ対象化された一般的労働時間の異なった量としてだけ互いに関係しあっているということは,いまやそれらの商品は交換価値としては,リンネルという同じ対象の異なった量だけをあらわすということとなって現われる。だから一般的労働時間のほうも,一つの特殊な物として,他のすべての商品とならんで,しかもそれらの外にある一商品としてあらわされる」(52頁)。
「しかし同時に,商品が商品として交換価値としてあらわされる等式,たとえば2ポンドのコーヒー=1エレのリンネルは,なおこれから実現されなければならない等置関係である。使用価値としての商品の譲渡は,商品が一つの欲望の対象であることを交換過程で実証するかいなかにかかっているのであるが,この譲渡によってはじめて商品は,コーヒーというその定在からリンネルというその定在に現実に転化し,こうして一般的等価物の形態をとり,現実に他のすべての商品にとっての交換価値となる。逆にすべての商品が使用価値として外化することによってリンネルに転化されるから,これによってリンネルは他のすべての商品の転化された定在となり,しかも他のすべての商品のリンネルへのこのような転化の結果としてだけ,リンネルは直接に一般的労働時間の対象化,すなわち全面的外化の産物,個人的労働の楊棄となる」(52〜53頁)。

 一般的等価物として排除された商品は,特殊な使用価値と一般的な使用価値の二重の使用価値を持つ。後者は,「それ自体,形態規定性であり,すなわち他の諸商品がこの商品に交換過程で全面的にはたらきかけることによってこの商品が演じる独特な役割から生じる」(53頁)。
 一般的等価物として排除された商品は,いまや交換過程そのものから生じる一つの一般的欲望の対象であって,だれにとっても交換価値の担い手,一般的交換手段であるという同一の使用価値をもっている。
 「諸商品は,特殊な諸商品として,一般的商品としての特殊な一商品としての特殊な一商品に対立して関係する」(54頁)。「したがって商品所有者たちが一般的社会的労働としての彼らの労働に相互に関係しあうということは,彼らが交換価値としての彼らの商品に関係するということにあらわされ,交換過程における交換価値としての諸商品相互の関係は,諸商品の交換価値の十全な表現としての特殊な一商品にたいする諸商品の全面的な関係としてあらわされ,このことは逆に,この特殊な商品の他のすべての商品にたいする独特な関係として,それゆえにまた一つの物の一定の,いわばもって生まれた社会的性格として現れる。このようにすべての商品の交換価値の十全な定在をあらわす特殊な商品,または特殊な排他的な一商品としての諸商品の交換価値―これが貨幣である。それは,諸商品が交換過程そのものにおいて形成する,諸商品価値の交換価値の結晶である」(同)。
 「だから諸商品はすべての形態規定性をぬぎすてて,その直接的な素材の姿で互いに関係しあうことによって,交換過程の内部で相互にとって使用価値となるのにたいして,交換価値として互いに現われあうためには,新しい形態規定性をとり,貨幣形成にまで進んでいかなければならない」(同)。貨幣は象徴ではない。「一つの社会的生産関係が諸個人の外部に存在する一対象としてあらわれ,また彼らがその社会生活の生産過程で結ぶ一定の諸関係が,一つの物の特有な諸属性としてあらわされるということ,このような転倒と,想像的ではなくて散文的で実在的な神秘化とが,交換価値を生みだす労働のすべての社会的形態を特徴づける」(同)。

 貨幣商品の物理的諸属性は,交換価値の本性からは,任意に分割できること,各部分が一様で,一つ一つが無差別であることである。一般的労働時間の物質化としては,同質で量的な区別だけをあらわせるものであること。そして使用価値の耐久性である。
 貨幣は反省や申合せの産物ではなく,交換過程のなかで本能的に形成されるのであるから,きわめて多様な,多かれ少なかれ不適当な諸商品が,かわるがわる貨幣の機能を果たしてきた。
商品世界では発展した分業が前提である。「諸商品の交換は,社会的物質代謝,すなわち私的な諸個人の特殊な生産物の交換が,同時に諸個人がこの物質代謝のなかで結ぶ一定の社会的生産諸関係の創出でもある過程である。諸商品相互の過程的諸関係は,一般的等価物の種々の規定として結晶し,こうして交換過程は同時に貨幣形成過程でもある。さまざまな過程の一つの経過としてあらわされるこの過程の全体が流通である」(58頁)。

 以上,『経済学批判』のマルクスの商品論を要約した。その際にマルクスの形態規定の弁証法の繊細な展開の仕方と構成の微妙さを粗雑なまとめによって消し去らないように注意した。また,同じ主題については『資本論』の方がより整理されているし,形態規定性の展開として価値形態を描いているし,貨幣形成過程である交換過程については独立した章をたててより詳しくしている。しかしながら基本は同じである。

 交換価値を生みだす労働は,一様性無差別性単純性という性質をもつ抽象的一般的労働(「同等な人間労働または抽象的人間労働」『資本論』)である。商品の価値量は,この抽象的一般的労働の量すなわち一般的労働時間によって規定される。価値量を測る尺度は一般的労働時間である。すべての商品は,交換過程では,商品一般としての特殊な使用価値,一般的交換手段となった一般的労働時間の定在としての排他的商品(貨幣商品)に関係する。抽象的一般的労働の性質と一般的労働時間の性質は,貨幣商品の物理的属性としてあらわされる。

 マルクスは,商品世界の独特の弁証法的運動を形態規定の展開過程としてあきらかにし,交換過程での貨幣の生成が,商品価値の全面的外化であり商品世界からの一般的商品の排除による一般的労働時間の定在化であり,また諸商品が交換価値として互いに関係するための新しい形態規定性の獲得であることを明らかにした。

 こうして商品論が貨幣論の鍵を握っていることが,マルクスによって明らかにされた。多くの貨幣論が,いきなり貨幣そのものを対象にして貨幣現象を解明することにとりかかり,けっきょく失敗に終わったのも当然である。価値形態論なしに貨幣現象の解明に取り組んだ古典派経済学の誤りについては,『経済学批判』『資本論』でくわしく批判されている。

 最近の物価下落と株価低迷,景気減速を憂慮した日銀は,公定歩合を3・5%に引き下げた。さらに銀行への公定歩合での翌日物融資制度の新設を検討している。通貨供給量を豊富にすればインフレ圧力が強まってデフレが止まるというのである。日銀が正しいのかどうかは,マルクス貨幣論を検討すればはっきりする。次回に取り上げたい。(つづく)




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