共産主義者同盟(火花)

資本主義世界分析−マルクスは復活したか− 

斉藤 隆雄
221号(2000年1月)所収


はじめに

 既に一年ほど前に旭凡太郎氏の『資本主義世界の現在』という書物の紹介が本誌で行われた(98年10月206号)。その際、書評を書いた流氏は比較的好意的に紹介したように思われる。しかし、流氏も言うように、「本書のスタイルは…格闘中のスタイルであり、それがこの本を読むときの特有の困難さをもたらしている」と評したように、本書は充分に準備されて書かれたものではないと思われる。
 そこで今回、本書の第一編である「現状分析」を取り上げ、旭氏が取り扱っているテーマを中心に、資本主義世界を共に分析し、旭氏の分析の誤りを正すと同時に、今言えるであろうことを踏み込んで論議したいと考えている。
 テーマ選択は私の読み方に従って、概ね三つの部分に分けた。第一は多国籍企業を中心とした帝国主義論、第二はテーラー・フォードシステムを新しい蓄積構造と捉える帝国主義論、第三は国際的な政治経済構造を展開している南北問題論である。最後に、旭氏の政策提起を吟味できれば、と考えている。

「多国籍企業の競争戦の時代」について

 多国籍企業の分析は、60年代まではどちらかというと、近代経済学の領域であったし、経済ジャーナリズムの紙上を賑わしていたテーマだった。70年代半ば、特に80年代以降は、多国籍企業の振る舞いの特徴を探る経済分析がマルクス主義経済学を標榜する潮流から出始めるようになったが、多国籍企業は帝国主義経済侵略の尖兵であるという認識が概ね定着しており、米国を本社に置く企業というイメージが支配的だった。特に有名だったのは石油メジャーと呼ばれた企業群で、資源の独占という帝国主義の経済的な支配を象徴するようなイメージだったと思われる。しかし、それがアラブ諸国の民族主義的な抵抗から一挙に原油価格が高騰し、資源独占という単調な図式が無効となってしまった。また西独・日本といった後発帝国主義の製造業分野に於ける国際市場争奪戦で、80年代以降、多国籍企業の振る舞いが複雑になってきた。このような情勢から、多国籍企業の分析はいわゆる先進国相互の市場争奪という様相として描かれた時期もあった。
 さて、旭氏はこの多国籍企業をどのように見ているのだろうか。
 「未曾有の多国籍企業による競争戦の時代に入った。」(『資本主義世界の現在』p21)
 この言葉を、何かしら新しい時代規定があるのではないか、と思わせるものがある。しかしこれは、彼独自の発案ではない。同じような規定が共産主義運動年誌編集委員会の呼びかけにおいても見られるからである(それとも、旭氏の影響を共産主義運動年誌編集委員会が受けているのかもしれないが…)。

「資本の集積と集中は金融独占資本主義を生みだし、さらにその成長は国家独占資本主義をへて、今日の多国籍企業資本主義・国際独占体の形成に至っている。」(2節4項)

 この文章では、多国籍企業の振る舞いを歴史的に描いており、新たな時代規定としての位置を与えられている。旭氏も多国籍企業の位置づけを本書に置いて歴史的に位置づけており、編集委員会の立場に近いと予想できる。
 それでは今日、多国籍企業の動きにどのような新たな動きがあるのか、資本主義の新たな局面を画するどのような特徴を持っているのかを、本書を元に検証していく必要がでてくる。
 旭氏の多国籍企業の規定は、テーラー・フォードシステムの分析と絡めて(歴史的に)提起されているが、この点については次回に取り上げる予定であるので、今回は現状分析を中心に見ていこう。

「…耐久消費財を中心とする多国籍企業の構造的過剰生産力の現実…」
「…多国籍化の発展とむすびついたリストラ、省力化に他ならず、それは進行する世界的過剰生産を加速…」(p21)
「多国籍企業化にともなう情報化投資の基本をしめる資本主義的リストラ機能、テーラー・フォードシステム以来の労働者の細分化、分断と管理の科学的集中、不安定、差別雇用体制という根幹…」(p23)

と、過剰生産力について再三再四取り上げて、多国籍企業の現状規定をしている訳である。 しかし、過剰生産ということだけであれば、資本主義が誕生以来持ち続けている特性であり、生産と消費のギャップの解決をかつては恐慌という価値の崩壊をもってなしてきたことが、1930年代以降この恐慌の回避のために、国家の経済的機能が強化されてきたんだということは、国家独占資本主義論において何度も述べられてきた。
 しかし、問題は多国籍化である。「進行する世界的過剰生産」という表現がある所から見ると、この過剰生産が先進資本主義国内部だけではなく世界中に広がっている、つまり過剰生産を世界にばらまくことで恐慌を回避しているというイメージなのであろうか。
 現在、多国籍企業についてはトランスナショナル・コーポレーションという規定の下で生産(資本ではない)を数カ国に広げて経営している企業を指している。(従来はマルチナショナル・エンタープライズと呼ばれていたが、80年代に入ってからこの規定が不十分だとして、国連SCOSOCで上記の表現が公用となった)これらの企業は、1930年代のブロック経済圏の時代から今日に至るまで様々な種類の企業が存在している。業種も第一次産業から第三次産業まで雑多である。あの中南米で悪名高いプランテーション経営を続けているデルモンテから、アメリカで一流のブランドとしての地位を確立したソニーに至るまで様々である。
 そして、確かに彼らは相互に競争しているし、経済的利益を確保するためにしのぎを削っている。そして、当然の如くに彼らは自国の経済政策ばかりではなく、資本投下国への経済政策に彼らなりの「投資」をするし、政策誘導を図ることは自明である。ロビー活動から賄賂まで様々な手段を日々模索し実行している。
 では、旭氏の指摘する自動車産業の過剰生産力が、欧州で五百万台、タイで百万台、韓国で四百万台という数字を列記したとしても、それらの企業群がその過剰な生産力を輸出攻勢(輸入関税問題を引き起こす)によってであろうと、自社工場のスクラップ(リストラ、賃金下落等々)であろうと、また現在進んでいる企業買収であろうと、解決していかざるをえないことは確かであるが、それが帝国主義や世界経済の新たな段階であるとするのはどの点なのであろう。単に過剰生産と言うだけでは、新たな段階という位置づけとしては不十分であることは確かである。
 ところが、旭氏は世界的過剰生産をもたらした多国籍企業が、

「現地の持続的蓄積過程そのものを、国籍を持つ本国資本の所有の下に置くことによって独自の政治・経済関係を現地、本国に与え、国家の相互関係、第三世界−帝国主義の間はもちろん帝国主義相互関係に影響を与え、帝国主義国家はそのような諸多国籍企業群の支配する国に転化するのである。」(p34)

と規定してしまう。「独自の関係」というのが何なのか明らかにされていないので何とも言えないが、これでは、ヒルファーディングの分析から一歩も出ていないと苦言を呈したくなるし、更に国家が一私企業群に支配されるというハリウッド映画並の戯画が思い浮かんでくるのは私だけであろうか。
 おそらく、旭氏は宮崎義一氏の一連の著書で述べた、「多国籍企業群の活動がケインズ主義を終わらせた」とする分析に引きずられているように思われる。宮崎氏は70−80年代の多国籍企業の活動を総括して、国民経済の枠組みの中では分析しきれない世界経済の動きを世界貨幣、世界銀行という展望の中に見いだしている。これは、多国籍企業がぶちあたっている壁が国家という壁ではなく、企業内分業にとっての異なる経済制度であり、為替差益(損)であるということを表している。このことを充分理解せず、「帝国主義−第三世界を貫く国際、国内経済社会の再編成と世界市場再分割戦」ということに直接結びつけてしまったことで、企業と国家を同一視する根本的錯誤に陥ったのではないだろうか。
 確かに今日多国籍企業の巨大さは中小の国民国家のGNPを遥かに凌駕するものがあり、数字の上では脅威として映るかもしれない。彼らが90年代後半に入って、一斉に国際カルテルや統合を模索し始めたこともそれを裏付ける傍証となるかもしれない。旭氏はこれらを捉えて、「新たな蓄積構造」と規定し、70年代以降従来のIMF・ケインズ主義・米国一元体制・新植民地主義から多国籍企業支配の時代に入ったと捉えているのであろう。

「…70年代中期に顕在化した通称フォード的蓄積の危機と多国籍企業を中心としたそれの再編…」「…このような多国籍企業による規制緩和、帝国主義の世界体系の再編は…支配と統治理念の危機に対する多国籍企業による国家再編の方向性の問題である。」(p46)

 多国籍企業による国家再編とは何か。規制緩和のことか、リストラのことか、いわゆる80年代以降の自由主義経済政策のことか、あるいはこれらを全部含めた政策体系全体のことだろうか。でもしかしである、これらの政策全体が国家再編という統治政策の転換となるのか、何から何への転換か。それは多国籍企業がブルジョアジー全体の争闘戦に勝利してイニシャティブを取ったとする政治分析の領域に入るのだろうが、では彼らが世界経済をグローバルに支配する政治軍事の理念は何か、そしてそれが危機であるのは何故か。世界全体が資本主義に支配されたという危機感なのか、それとも新たな限界として過剰生産恐慌が起こると言うのだろうか。どの疑問にも本書は応えてくれない。そして、決定的に間違っているのは、多国籍企業が強大化していく歴史的な分析が、後に述べるフォード的生産システムの限界に求められている点である。これでは、70年代以降国際経済システムを決定的に変革した国際通貨問題や変動相場制移行の問題が欠落してしまっている。彼がこの点について語っている部分を見てみよう。

「…1960年代遅くとも70年代前半(1970年のドル交換停止、ベトナム戦争終結、オイルショックと戦後的蓄積の危機、過剰生産の顕在化と再分割戦)までの世界市場−国際侵略反革命を支配し統一してきた基軸が米国であったとすれば、それ以降は多国籍企業に移行したということを意味している。」(p71)

 本書では、ヘッジファンドについての言及はあるが、変動相場制に関わる国際通貨問題は一切語られていない。国際資本移動の決済に関わる最も重要な問題がこの国際通貨問題であるにも関わらず、このことの言及がないのは如何にも不思議な点である。
 もし、多国籍企業の問題を取り上げようとするなら、この資本移動を分析することなくしては明らかにならないだろうと考える。そして、1973年の変動相場制への移行を機にブレトンウッズ体制が崩壊したことが何を意味するのか、それが米国の一元支配の崩壊と見るなら、今日ドル決済の国際通貨制度をどのように見るのか、巨大なユーロ市場の殆どがドル決済であるのは何故なのかを明らかにしなければ、一私企業群が国家を再編するなどという規定を安易にしてはならないのではないか、と思われる。
 このことは既に渋谷氏が『火花』217号で指摘しているので繰り返さないが、採録して尚論議の中心としていただきたい。

「…多国籍企業の利害を米国という国家が代表し、政治経済制度として確立するためにごり押ししたために、それを、多国籍企業の力と錯覚するだけのことだ。」(『火花』217号p14)

 多国籍企業の分析は、米国帝国主義の国家としての位置とドルの役割を、国際金融市場の中での巨大な利子生み資本の運動と連動して分析することが不可欠であろうと、思われる。旭氏の多国籍企業分析は、米国の巨額の経常赤字を国際資本循環として捉えておらず、まったく別個の現象としてしか受け取れないようになっている。また、例えば最近ルノーの傘下に下った日産の巨大な負債が、国際金融市場での債権発行にあることは宮崎氏も指摘する通りであるのに、バブル経済期についての言及が「新たな蓄積構造」にどのような役割を果たしたのか明らかにできていない。近年の企業統合が、製造業の国際カルテルと金融資本のグローバル化と整合せず、矛盾として発露しているという危機論であるなら、事態を少しは解明できるキーポイントになるのではないかと、指摘しておきたい。
 今回はいささか旭氏に失礼な言い回しになってしまったが、次回以降、多国籍企業が変動相場制移行後どのような国際資本市場における位置をとってきたかをもう少し詳細に見ていきながら、共に分析の焦点を絞っていきたい。




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