共産主義者同盟(火花)

資本主義世界分析−マルクスは復活したか−(3)

斉藤隆雄
223号(2000年3月)所収


フォーディズムを巡る論説

 伝え聞くところによれば、90年代のフォーラム運動においてレギュラシオンアプローチを巡ってかなりの論議があったとのこと。いかなる結論が出たのかは措くとしても、少なくともフォードシステムが社会全体を読み解く鍵であるとする議論が交わされたことは確かなようである。レギュラシオン派がトヨタの「かんばん方式」を「ポストフォーディズム」と呼び、歴史分析に於いても、石堂清倫氏がファシズム、ナチズム、スターリニズムを「国家的コーポラティズム」と規定し、いいだもも氏が「後進国フォーディズム」と分類している所を見ると、フォードシステムは新たな帝国主義論の根幹を成す概念であるように思われる。
 フォーディズムを多義的な社会分析の武器として使うのは大変魅力的な方法であるように思われる。筆者も、かつてソビエト計画経済分析を試みた際に1920年代のソビエトとフォード社との関係を知って驚いたと同時に、計画経済という方法の限界をも知ることになった。それはナチズム経済や日本帝国主義の国家総動員経済との相似性や、かの有名なニューディール政策を含めて同時代の分析概念として使えないかという誘惑に駆られた。
 この点については、いいだもも氏の『アプレ・フォーディズムの時代とグラムシ』において詳細な分析がなされている。その一節を引用してみよう。

「管理通貨制による国家の経済的役割に基づく恐慌のくりのべ、回避、変形、失業者の一掃、完全雇用に着目して、そのようなルーズベルト的、エックルズ的「計画経済」を「ケインズ主義」と定義するとするならば、この時期の軍事ケインズ主義としてのニューディールは、ナチス経済とさして違いのあるものではありません。」(p117)
「戦後資本主義のフォード主義的・ケインズ主義的好循環を方法的基準にして、戦間期経済との断差、ましてや帝国主義経済との断差を照らしだすことは、有意義なこととして理論的に可能ですが、ドル本位制下に多国籍=超多国籍資本の価値増殖運動によってグローバル・エコノミーを実現しつつある、こんにちの現代資本主義の実態の分析と将来展望の解明は、『多かれ少なかれ安定的な発展』=フォード主義的・ケインズ主義的好循環の外挿的な延長によっては不可能であるとしなければなりますまい。」(p232)

 戦間期、戦後、現代という三つの時代区分に一貫してフォード主義という言葉が使われながら、それがケインズ主義なり、管理通貨制なり、多国籍企業なりがその区分の特徴として配置されていることが伺える。まさにフォード主義は、1920年代以降の資本主義の諸特徴である大量生産、大量消費、大衆化社会、株式会社、通貨管理等々といったものの総体としての表現が与えられている。
 ここから、それらのセットで語られるフォード主義、フォードシステムなるものが資本主義の運動の中で何をもたらしたのかを明らかにする必要がある。それは第一に、先行する諸時代の労働者階級にもたらした苦難と栄光と如何に異なるのかという問題である。第二に、従来国家独占資本主義として語られていた資本主義の諸特徴をフォードシステムとケインズ主義から規定し直すという時、何が問題だったのかである。いいだ氏が、この第二の問題については詳細に学説史を辿っておられるので、繰り返す必要がないだろうが、凡その概略は結局のところ、70年代以降の資本主義世界の変容を国独資論(全般的危機論)では分析しきれないという所から来ている。
 かの大内氏の国独資論で展開されている国家による管理通貨制度を始めとした経済の国家管理が、変動相場制以降のオフショア市場の拡大によって疑問視されてきたということなのである。それが、資本主義世界を全体として規定しているシステム理論が求められてきている所以であろう。フランク−アミン等の「従属理論」やレギュラシオン理論が登場する背景がそこにあると思われる。
 しかし、ここで改めて第一の疑問に立ち返ると、資本主義世界の変容はその本質的な部分を変化させたのかというと、労働力が商品として販売されるという根幹に何ら変化はないとしなければならない。むしろ、ここで問題としているフォードシステムが、1920年代以降の資本主義を変えたとするなら、それは国家の管理(ソビエトであろうが、民主主義であろうが)という器さえ乗り越えた資本主義的生産様式の世界性を可能にした一つの技術であるとするべきである。

旭氏のフォードシステム論

 旭論文ではフォードによって世界的に有名になった流れ作業という生産方式を大きく取り上げている。各所にフォードシステムやテーラーシステムについての記述がある。いささか羅列的であるが、その文意を取るために引用しておきたい。

「それ《情報化資本主義》は1920年代アメリカで始まり戦後国際化した直接的生産過程(テーラー・フォードシステムとその下での労働者支配・分裂支配)を基礎に、流通過程と多国籍企業間情報通信網として発展してきたもの…」p49
「製品の単一化、部品の規格化、機械・工具の特殊化(単能工作機械)による互換式生産方式を前提した上で、テーラーシステム=人間労働の各要素形態への分解が登場し、さらにコンベアを軸にその方法を労働手段にも労働対象にも適用(自動車産業の核心をなしたトランスファマシンや組立)したのがフォードシステムと考えられる」p51
「つまり、フォード・オートメーションといった労働過程は、単に熟練労働を半熟練、オペレーター化しただけでなく、単純、筋肉、雑役、有害、危険、補助的労働、さらには旧熟練の下位的職種化等の労働の位階位的差別的ヒエラルキーの膨大な層をも作り出した…。」P.53

 流れ作業による生産労働の細分化や究極の分業化は、人間労働を一つの歯車のようにするという悲劇は、チャップリンの映画でも有名であり、近代主義の究極の姿とも捉えられてきた。そして、それと共に大量生産と大量消費というアメリカンスタイルが世界の資本主義的生産を変革したとも言われている。

 このフォード方式に真っ先に着目し、批判的に見ようとしたのがグラムシであった。そのためか、グラムシのヘゲモニー論が旭論文の第二編では取り上げられているが、現状分析の中では労働の細分化と「職種化」ということ以上には展開されていない。

 旭氏の規定は、フォードシステムが単純労働、筋肉労働、雑役労働、有害労働、危険労働、補助的労働に従事する労働者を大量に排出するという点に注目しているように見える。ベルトコンベア式の生産ラインは、製造業部門での組立作業に驚異的なスピードを実現したのは確かである。それは、マニュファクチャーから機械制大工業へ移行した19世紀の産業革命に匹敵する労働現場の変革をもたらしたが、それは既に述べたように機械制大工業の工場内分業を更に推し進めたとは言え、その本質を変革したのではなかった。

 むしろ、この生産方式のもたらしたものは大量生産、大量消費、大衆社会化、株式会社の発達、国家の経済政策、通貨管理等といった戦後の資本主義社会の有様と一体となったものであり、旭氏の言う「フォード的蓄積−ケインズ主義(国独資、城内平和−「福祉」)」という分析の観点がどんどん無効となっていくと思われる。

 元々、旭氏が「ケインズ主義」と規定した根拠が何であるのか明らかになっていない。私の読み方が正しければ、旭氏は70年代に始まり80年代以降に決定的になった戦後資本主義の変容を、「ポスト」とも「新自由主義」とも規定せず、「フォードシステムの発展」(p29)とし、「ケインズ主義的国家独占資本主義(生産手段・労働力の完全雇用)の再編成、IMF・国際侵略反革命同盟を通しての不均等発展、再分割戦への転化」(p33)という分析なのである。

 旭氏のこのような分析を基礎とする限り、逆に多国籍企業の役割を強調する意味が反転するのではないのか、と訝しく思われる。フォードシステムという生産方式とケインズの有効需要創出という国家の政策が一体となったものが戦後資本主義であるとし、70年代以降の多国籍企業の展開が国家を支配しながら過剰生産危機に陥っているという図式をとるなら、それはフォードシステムの危機ではなく、世界単一通貨−世界的ケインズ主義へ移行できない国民国家経済の危機ではないのか。

 おそらく危機の本質はそこにはないだろうが、しかし旭氏の分析が混乱している点は、フォードシステム−過剰生産−危機という分析と、多国籍企業−第三世界収奪−再分割戦という分析がただ二重写しになっているだけなのではないかと思われる。これでは、多国籍企業の資本投資の必然性も、フォードシステムの変革の可能性も見えてはこないだろう。

 フォードシステムが労働現場での変革をもたらしたり、大量の工業製品を市場に送り出したりすること自体は資本主義世界の拡大を要求するものであり、ケインズ的政策の限界を露呈させるものであるが、その限界は国民国家経済という器との桎梏であり、多国籍企業が生き残れる条件でもある。彼らにとって、世界市場の再分割と再統合はある意味で日々の出来事であり、毎分毎秒の出来事である。国家がその時どのような役割を果たすかについては更に別個に論議する必要があるものの、「国際侵略反革命同盟」という一括りの観念物で何かが明らかになると考えることは避けなければならないだろう。

 最後に、最近耳にした企業家達の発言を引用して終わりたい。

 「伝統的に見て中央銀行というのは、一番負かしやすい相手というか、懐具合がはっきりしているから大儲けしやすい相手ではある。/方向性がはっきりしているという部分で、ある意味では一番強いですけれども、公的機関としてしか動けないという意味では、一番ばかな参加者なんだと思うんですよね。」(JMM vol.3 p54)

(参照文献)

いいだもも『アプレフォーディズムの時代とグラムシ』お茶の水書房1991年
森田桐郎『世界経済論の構図』有斐閣1997年
村上龍編集『Japan Mail Media』vol.3 NHK出版2000年




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