共産主義者同盟(火花)

東欧「改革」のつきつけたもの(8)

流 広志
217号(1999年9月)所収


社会化の将来の展望

 ブルス氏はまず,生産手段の社会化は,ヨーロッパの社会主義諸国においては現実になっていないという否定的結論を確認する。しかしながら,ロシア十月革命の結果として実行された国有化と集権化という変革が,それら諸国での工業化と民衆生活条件の水準を一定高めたことの社会的経済的進歩性は過小評価されてはならないという。そこで「問題は,この進歩性がどの程度のものであったか,社会化へと向けて前進的(このことばの強調は不可欠である)な進歩が行われる客観的必然性があるのかどうかである」(『社会化と政治体制』ブルス,大津定美訳 新評論 241頁)。それにたいして「マルクス主義的な社会主義の理念では,答えはイエスである。だが社会主義諸国の現実(基本的には国権主義モデルの分析にとどまっているが)は,この仮説を否定している」(同)。しかしそれは,マルクス主義的社会主義の理念を否定するものではないと氏はいう。
 国権主義モデルが生産力発展の推進力であるという命題を認めるならば,このモデルを生産力と生産関係との弁証法という範疇で語ることができるかどうかという問題は,抽象的な推論によって事前的な答えを導き出すしかないという。この推論は,「現代技術の一定の特徴と現代経済そして政治体制とをつき合わせることからなっている」(242頁)。
 こうした試み(推論)には危険性があるが,結論を導くためにはそれは避けられないという。「今日の国権主義モデルが社会化された生産手段に基礎をおく民主主義的社会主義に,はたして道を譲るかどうか,またどんなやり方で,いつ,譲歩するかを予言することはできないという当然の留保はつけておかなければならない。問題は,発展の経済的要因と政治的要因との一般的な相互関係を検討すること,そしてそれにもとづいて,今日姿をみせている長期的傾向を把握することである」(242〜243頁)。

 「社会化が必然だという仮説を擁護するためには,経済効率を求める動きが社会主義諸国の政治体制を民主化する必要性をつくりだしていること,この必要は長期にわたるものであり,それ以外に他の道はないということが示されなければならない」(243頁)。それは,自由の問題を「生産要素」(ビエンコウスキー 同)として考えることを意味している。消費の問題が生産に影響を与えるのは当然とした上で,この定式の意義は,社会組織の民主性と経済効率性の相互関係を扱うことにあるという。
 この方法論的側面を考えるために,氏は,ポーランドの社会学者S・オソウスキーの定式を取り上げる。オソウスキーは,集団行動の三つのタイプとそれに対応する「社会秩序の三つの単純な概念」を分析し,それらから社会秩序の第4のタイプを演繹したという。前者の三つのタイプとは,「(a)[集団行動」的秩序。社会生活が,伝統的にパターン化された社会的適応行動にもとづいて営まれる。(b)「多中心的(ポリセントリック)秩序。一定のゲームのルール(社会生活の規範)を守るが事前の調整を全くもたない諸個人のバラバラな行動の結果,相互作用の「自然法則」によって,社会的均衡が自動的に達成される。(c)単一中心的(モノセントリック)秩序。社会生活は中央の決定によって規制され,その決定の遵守を監視する組織が存在する。O osobliwos′ciach nauk spo3ecznych (『社会科学の特殊性について』) Warsaw,1962,ch.2, Koncecje 3adu spo3ecznego i
typyprzewidywan′(「社会秩序の概念と予測の類型」)p.86.」(注 315頁),である。それに対して第4のタイプについては氏のオソウスキーからの引用をみよう。

「社会秩序の第四の概念は,時代おくれの自由主義の抗議にもかかわらず,社会生活の多中心主義的(ポリセントリック)な性格を合理的な計画化と調和させようとするものである。この考え方は今日の人間に第一級の問題をつきつけており,社会学にとっての広範な研究領域を切り開きかつ『社会学的想像力』をかきたてるものである。ここでの問題は,多中心主義的社会において,計画的な協調を最大限の規模で実現するのは,どのような方法かという問題である。それは,単一の中央指導の効率性と多中心主義がもつ人間的価値の間の対立をどう解決するかという問題でもある」(244頁)。

 この最後の文章は,単一中心主義の効率性に代えて,多中心主義によって代表される他の価値(人間的な)に重点を移すための妥協の提案として出されたものだという。通常,対立は,相互排他的か,他を弱めてしまうような二つの選択肢の間の衝突と解釈されている。しかし氏がオソウスキーの見解として紹介するところによれば,「この対立は,われわれが社会秩序の三つの単純な形態を考慮に入れる場合にのみ」(同)現れてくるものであり,「中央計画化は基本的には第三のタイプだけと両立できる」(同)。ところが,この三つのタイプを越えて考えるなら,社会生活の多中心主義的な性格と合理的な計画化を調和させるような解決の可能性が,したがって効率性と人間的な価値が相互代替的ではなく,相互補完的であるような世界が開けてくる。「もし,マルクス主義的社会化概念が想定しているように,自由が大きければ大きいほど効率は高くなる,しかも累進的仕方で高くなる(「プラスのフィードバック」)のであれば,情況はますます良くなるであろう」(245頁)。
 オソウスキーの議論を承認するなら,19世紀自由主義を理想とし,中央計画化システムを軍隊型の単一中心システムと結びつける傾向の強いハイエクやミルトン・フリードマンの見解はきっぱりと退けられる。「計画化と自由が対立概念だというテーゼにもとづいた議論の方法論的誤りを暴露することによって,伝統的な自由主義の立場との一般論的論争に再度巻き込まれる必要はなくなる」(同)。ところが,一方では,中央計画化の要請は,「単一中心的秩序の合理性の要請」を意味するが,他方では,単一中心的秩序は,中央計画化とその実施にとって,最も単純で,最も容易な条件を創りだすことを意味する。したがって,オソウスキーの方法論的批判は,両極を同時に射抜くものなのである。
 つぎに氏は,国権主義モデルがこの「社会秩序の第四のタイプ」に向けて経済必然的に発展するといえるのだろうかという問題の検討に移る。そこで氏が指摘するのは,現代における生産力発展の特徴である。それは発展のペースの速さや加速性というばかりでなく,生起する変化の複雑性の増大ということである。現代の「科学・技術革命」は,生産主体の側での変化,すなわち,直接生産過程での実行・補助・操作・制御の諸機能の領域からの人間排除,科学の生産への浸透,技術学的適応の進行,という意味での「オートメーション原理の勝利」を特徴としている。産業革命時代の科学の進歩が,生産の外生的要因であったのにたいして,「基礎的および応用的科学研究と技術革新の全問題を包含する,現代の科学・技術の進歩は,孤立した諸個人による発見の結果としてもたらされることはますます稀になり,集団的・組織的努力の成果としてもたらされることがますます多くなっている」(246〜247頁)。この研究の必要経費は,ユーザーか国家によって支弁されるようになる。このような技術革新メカニズムの変化は,技術進歩を科学,教育等への支出の関数とみて,これを内生的要因としてもつ経済成長モデルを構築する経済学(経済理論)に反映している。
 このような現代の生産力発展の特徴と,社会主義諸国における政治体制の民主化による生産関係の発展の要請との間の関係をどう捉えるべきだろうか。
 国民経済全体や個々の生産部門や大企業のレヴェルでの意志決定などの意志決定センターが解決しなければならない経済問題は複雑であり,また高度に集中されている。技術,経済的収益性,資源配分決定の社会的効果等々の評価も複雑で,日常経験のレヴェルから遠くなっている。「大規模な投資の設計や技術,生産,人員の面での準備のために必要な将来予測は,高度に専門的な知識と膨大な数の意志決定パラメーターの関連づけとを重要なものにし,とりわけそれらが,全般的なトレンドと特定の局面における特殊な動きも含めて,将来どのように変化するか予測する能力がより重要なものとなる」(248頁)。このことが意味するのは,「市民が,生産の主権者として,何を,いかにして,いつ生産するかを決定する」(同)という生産手段の社会化の達成するもの(意志決定の民主化)とは反対に,「意志決定を専門家に,科学者,技術者,オーガナイザー,経済専門家等々に,ますます広範に委ねること」(同)である。それは,生産手段の事実上の処分権をもったエリートによるテクノクラート寡頭制を意味する。
 国有経済組織,私的巨大株式会社に共通する経済管理におけるテクノクラート的傾向は,国家の経済的役割の増大によって弱められるどころか,増大する。議会制民主主義の意義は低下し,テクノクラートと政治家の間の私的了解が大きな役割を果たすようになる。氏は,ガルブレイスの見解として,そうした否定的影響から社会を救うために知識人の果たす役割として,知識人がその独占的地位を使って,現代世界の存続と発展に不可欠の価値観を生み出していくこと,をあげている。氏は,社会主義国の政治体制の展望にとっては,議会制民主主義制度に期待するのはアナクロニズムであり,発展した資本主義諸国にとってさえそうだと結論する。なぜなら,経済が公的な活動領域に移行したことによって,ウェーバー的官僚制(ヒエラルヒー構造と上級位階への服従の大原則,職能の分割制,とりわけ実行機能と司令機能の分離,形式化された手続きにもとづく作業,等々)の経済領域全体に拡張する自然的前提条件ができたが,それは現代の要請に有効に応えるための条件だからである。
 政治体制の民主化と矛盾するとみられるのは,「『体制全体の』目的関数を実現するという社会主義経済の本性と不可分に結びついた諸範疇を規準とするという事実」(250頁)である。それはとりわけ極端な自由主義者の攻撃の的である。そうした自由主義者は,社会的利益は,個々人の利益の合計,ないし,ひとつの集団そのものの独立した利益(それは個々人の利益の合計とは一致しない)とみなす。前者の場合,社会的利益は独自のかたちでは存在しないので,それは規準となりえない。後者の場合は,それは社会成員に強制によって押しつけられなければならない。氏は,こうした批判的結論に異論を唱えることは可能だが,ここにはある程度は真の問題が存在しているという。それは社会的利益を一義的に定義することの困難性に関わって生ずる諸問題が存在するからである。これらの諸問題を解決する過程には,「大衆の直接的な,現在の利益は多くの場合はっきりしているので(低い蓄積,高い賃金,短い労働時間),民主主義的な政治メカニズムを通じての選択は,幅広いかつ長期的な配慮を十分に取り入れるのにはむいていないという危惧が」
(251頁)つきまとう。このことが,政治的エリートの指導的役割を正当化する根拠であり,労働者階級人民の「歴史的利益」を認識した「前衛」の存在理由となっているという。「レーニン的な前衛党概念は,革命闘争における陰謀集団的状況から,経済過程および経済的意志決定システムの中心へ置き換えられる」(251〜252頁)。党が,革命前の選ばれた個人の党から大衆党へ転形したために,党が一般社会的観点を代表するということになり,党の指導的役割という規定は,正しい決定能力が党指導部の狭い範囲の人々の手中にあることを意味することとなる。
 こうした諸要因の検討によって,現代の生産力発展の条件の中には,「計画化へむかう傾向と,私的経済合理性から社会的経済合理性への合理性規準の移行と,この両者にともなって現れる副作用」(252頁)といえる政治体制の民主主義的発展に不都合な客観的な条件が存在すると氏は結論する。

 氏は,社会的現実における生産力発展と社会主義の政治体制の民主的発展との関係については,意志決定の目的と方法とがますます複雑化しているという事実を踏まえた検討が求められているという。そして氏は,一方でマイナスの連関の要素が生まれているが,他方でプラスの連関をなす要素も生まれており,後者が優勢をしめ,長期的発展を究極的に規定する力となっているとする認識を示している。このプラスの要素を,氏は,西欧の産業社会学,管理・組織論の研究成果を参照しつつ指摘する。さまざまな疑義があるにもかかわらず,「管理方法におこった変化を長期的に観察してみると,組織の効率性を研究してきた社会科学の諸分野の代表的研究者達が一致して主張してきた結論の,一般的方向性は現実によって確証されていると考えてよい証拠があるのである」(255頁)。
 それはテイラー主義の放棄が普遍化していることにあてはまる。労働者を受動的で言うことを聞かない存在とする前提に立つテーラー主義は,「労働者には冷徹な外部からの司令と,自発的作業領域の制限(分業の徹底化と,仕事の機械的作業への限定への傾向はここから生まれる)が必要であり,また高度に発達した報酬と罰則の体系による活動への刺激(なかんずく完全な出来高給制の採用という形で),細目にわたる操作,等々が必要だというのである」(255頁)。
 現代の経営社会学や心理学は,テイラー主義と企業内関係の人間化(同じ原理のソフトな家父長制版)には,「原理はともに,受身な実行者,操作の対象とのみみなされた人間の労働を外部から指揮すること」(225〜226頁)だという理由で反対ないし懐疑的だという。それにたいして,「人間はもともと能動的,意欲的で,自分の目的を組織の目的に統合する能力があり,進んで責任を引き受け自主性を発揮するものである。・・・・だから,管理にとっての基本的任務は,人間が労働過程の真の主体であることを実体化するのに有利な条件をつくりだすこと,なかんずく人間に自分の仕事を自ら組織することを可能ならしめることによってそれを実体化することにある」(256頁)という仮説が提出された。その場合の前提は,直接・間接の意志決定への参加である。ただし,見せかけだけの参加は悪い結果を生み出すだけである。
 専制的方法と家父長制的方法が有効性を失ったのは,組織課題の複雑さの増大や労働者の文化的専門職業的レヴェルが上昇したためばかりではなく,労働者の物質的欲求の充足度の向上によって,他のカテゴリーの欲求(人間個性の確証,潜在能力の利用,創造的可能性の開発)が重要な意味を持つようになったためである。この仮説とマルクス主義の社会化と労働の脱疎外化の理論は類似しているという。
 また,この潮流は,合理性を求める組織は官僚化するというウェーバーのテーゼの解釈を変更させ,組織体系の類型論は専制主義と民主主義との対比だけでは尽きない,と考えるようになったという。「明確な規則にしたがって作業がなされ形式の整ったヒエラルヒー的な組織構造は,専制的な組織体にも民主主義的な組織体形にも,ともにその構成要素として存在しうる」(257頁)。組織目的,諸組織の関係のあり方,特定のレヴェルでの人選の原則,行動規則などが民主的な決定とコントロールが確保されていれば,「官僚制化,とりわけすべての組織レヴェルでの行動規則の遵守」(同)は,民主主義の不可欠の構成要素となるというのである(この点について今日では,より発展した見地から見直しを要する諸事象が生み出されていることに注意しておきたい――筆者)。
 効率性と民主主義の結合関係は,社会主義諸国では,労働者が共同経営者になることへの期待が大きいために,資本主義企業より強大である。労働者を組織の目的に統合しなければならないという要請は,マクロ経済レヴェルでは,適切な動機づけの決定と情報の流れの改善を必要とする。
 国民経済全体に関わる意志決定過程の情報の流れの問題が変更される。一方では,意志決定は,規模の拡大ばかりでなく,相互に複雑に絡み合った問題を取り扱わなければならない。「選択は複数の選択肢を多段階,多位相にわたる総合的検討にもとづかなければならない」(259頁)。したがって,意志決定の過程は,選択肢の真の分析,検討の過程となることが不可欠となる。他方では,それは,生産手段の公的所有にもとづく,資源の中央配分によって,経済的圧力による直接的な作用を減少させる。だから,社会主義諸国では,中央意志決定機関への発展した自由な情報システムをつくりだす必要性とそれを規制,操作しうる特殊な可能性との葛藤が現れ,それが生産力発展へのブレーキとなる。それをなくすためには,政治体制の民主化,政治的プレッシャーと決定センターが選択する場合に,あらゆる情報源を利用し,選択肢を真に分析し,計画の基本部分にもそれらを総合的に利用することを強制するような装置をつくりださなければならない。
 ブルス氏は,自由主義者による市場の示す規準を唯一の合理的規準とする考えを,合理的経済決定のための前提条件が市場規準をはるかに越えて拡大し社会的規準を含まなければならないという理由で否定する。「社会的規準を含む経済決定(主にマクロ経済的決定)は,本来的に政治的」(264頁)なのである。
 決定の準備過程における専門家の増大する役割は,入手可能な情報の完全な利用とその結果の自由な公開の政治的条件が満たされるほど,より間違いなく果たされるようになるし,選択は正確な規定を受けた可能性の中から行われるため,その選択は,狭い専門家集団の範囲を越えて,利害,発意,価値体系という領域に入る。
 「もし純粋に政治的な理由がなくなり,またもし(これは本書の主題の枠外にあるが)システムが形式上も適切に構築されているならば――とりわけ,労働者の,地域的,協同組合的自主管理,自立した労働組合等々と,議会制度とが正しく結合されていれば――,民主主義と経済効率性との正の相関が必ずやはっきりと現れるだろう」(267頁)。
 動機づけ(モチベーション)という点から見た参加と相互責任の民主主義の重要性が増大した。第一に,教育水準の上昇と生産技術の水準が,労働の性格を変化させつつある。教育水準が高く,思考,自立性,創意を要求され,仕事への意欲の高い労働者が,社会的決定への選択への実効ある発言をする機会を奪われているが,それは労働意欲にマイナスに作用する。第二に,経済的意志決定への幅広い参加等々の原則をあらゆる教育的回路を通じて実現するという社会主義的な社会的統合という公式イデオロギーは,体制の正統性の根拠であるが,その公式イデオロギーと現実との乖離は,社会道徳を低下させ,労働への社会主義的態度の否定,マイナスの経済効果,をもたらす。これをみせかけの民主主義的形態によって偽装することは,逆効果をもたらすだけである。

 氏は,結局,「マルクス主義革命理論の根本命題の一つ――大衆が自らの経験によって学ばなければならない――がここに完全にあてはまる」(270〜271頁)として,民主主義的機構の方が最終的には利点が多いとしている。物質的および文化的欲求の充足させるように圧力をかけることは,経済的合理性を高めるし,この圧力によって意志決定センターは,より効率的な解を探し求めるように緊迫した状態に追い込まれ,消費と社会サーヴィスを最大限に考慮せざるをえなくなり,自己が行使する決定の自由が社会的制約を受けているということを意識せざるをえなくなるのである。
 指導的地位にたつ職員の選考の問題は重要である。全体主義的政治独裁においては,人事選考はネガティヴなものであり,「自己保存のために,奴隷根性と付和雷同性を規準に,可能な限り綿密な人事管理を行うのである」(272頁)。この規準は,社会発展のダイナミズムをおしころしてしまう。スターリン時代には,生命の危険を伴う威嚇の中で,奴隷的な同調主義的態度が広範囲に見られた。ポスト・スターリン時代には,意図的な差別と特権の政策(アメとむちの)が役割を果たした。現実が,批判意識を持てという公式イデオロギーの説教を無視することが賢明であることを人々に教えた。人々は,うっかり本気で「踏み外し」を実行すれば,処罰の対象となるのが明白なので「従順にしている方が勘定に合う」(273頁)と考えたのである。
 カードル(基幹要員)の質的水準は,政治的複数主義に依存する。今日の社会主義国での指導的カードルの弱体化の要因は,組織的劣悪さにあり,人々は自発性を窒息させられ,「上からおしつけられた「ゲームのルール」に歩調を合わせるための行動と,合理性にもとづいた社会的に有用な行動とのあいだの葛藤をたえずひき起こしている」(274頁)。経済関係のカードル,例えば,社会主義企業の企業長が,リスクを恐れる保険業者の立場か無責任な冒険家の立場になるのは,共同所有者の実感がつくられていないし,決定の正当性とリスクを民主的に評価するメカニズムがないためであるという。

 1970年代初頭のソ連および人民民主主義諸国での経済改革は,経済の機能システムの分権化,市場メカニズムの領域拡大を進めるものである。経済改革は政治的民主化の経済的規定因の一つである。だが,社会主義における分権化には,「基本的マクロ経済的決定,『サブ・システム』の目的関数とその操業の外的パラメーターには及ばない」(276頁)という限界がある。したがって,生産手段の社会化は資源の中央配分の排除によって実現されない。結局,社会化の問題は,「経済の脱政治化」ではなく「政治の民主化」の次元において決まるのである。
 経済の機能システムを分権化モデルの原則によって再構築すれば,企業の経済効率が上がり,労働集団の統合力,グループの連帯感,他の集団からの自立意識が育ってくる。そうなると,今度は,中央の民主化がともなわないと,「システム」と「サブ・システム」の間の矛盾が激化し,脱統合化の傾向が強まる。この矛盾が生みだす一つの方向は,一層の分権化である。その結果は,割拠主義の圧力に負けて,脱統合化が強化されることである。それへの反動として極端な集権主義への復帰が圧力が画策されかねない。第二の方向は,中央を民主化し,「システム」と「サブ・システム」との相互浸透をはかることである。ブルス氏は当然この方向を評価する。その理由は,それによって,集権と分権が合理的な比率を維持でき,集団の利益(それを通じての個人の利益)と社会全体の利益の調整がしやすくなるから,というものである。
 社会主義諸国での物質的刺激の利用という問題は,「新左翼」からの批判対象であった。それに対して,氏は,「労働に応じた分配」の原則にしたがった給与格差は必要だし,それを無視するとマイナスの経済効果をもたらすことはあきらかで,それが社会の紐帯を破壊しかねない,と批判する。しかし,他方で物質的刺激にのみ頼ることの危険性に注意を促す。「われわれは共同所有者としての感情という点を強調したい」(279頁)。

「だから解決は,経済的刺激の役割を否定することではなく,刺激の体系を適切につくり上げること,および,直接的,物質的利益と,厳密な意味での生産手段の社会化の過程を形成しているすべての要素とを,したがってまず第一に政治体制の民主化とを整合的に調和させることである」(279〜280頁)。

 この条件が満たされてはじめて,他人と社会全体の利益の犠牲の上に自己の利益を最大化しようとする傾向が抑えられ,また社会的連帯を規準にして,「人間とその環境への投資」の必要という規準によって,配分する国民所得部分を徐々に増大させるように,物質的刺激が作用させられるようになる。
 ブルス氏は,「生産手段の社会化は歴史の法則であるというマルクス主義の仮説は正しい」(283頁)と述べる。生産手段の真の社会化の政治的前提条件をつくるためには,根本的な変革,すなわち,政府を実際に社会に依拠させること,つまり,政府の出す政策に合法的に疑義を提出し,修正案を出し,これを拒否して大衆の多数に支持される他の政策に替えられるメカニズムをつくり,真の言論の自由,結社の自由,法への服従,選挙(人的・政策的選択肢がある)による権力への社会的委任を定期的に求める義務,等々によって,政府にたいする社会的制御を確保し,合法的な組織的反対派を許すこと,が必要だというのである。
 ここで,氏は,これまでの結論を一般的テーゼとしてまとめ,締めくくっている。すなわち,「政治体制の発展は経済的に必然だという結論によって,われわれは,唯物史観の基本的諸範疇――生産諸力,生産諸関係および政治的上部構造――の社会主義のもとでの弁証法的相互関係をより詳細に規定することができる。第一章で発展した諸国における国家介入を検討したさいに,われわれはすでに経済と政治の間の関係が修正されていることに読者の注意を喚起しておいた。社会的所有にたいするわれわれの定義(第二章)は,あるいみでは,土台―上部構造の関係を逆転させたものといえる。というのはそれは,所有の性格を権力の性格からひきだしたものであり,そうすることによって,社会主義の生産関係を政治的諸関係の本質にもとづいて規定したものだからである。今やわれわれは最後に一点つけ加えることができる。すなわち,政治体制の発展は経済的に決定されている。だから,唯物史観の一般的法則は社会主義においては修正されなければならない。だがその最も根本的特徴は保持される。すなわち,とどのつまりは生産力の発展が決定的役割を果たす。生産諸関係の範疇は,社会主義のもとでは,権力がどのように行使されるか,そのされ方と不可分である。生産力と生産諸関係のあいだの矛盾は,なによりもまず生産力と政治体制のあいだの矛盾として現れる。そして,生産力と生産諸関係の必然的一致の法則は,政治体制を一定の段階の生産力発展の要求に適合させるという方向で作用する」(284〜285頁)。

 ブルス氏は,これまでの結論によっては,社会主義諸国における生産手段所有の社会化の展開に予断を下すことはできないという。それは問題を開示したのであり,それをするには,生きた社会的諸勢力の相互作用の問題を,歴史的要因を考慮に入れ,発展過程の経済的,非経済的諸側面との関係をも含めて,複雑な具体性の中で,検討する必要がある。
 民主主義と集権的な計画経済の効率的な機能の双方の要請に応えうる政治体制の形態についての主要な問題は,議会制度と権力分割原理とが経済的意志決定センターにたいする制御用具として利用可能かどうかということである。ブルス氏の結論は,「このような体制(そしてとくに,議会を労働者自主管理,地域および協同組合自主管理と結合させるための諸方策)の具体的形態を決めるさいに必要なことは,議会制度を改善し,これを豊かなものにすること,それを現代の社会的経済的要請にかなったものとすることであって,否定し去ってしまうことではない」(287頁)というものである。最も洗練された民主主義形態であっても,本質的に民主主義的内容をもたないことがあるので,重要なのは真に内容のある転換のやり方,方法なのである。
 生産手段を公有化した国家の階級的性格をどう捉えるかという問題がある。それには氏は明確な立場をとるに十分な根拠をもっていないと断っている。その理由は,政治的階層分化にかんする経験的分析が不十分であり,社会主義社会にかんする社会学上の根本的理論問題が解明されていないからだという。「とりわけ,所有と権力の因果連関の方向が(資本主義と比較して)逆転しているために,公的所有を基礎にした支配と服従の関係を,従来の階級二分法的範疇で捉えることが全く無意味になっている」(288頁)。そう断りながら,氏は,次のような見方はひとつの見解として成立することは否定できないとしている。もし新しい搾取階級が権力を行使しているのならば,民主主義はこの「新しい階級」を打倒することによってのみ実現されるだろう。もし社会主義諸国における政治的ヒエラルヒーが階級的ヒエラルヒーでないとすれば,党と国家官僚の一大部分(高官を含む)を民主主義的変革の側に誘いこんだ改革の機会が増大するだろう。また,社会的圧力の強さ,方向,有効性を測るためには,労働者階級,農民,プチ・ブルジョア,インテリゲンツィア,「新中間階級」(とりわけ経営者的立場の技術系,経済系のインテリゲンツィア)等々の分析が深められねばならない。さらに,対外的諸側面の問題群がある。最後に,全体主義的独裁の長期化にともなう問題がある。権力と情報の独占は,警察力の社会への深部への浸透に基礎をもっているが,警察は,人民の組織的活動の試みを,すべてその萌芽の段階で圧殺することを狙っている。この独占は,物質的効果ばかりではなく,社会的政治的な自発的活動が成功しうるという確信を消すという知的な変化をもたらす。支配的政治体制と社会主義の本質の同一視を促す公式のプロパガンダが強化されているので,社会化への疑問と恐怖が一定の人々を捉えている。生活水準の向上にともなう安定化傾向と相まって,権力装置のイデオロギー(とりわけナショナリズム的な)的たて直しが,社会の一部の保守主義に支持を見いだすことによって可能となっている。

 これらは未完結のリストにすぎないと断った上での氏の結論。「生産手段の社会化の要請は生産力発展の現代の諸傾向と合致しており,それゆえ政治体制の民主主義的発展は経済的に必然である」(293頁)。この一般的命題は,社会主義とその近い将来に直面しているディレンマにたいして有効だが,「この理論的基礎だけから将来の形を先見することはできない」(同)。それは人間活動の歴史的意味を明らかにしたのであり,それによって人間活動の進歩性,反動性を測ることができるのである。社会・経済の進歩は単純な時間の関数ではない。が,それは,可能な諸発展方向のひとつについてその客観的進歩性を確証できれば,それを実現するための相対的な好機を測り,人間の活動をそれに向けて刺激する上で,大きな意味をもっている。

「一九五六年ポーランドでは,民主主義的社会主義を『愛される社会主義』とよんだ労働者の表現が人気を博した。一九六八年は,チェコスロヴァキアが『人間の顔をした社会主義』を試みた年として,歴史に刻まれることであろう。われわれが意識していなければならないのは,愛される社会主義,人間の顔をした社会主義は,人間自然の願望の表現であるばかりでなく,時代の要請に答える条件でもあるということである」(294〜295頁)。

(つづく)




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