共産主義者同盟(火花)

東欧「改革」のつきつけたもの(7)

流 広志
216号(1999年8月)所収


ポスト・スターリン期(前号から続き)

(3)統治方法の変化

 ブルス氏は,ここでの問題関心は,統治方法の変化と国権主義モデルのポスト・スターリン期の社会的・経済的発展の諸側面との間の関連があるかどうかに限られると断っている。その上で,最も一般的な変化はマス・テロルの放棄であるという。
 「スターリン型のテロルは実際に(あるいは潜在的にも)反対派に傾斜しているグループや個人に限定して向けられたものではなく,体制に全く従順で完全な,時には熱狂的な献身をもって体制によろこんで奉仕するような人々の大集団にも向けられた」(『社会化と政治体制』ブルス,大津定美訳,新評論 187頁)。
 体制側が反体制派・反政府グループなどを弾圧・抑圧することは,資本主義諸国でもとうぜん存在する。一般に反体制派や反政府派は,それを当然のこととして計算に入れて活動しているのが普通である。体制側の過度の抑圧や弾圧が,体制側や政府への反発や憎悪や怒りを大衆の間に拡げ,反体制側にたいする広範な同情と支持,支援をかち取ることに成功する可能性が増す場合があるのである。それが体制側の危機を現している場合には容易に体制側の命取りとなるケースがある。
 体制に従順で献身的な人々やグループに向けられるスターリン型のテロルはそれとは性格が異なる。ブルス氏は,その狙いが「予防効果」にあったという。すなわち,「特定の政策への反対を表現することだけでなく,将来において支配者が打ち出すあらゆるレヴェル(権力装置の中の諸環節それ自体をもふくめて)とあらゆる活動領域とが全般的な恐怖にとらえられてしまう状態をつくりだすことによって利いてくることをねらったのである。まさにそのためにスターリンのテロルは彼の支持者をも(時にはそれゆえに)とらえた」(187頁)のだというのである。1937年の大粛清と1940年代末と50年代初頭の粛清にしても,「階級闘争の激化」は上からのイニシャティヴが,「生け贄指名」の原則によって,発揮されたものであった。
 しかしスターリン的形態のテロルは段階的に放棄されていった。第一に,政治犯の釈放,第二に,ソ連共産党第20回大会および22回大会でマス・テロルを支配の方法としては政治的に否認し,犠牲者を公式に名誉回復することによって。
 そして,既存の政治体制を維持するために強制装置を用いる方法の大きな変化が起こった。とりわけ容疑者,被告,罪人に一定の基本的諸権利が回復されたのが大きい。しかし,もっとも重要な意義をもつのは,抑圧政策における「防衛的」とよばれたマス・テロルという方法を廃止し,それに代えて,体制にたいして危険とみられる政治活動を展開した(もしくはその疑いがある)個人や集団を指令にもとづいて「選択的」に叩くという方法に移行したことだと氏はいう。それは原則上の変更である。いまや刑罰は一般的に「何事か」のゆえに課せられるのであって,スターリン時代のように「何事もない」のにやられるのではなくなった。通常の状況では,危険を冒して活動する反体制派や反政府派は社会の圧倒的少数であり,そうした活動に関わらない多数の人々にとっては,それに関わらない限り,安心して暮らすことができるが,「防衛的テロル」から「選別的テロル」への移行によって,こうした状況が生み出されたのである。
 「実際の経験でわかったことは,新しい条件のもとでは,選別的テロルで十分な威嚇効果がえられるということ,とりわけゆるい監督を日常的に行う体制のもとでこそ残酷な一撃が利くのだということである。この後者の事実は,ゴムルカ体制の最後の局面のポーランドで,政治的挑発の利用というかたちで顕著な姿をみせた」(190頁)。
 マス・テロルの放棄は,経済的にも必要となっていた。「マス・テロルが,労働生産性,専門職業層の利用,より合理的な経済的,組織的および技術的解決の採用等々にマイナスの影響を与えており,それらを克服しなければならなかった。他方では,民衆の物質的生活の改善が政治的強制に新たな形態を与えるための不可欠の前提であった」(190〜191頁)。

 イデオロギーの領域でも,全面的な統制は放棄され,より選別的な手段に移行した。経済的な損失が明白なために,精密化学や技術学の実際上の諸問題への当局の直接的介入を放棄せざるをえなくなったし,組織規律の中からイデオロギー的呪縛が取り除かれた。芸術分野での介入領域は制限され,何をなすべきかよりも何をしてはならないかを知らせるという政策に転換した。
 社会科学においては党の選別的政策が発展した。ポーランドでは,数理経済学は障害なしに育っており,観念論的立場の哲学書も公然と書店に並べられていた。「当局は,そのことが体制の基礎を決して脅かすことなく,逆に大きな利点が政治的にも(ある種のインテリ層をひきつける),イデオロギー的にも(民族主義的スローガンを言いふらすのが容易になる)ある,ということを確信していた」(193頁)。
 「他方では社会科学が非協調主義的態度で根本問題(政治体制からみての,すなわち,社会主義社会の基本性格の問題と将来的展望にかかわるもの)に抵触してくる場合にはいつでも,規制と介入は無慈悲に行われた。だから,これほど明白なパラドクスはないといえる。ソ連と人民民主主義諸国における社会・経済的および政治的現実にたいして,マルクス主義的分析方法を適用しようとすると,いつも激しい非難の的になったのだから。・・・その傾向は,非協調主義者の主張を「非現実的」として上手にこれを排除し,公認の見解の独占的地位を確保することである」(194頁)。 
イデオロギー分野でのポスト・スターリン期の特徴は,マルクスが英国国教会について述べた「イギリスの高教会は,その三九の教条のうちの三八までにたいする攻撃は許しても,その貨幣収入の三九分の一にたいする攻撃は許さない」(『資本論』第1版序文 国民文庫 26頁)という態度に似た特殊なプラグマティズムであったという。社会主義諸国では党の権力独占の不可侵性への攻撃が許されないことであった。
 ポスト・スターリン期には「海外への門戸開放」が漸次的に進められた。その経済的理由を氏は,外国貿易を拡大し,技術的ギャップを埋める必要があったと述べている。「海外への門戸開放」は深刻な文化的,社会的,経済的帰結をもたらした。それは一方では,生産方法と機構の近代化を加速し,消費欲求の充足形態を革新し,生活様式の根本的変化を促進させ,社会主義国と発達した資本主義諸国との生活スタイルを接近させた。しかしその落差は人々を意気消沈させた。他方では,それが人々の強い消費志向を生みだし,それが支配体制に経済的・政治的要求のつきつけとして現れるようになった。
ポスト・スターリン期には,権力行使の形態は変わったが,共産党内の一握りの支配集団の権力独占という政治体制の中身の原則的な変化はなかった。すなわち,

(a)公式に選出された機関(インスタンツィー)にたいする権力装置および執行機関の支配的地位,これは垂直的な国家行政機構においても(国会にたいする政府の優位,地方議会にたいする常任幹部会の優位等),労働組合,党においてもみられる。
(b)党,国家および労働組合の諸機関をそれぞれの上位権力装置が候補者を押しつけることによって任命する。かくして選挙手続きは全くの形式に堕する。
(c)「党の指導的役割」という命題にピッタリ追従すること,つまり,人事政策の完全なコントロールを通じて,すべての制度体系を党機構に従属させ,自立的な政治活動,自由な結社の可能性等を排除してしまうこと。
(d)マス・コミュニケーション・メディアの独占,それは,新聞,出版,ラジオ,テレビ等における選別的人事と「平常時の」全般的,予防的検閲とによって行われる。
     (197頁)

 したがって,「結果的には,当局が緊急に必要とみなすことは,制度上の障害や制限なしに,これに従うことを,経済的圧力(職の与奪は上位者の手中にある)と警察力との双方によって強制することが可能だということである」(197頁)。その例は,1956年のハンガリーの経験であり,1968年のチェコスロヴァキアの事態であったという。「プラハの春」は既存の制度的枠組みと法秩序を越えることなく発展していったのだが,国権主義モデルの枠組みを越えた政治的内実を獲得するやいなや残虐な暴力が用いられた。その際に虚偽のプロパガンダがばらまかれたが,それは完全な情報独占のもとではじめて可能になるのである。

 ポーランドは,1956年に政治体制への真の民主化への希望を覚醒した国であった。大衆的な社会運動が,ゴムルカを権力の座につけた。大衆がゴムルカ擁護で団結していたことでソ連の介入は阻止され,ポーランド統一労働者の新指導部は,短期の衝突と動揺の後,ソ連によって承認された。ところが,1956年10月は,民主化の潮流の終局であり,逆行過程の開始点になった。
 党機構のしばらくの縮小の過程の後,逆の過程が起こった。そして新たな機構が次々とつくられていったが,それはポーランド統一労働者党第三回大会(1959年)以後の政治的側面と経済的側面の相互関係を証明した。すなわち,より高い蓄積への復帰と実質賃金上昇率の停滞が起こったのである。
 党機関の実質的な複数制選挙はすぐに消滅し,民主化運動の加担者は徐々に,そして慎重に,最初は党および国家機構から,つづいて軍および治安機構から,排除されていった。 「ポーランドの十月」によって,複数候補の原則が導入された。それによって民主的選挙制度が発展することが期待された。しかし,候補者名簿は上で作成されるものであり,実際には名簿の最初の候補者が自動的に選ばれることになっていたのである。「一議席に複数候補制を導入したことは,当初は衝撃的な変化とさえみえるかもしれないが,現実には,体制の他の要素が不変のままならば,何の変化も起らない。当局がそれを他のプロパガンダのための切り札として使う可能性を与えるだけのことである」(201頁)。
 1956年10月以前の革新運動の要求によって創設された経済評議会は,当局の諸施策を公然と論評し,提案を行う専門家集団として,新たな情報回路を開くことが期待された。しかし1958年の初頭には,助言のゆえに衰えさせられた。経済情勢にたいする評価と将来への展望を独自に行ったために,閣僚会議議長(首相)は信任を継続しなかった。それによって経済評議会は消滅した。もう一つのケースは,党の第4回大会前の1966−70年の五カ年計画草案の討議の際に,ミハウ・カレツキが建設的提案を出そうとしたことに当局が反発し,彼が国家計画委員会の学術専門アドバイザーの地位から閉め出されたことである。それ以来,政府は独立の専門家による助言を求めなくなった。
 官僚主義化した労働組合は,民主化要求と労働組合の真の自立に反対した。そのため,それらの要求を掲げる労働者は労働者評議会を対置するようになった。それにたいして当局は,労働者評議会を党と労働組合に従属させようとした。また,農民自治は,党,国家,協同組合行政に従属させられた。
 政治諸関係を民主化する必要をよく認識していた党員インテリゲンツィアのグループは,マルクス主義的分析にもとづいた「逆行」への抵抗を起こしたが,それには,修正主義というレッテルを貼られた。知識人の独立した社会活動の可能性とその主要な領域である言論の自由は,一歩一歩狭められた。その抑圧手段は,公式の検閲制度と学生・知識人集団の雑誌や活動の行政的取り締まりである。しかしそれ以上に効果を発揮した手段は,「人間関係の内部に入り込むこと,そして,政治的従順さと人間関係おける協調性があるかどうかを規準にした選択と差別」(203〜204頁)であったという。ポーランドの高等教育機関では,公式の自治権剥奪に先だって,学術行政当局者の選挙は事実上は指命制と大差なくなっていた。「政治的および経済的圧力は純粋な警察権力による圧力と,ますます広範に結びついていった」(204頁)。
 1968年3月,国内における社会的,経済的対立の先鋭化やチェコスロヴァキアの事件に直面した政治体制は脅威にさらされていた。同時に知識人抑圧にたいする抵抗運動が展開されていた。学生運動は残虐な弾圧を受けた。知識人にたいする締め付けが強化された。党内の批判的グループが攻撃され,「警察派」と呼ばれていたグループが党内での地位を強化した。
 1967年3月の警察による弾圧は,学生運動とインテリゲンツィアを社会から,とりわけ大規模工業労働者から,隔離する政治目的を持って行われた。学生デモを危険な意図をもったものとする政治的プロパガンダがマス・メディアを通じてばらまかれ,また同時に,反ユダヤ主義(反シオニズム)の大々的なキャンペーンが展開された。反ユダヤ宣伝の目的は,政治的に活発なユダヤ系ポーランド人を排除し,混乱した状況に乗じて事態の真相にヴェールをかけることにあったという。
 1967年3月の事態は,1970年12月にバルト海沿岸の労働者デモで頂点に達した危機の予兆であり,触媒であったと氏は評価している。1967年3月の事件によって,ポーランド労働者統一党指導部は,専制的行動の無制限の自由を得たかのように錯覚し,政治的に常軌を逸したクリスマス休暇直前の食料品価格の大幅な値上げの決定を下したが,それは指導部にとって命取りとなった。「12月事件」によって,指導部の交代と修正主義とレッテルを貼られていた政治・社会関係にかんする評価が,1971年には公然と現れ,党機関の文書にさえみられるようになった。

(4)経済改革の諸変化について

 スターリン死後,民衆の物的生活条件の改善が緊急課題となったために,経済機能システムの過度の集権化にたいする批判の声があがった。当初はソ連・人民民主主義諸国の指導部は,多少の資源の再配分を指令するだけで事態が改善されると考えた。しかし,間もなくそれでは事態が改善されないことがはっきりした。ソ連での1955年の企業長の権限強化の決定が引き金を引いた。理論戦線では,新しい潮流が生まれ,価値法則をめぐる論争から超集権主義批判にむかった。
 ユーゴの経験についてのタブーが解かれた。その意義は,ユーゴは1955年春以来,もはや社会主義ではないと言えない状況にあったので,非ソ連型の解決の社会主義のタイプの存在を認めざるを得なくなったが,そこに集権体制の欠陥と取り組む具体的な内容が含まれていたことにあった。
 1955−6年の間に,経済の機能システムの改革の考え方が登場した。ソ連のリーベルマン論文,ハンガリーのジョルジ・ペーターの労作,ポーランドでの論争の拡大・・・・。それらの改革の基本方向は同一であったという。

「(a)経済決定の集権化の程度の引下げと国有セクターにおける下部単位(企業または企業群)の自立領域の拡大。垂直的ヒエラルヒー的結合の力を弱めて,(同一レヴェルの諸機関の間の)水平的結合を強めること,等々。
 (b)企業活動評価のための細目的指標の数,および生産要素の(物的タームまたは個々の企業に狭い選択幅を押しつけるという形での)直接的配分システムを廃止するか根本的に制限し,いわゆる総合指標(主に収益性)の役割を強化し,部分的にせよ生産手段と労働力の流入を企業の営業成績に結びつけること。
(c)企業(ないし一組の企業群)の営業成績と給与とを結合させること,それを刺激体系(インセンティブ)の,唯一ではないにしても少なくともひとつの根本原則とすること。

 どこでもとはいえないが,しかしきわめて頻繁に,企業経営への雇用者の参加(労働者自主管理)のための制度的条件を創り出すべきことが提案されている」(209〜210頁)。
 これらの提案は,これまでの直接的指令の方法から,価格,租税政策,信用政策等々による刺激体系による間接的規制の方法へ移行することを意味しており,その意味ではこの転換は計画経済に市場メカニズムの要素を導入することであった。しかしそれは同時に,中央計画を正確さ,効率,普遍性といった危険になりつつあったみせかけから自由にする意図をもっていた。「こうした意図をよく物語るのは,長期的(主に投資の)決定および短期的決定(主に所与の生産機構にとってなされる)とのそれぞれに要求される集権化と分権化の度合を区別すること,下位の機関の自立許容範囲を中央の司令的決定によって生まれる枠の内に制限すること,企業の「ゲームのルール」(目的関数)を彼らの部分的利益と国民経済全体の利益とを結合させるという規準によって上から設定すること,そして,経費と成果との計算に入りこむ基本的経済諸量(主に価格)のパラメーター的性格(企業にとっての)を保証し,同時に経済政策を司る中央機関が,企業の全般的選好に応じて企業に影響力をふるいうる余地を確保しようと努力していることである」(211頁)。
 ブルス氏は,その例としてポーランドの『経済モデルの変更の方向にかんする経済評議会テーゼ』(1957年)とソ連の数理経済学者で経済改革の理論家V.V.ノボジロフの『経済学と数学的方法』(1965年)からそれぞれ引用し,「一九五〇年代末の改革運動における主要な潮流は,基本的に,そして疑問の余地のないかたちで,中央による計画経済への支持を宣命していたのであり,集権的体制の放棄とある種の市場メカニズムの導入とを主張するのも,それが,社会主義的計画経済を改善し,全国民経済規模での最適化をはかるための前提条件をつくりだす手段となるとみていた」(212〜213頁)と結論している。それは,氏によれば「市場メカニズムを利用した計画経済モデル(分権化モデル)」であった。それにたいして自主管理モデルは「システム転換の基本方向を経済の無制限の分権化・・・・にみるような理論的立場」(213頁)なのである。

 つぎに氏は,「改革の第一波」(1950年代後半の諸試行)の崩壊の理由について考察している。なお,「改革の第二波」は約10年後に起こったものを指す。
 ソ連では,1965−7年に方向転換させられた改革は,「いわばフルシチョフの行政的分権化になってしまった」(同)。ハンガリーでは改革は一切行われず,改革運動が勝利したポーランドでは奇妙にも改革は敗北してしまった。改革を失敗に導いた理由の一つは,経済官僚の改革へのプラグマティックな観点からの懐疑や否定的評価にあった。「相当数の経済官僚が改革は経済の効率を引上げないばかりか,逆に弱めることになろうと考えていたのである」(214頁)。
 しかし第一波の改革の失敗の根本的原因は政治的なものであったと氏は結論する。経済改革が,政治体制を切り崩すのを恐れたためだというのである。経済改革の要請は,政治改革プログラムの構成要素の一つであったのであり,その狙いはスターリン主義的歪曲を是正するに止まらず,国権主義モデルの政治体制の枠組みを乗り越えることにあったのである。ポーランドではことにそうだったが,「党の指導者と機構を支える階層はまさに労働者評議会に脅威を感じたのである。労働者評議会は労働者の自然に生まれた自発性にもとづいてすでにいくつかの企業で成立していたし,また改革の主唱者によって経済的変革の本質的要素をなすものとみなされていたので,「二重権力」の脅威として支配機構のなかに底知れぬ嫌悪を生みだしていた」(214〜215頁)のである。ポーランドでもそうだが,「ハンガリーでは,労働者評議会に反対するキャンペーンが「正常化」戦線におけるひとつのリーディング・セクターとなったのである。自律性を要求する労働者評議会の運動,さらにもっとも重要な〔企業の枠を越える〕上向的な発展への試みは激しい反対に会ったのである」(215頁)。
 間接的影響への恐怖は経済改革が与える政治諸関係への長期的影響に結びついていた。真の分権化は,中央権力機構への依存を弱め,安定的ルールを用いる経済操縦への移行によって,変更の際に一定の手続きが必要となって特別扱いがしにくくなり,恣意的な介入の余地を狭める。経済決定を低位レヴェルに移し,職員給与の一部と拡大投資の可能性とを営業成績に結びつけることは,企業長の責任を高め,人事政策における企業長の権限を高める。

 ポーランドでは1956年10月以降,改革は引き延ばされた。1957年7月の経済評議会の新経済モデルに関するテーゼが採択されたが,何一つ実現しなかったし,産業部門の中央管理が企業連合に転換されたが,それはたんなるラヴェルの貼り替えにすぎなかった。多くの旧方式が徐々に復活しはじめた。

(a)一九五六年末にはその数が制限されていた企業にたいする義務的指標の一覧表は,徐々に長くなりはじめた。
(b)工場フォンドにたいする労働者代表の独自の管理権は,従業員への支払いの上限を設定し,フォンドの一定部分を住宅建設等々に予め割り当てることを義務化することによって,事実上制限された。
(c)労働者自主管理は,はじめは非公式に,後には(機が熟したとみられると)法律改正によって,党と大衆の間の「緩衝地帯」の役を果たす通常の制度に,一歩一歩組み込まれていった。(216〜217頁)。

 1956年末の法は,労働者評議会に企業管理における広範な権限を与え,労働者自治の原則を実行するのに好都合な条件を作りだした。「すなわち,労働者評議会は唯一の自主管理機関であり,評議員は民主的な方法で(上から候補者を押しつけることなく)選挙され,彼らは上級諸機関にたいしてよりも労働者に責任を負ったのである」(217頁)。 ところが,党は,一方で労働者自主管理にたいして積極的姿勢をたえず公言し,労働者自主管理にたいする批判は排除しながら,他方では,労働者評議会の現実的意義を剥奪し,党と労働組合に従属させるためにあらゆる努力を傾注したのである。第一に,改革の停滞が企業権限の拡大を押さえられたために,自主管理の経済的基盤が失われた。第二に,労働者評議会の代議員構成が,改革派にたいして,党機関や労組団体による直接のコントロールのもとに新たに選ばれた人達が優位に立つようになった。第三に,自主管理制度自体が改められた。
 1958年の新法によって,労働者自主管理会議(KSR)が作られ,労働者評議会に加えて,党委員会,労組の兼任職場委員,青年組織,技術者組織等々の代表が参加することになった。兼任の党委員会書記と労組の地方組織の議長を加えた労働者評議会の常任幹部会会員が,労働者自主管理会議の会期中に労働者自主管理を代表するものとされた。その目的は,「労働者によって選挙される唯一の機関であり,上から口を出す上級機関をもたない労働者評議会を,数の上でヒエラルヒー的な権力機構に従属し,かつ政治的,物質的そして規範的に完全に彼らに依存した党と労働組合の当局者によっておさえることである」(218〜219頁)。このために,労働者評議会は自律性を失い,労働者の真の代表としての権威をなくし,その理念は大きなダメージを受けた。

 1950年代半ばの経済改革に取り組んだ社会主義諸国(チェコスロヴァキアでは1958年)では,改革の停滞を正当化しようとする試みが現れた。氏によれば,それは三つに分類される。

(一)商品−貨幣形態は集権モデルの枠を越えるので,その利用と中央計画とは根本的に矛盾するという,全くドグマティックな主張。
(二)経済発展は,生産と投資の規模がますます拡大し,科学,技術の役割がますます増大するなかで起るので,こうした経済発展の客観的傾向は分権化に適合的でないという批判。この立論を背景に,分権化と企業のオートノミーの拡大への要求は,現代資本主義にさえ否定された過去への逆行だとされる。
(三)現代的な情報理論と技術の達成を基礎に集権モデルを合理化できるという立場。コンピュータリゼーションは,巨大な処理能力を備えたセンターへの情報の流れを加速化することにより,現在の司令的計画方法の欠陥を取り除き,分権化と市場メカニズム依存志向を余計な愚行と化してしまうであろう。(210〜211頁)。

 氏は,(三)の批判が重要であるとして検討している。氏は,こうした経済操縦の近代的方法と技術は,集権化の方向への発展を意味しているのではなく,逆にシステム(国民経済)の全体の成果の最適化のための意志決定過程のレヴェル分けの前提条件をつくるものであり,またそれが必然的であるとしている。純粋理論的には,市場にとって代わる自動化された情報システムを考えることは可能であるが,それは現実には不可能である。なぜなら,「最適化は人と人との関係を規定することになるから,(一)多数の重大な経済決定(時には最初のもの)が,原理的にいって,形式化された意志決定理論の枠組の外にあり,そして(二)情報の生産および加工それ自体が人間行動と独立に取り扱われることを許さないし,それと結びついた動機づけや刺激と離れてはますますありえない」(222頁)からである。
 氏はソ連の最適論者 A.Aボルコンスキーの「経済の機能様式を『人間−機械体系』と捉える彼の理論によれば,非公式の意志決定の諸要素と刺激体系とは,公式の意志決定過程と結合された,単一の全体の形にならなければならない」(同)という定式化は正確であるとしている。「一定の限界内で自動的に作用しながら,同時に全体的に中央レヴェルからの操縦に従うようなメカニズムを活用することは,社会主義体制にとってとてつもなく重要な意義」(同)があるが,それは,「『社会・経済的合理性』(ランゲ)の要求と人々の自発性と創意をひきだすという不可欠の展望とが結合される」(同)からである。「反対に,『集権モデル』が依拠する諸原則は,経済計画の機能システムの中でまさにこの特殊人間的要素を考慮に入れなければならない点をスッポリ落としてしまって,きわめて機械論的な定式化になっている。人間は一定の外的指令があるときのに動き,しかもその指令通りに動くとされている」(223頁)。
 最適計画の建設は,特定タイプの計画の反復でなければならない。集権化モデルとは違って,分権化モデルにおいてはプログラムを最適化計画に接近させる反復過程は,上位機関と自律的な「サブ・システム」との間の一種のゲームでなければならない。「このゲームは一定の行動ルール(自律的な目的関数)およびそれと結びついた利益関心とをもつものでなければならない」(224頁)。
 「計画建設過程の出発点は,高度に集計化された『誘導的プログラム』と『システム』全体にとっての拘束条件をこのプログラムとの関係でどう評価するかである。その評価が『サブ・システム』に発せられるパラメーターである。このパラメーターをもとにしてそ作成した最適プログラムを『サブ・システム』は『上位機関』に知らせ,『上位機関』が今度は数量や評価を訂正する。こうして反復過程の次の段階に入っていく。この型の反復過程は真の多段階計画化を前提することは明らかである」(同)
前提条件は,「自分の」目的関数をもった「サブ・システム」の相対的自律性であり,そしてこの目的関数が総合的タイプの指標(パラメーターの値で計算した費用と収益の全体に反応するようなもの)の極大化にもとづくものでなければならないというものである。すなわち,氏の結論は,第一に,市場メカニズムを利用する場合もそうでない場合も,自律性とゲームの結果にたいする利益関心とを「サブ・システム」の与えることが必要であり,第二に,短期計画作成に関わる膨大な数の経常的決定については,現在のところ,市場メカニズムを利用可能なものとしては唯一のものなので,それを計画化プロセスに装備することは,計画の客観性に貢献し,真の計画化の内実を高めることに寄与するだろう,というものである。
 「だから,経済学における数理−サイバネティックスの潮流の最も有名な代表者達(ポーランドのランゲ,ソ連のカントロヴィッチ,ネムチノフ,ノボジロフ,ハンガリーのコルナイ,リプタク,チェコスロヴァキアのハブル,ペリカン,キン,等々)がこぞって,集権的体制放棄説の断固たる主唱者であり,中には最も徹底した分権化論をとなえる人もあるということはけっして偶然ではない。サイバネティクスの発展と情報流通のコンピュータ化の発展が,大システム操縦のための方法として提供している可能性と効用とをより深く認識するにつれて,以前には「分権化モデル」に反対だった多くの人達が,従来の立場を放棄することになった」(225頁)。

 つぎに氏は,改革の「第二波」(1960年代半ば)の検討に移る。
 アメリカの借款とソ連からの過剰支払分の返済,1956年動乱後の安定化援助金によって生まれた予備資源は底をついた。システムはあいかわず非合理的だった。直接的には製造業における資本集約度,素材集約度,労働集約度の低下率,あるいは増加率が妥当でなかったし,また間接的には顧客のニーズに合わない誤った司令による過度の在庫増を引き起こす生産が行われたのである。それは経済全般の水準の向上と国際分業の役割増大という新しい条件の下では,経済的に大きな負荷を課すことになり,とりわけ民衆の所得の伸びに深刻な影響を与えるものとなった。所得増大を経済混乱でのショック吸収装置として使うことが困難になり,社会的爆発の脅威が高まった。それに加えて,西欧諸国で起こった科学,技術,組織的な革命に追いつくという圧力が対外的矛盾として高まった。
 東独,チェコスロヴァキア,ハンガリーは,余剰労働力がないかきわめて少なく,外国貿易への依存度が高かったために,それらは強烈に現れたのである。それらの諸国では,労働生産性の伸びを追加雇用で補う可能性がないか限られていた。また基本的に原材料資源を輸入に依存しているために,原材料の効率的使用と工業製品輸出を着実に伸ばすことが,きわめて重要な意義をもっていた。後者は,技術革新(生産方法,製品の使用価値,外国市場での競争力における革新等々)の前提条件と結びついている。生産効率の悪化は,生産能力の発展水準に比べて不釣り合いに低い民衆の生活水準に結果する。このタイプの危機は1962年−64年にチェコスロヴァキアに現れ,東独ではとりわけ1962年と1965年に現れ,またハンガリーでも1964年と1965年の成長率の低下に現れた。以前に多少とも似かよった経済発展水準にあった隣接の資本主義諸国と比較がそれら諸国で行われたが,その結果は,否定的なものであった。そのため,既存の経済機能システムにたいする批判が強まった。そして改革の「第二波」の予告はこれら諸国から発せられることになったのである。
 ソ連,ポーランド,ブルガリア,ルーマニアでは,外延的成長要因,とりわけ余剰労働力が存在していたために,改革を大幅に引き延ばす余地がまだ残されていた。それに加えて,ポーランドではある時期まで農業生産が好調に伸びていた,ソ連では原材料基盤の発展と生産と輸出能力の順調な伸びがあった,ブルガリアでは観光収入が急激に増加した,ルーマニアでは,観光増と西欧諸国からの投資借款があった,などの特殊事情があった。
 ところが,1960年代にはこれらの諸国でも経済は失敗した。それは,集権的な経済機能システムと生産諸力の発展の要請との矛盾が激化したためだという。その矛盾は,第一に,改革のための予備が尽きたために,第二に,改革のプログラムにたいする社会の信頼が失われたために,より激化した。「第二波」を開始した諸国が改革によって経済効率を引き上げれば,発展の遅れた諸国が旧体制を墨守することは経済水準のギャップの拡大を引き起こしてしまう。それは資本主義諸国への輸出でもコメコン域内貿易でも,他の国に優位に立たれてしまうことを意味していた。また,人民民主主義諸国は互いにソ連からの原材料供給確保をめぐって競争関係に立っていた。原材料を獲得することはますます困難になり,国際水準に適合した商品で支払うことが必要となってきた。増大する輸入ニーズに工業製品輸出でまかなうことが難しくなり,集権的経済機能システムが,技術向上,労働生産性の引上げ,生産構造の近代化等を実現することは不可能になりつつあった。コメコンの市場統合は困難であり,西欧の共同市場の発展を前に,経済困難と政治的トラブルは先鋭化していた。こうした状況の下で,1960年代にはポーランドがコメコン域内に市場メカニズムを導入するよう提案した。

 東独における経済改革は1963年に始まった。その際に権力独占の弱体化を防ぐために最大限の注意が払われた。改革は,企業と企業連合の自律性の拡大と市場メカニズムのより幅広い利用に進んだ。頂上から企業レヴェルに与えられる義務的指標の数はかなり抑えられたが,司令的ヒエラルヒー的計画の原則はそのままであった。利潤と企業の発展余力と企業労働者の所得との結合関係は現れたが,そのまわりには無数の制約が課せられた。国家計画を離れた投資プロジェクトの実施の可能性は小さかった。利潤とボーナスとは,部分的指標という細目的指標の達成度によって,営業成績で許される支払額と現実の支払額との関係が決まるという仕方で,結合されていた。価格,計算上のパラメーターは,国家機関が固定していた。基本的意志決定は中央レヴェルが直接に握っていた。外国貿易は以前よりは高い自律性をえたが,管理方法は司令的要素を保持したままであった。
 チェコスロヴァキアでは,改革を経済分野に限ろうとするノヴォトニー一派によって開始された。しかし,それは政治体制の民主化をもとめる大衆運動の発展によって乗り越えられた。経済機能システムの改革は,「プラハの春」の総合的な変革プログラムの一部になった。それは1968年9月のチェコスロヴァキア共産党第14回大会で具体的な形になる予定であった。この「人間の顔をした社会主義」の発展と経済改革の実施は,ソ連とワルシャワ条約機構4カ国の干渉と「正常化」の過程によって,抑えられてしまった。  ハンガリーでは,1968年1月1日に数年の準備をへた改革が実施に移された。ブルス氏は,この改革が,「規制された市場メカニズムをもつ計画経済モデル」の理念を完全な形で実現しているものだという。その証拠は,「最下位のものも含めて連続した各段階の経済諸機関に出された義務的指標にもとづいてつくられる計画作製のヒエラルヒー的原則と切断されていること」(235頁)である。「中央計画と下位レヴェル(部門,企業)の計画とは,組織的には相互に独立である」(同)。義務的指標,生産要素の配分システムはないし,企業の裁量下にある資源・設備・労働者所得の増減はその企業の営業成績と結び合わされ,それが課税対象となる。企業の独立性は主に経常的営業業務であるが,投資分野にも部分的に拡大されている。「この投資の一定部分は,今期ないし将来の収入からの自己金融(後者の場合は銀行信用を通して)で調達される」(236頁)。
 同時に中央計画の優先性を保証する努力もなされた。第一に,経済発展の歩調と方向にかかわる投資率と投資資源の基本部分の配分,消費向け所得の一般的配分率にかかわる私的消費と公的消費の割合など,そして社会的,政治的な優先目的とその実現に必要な資源,についての基本的,長期的事項の意志決定が中央に確保された。第二に,中央は,企業にとっての具合的な目的関数(「ゲームのルール」)を確保した。第三に,経済政策のための用具体系が中央が集中して掌握した。「政策用具は,価格,利子率,税率,外貨交換比率等々のような,企業の経済計算に入りこむ基本的経済諸量の直接的決定または有効な制御を可能にするものでなければならない」(236頁)。価格はパラメーター的なものではなければならないが,そのためには国家機関による適切な価格設定,価格変動幅の設定,市場競争によって寡占的価格操作を容易にチェックできる商品群にたいする価格自由化(1968−70年には,自由価格群は小売売上げの総価値の五分の一んしし四分の一を越えなかった。236頁)などの,方法がとられなければならない。貿易面の企業の自立性が高まった。
 ソ連では1965年に経済改革が発表された。それは市場メカニズム(ソ連の用語で経済計算)の役割の増大,義務的指標の削減,企業の独立性を高めること,を内容としていた。しかし,政治的保守主義が強く,改革は弱々しいものに抑えられた。
 1960年代後半に当局による経済改革の空しいキャンペーンがくり返されたポーランドでは,1967年3月の事件以来,反修正主義キャンペーンが熱を帯び,「市場社会主義」の断罪が行われた。1970年の激しいデフレ政策をカモフラージュするために,1971年1月1日から,新しい経済的刺激体系が実施されることになり,二年間の賃金凍結とその後の上昇幅の抑制策が発表された。それは,生活必需物資の価格引上げと重なって,1970年12月の労働者デモを呼び起こした。ブルガリアでは1960年代半ばに,経済改革が発表されたが,その後の経過はソ連と同じであった。ルーマニアは,体制改革の全体的プログラムを持ち出さなかったが,実際には事実上の変化を導入していた。

 ブルス氏の結論。1960年代後半には,経済の集権的機能システムを放棄しなければならないことは,公式の綱領文書に入るほど普遍的な認識になっていたが,改革の導入は二つの場合に限られ,しかも首尾一貫した形ではハンガリーだけだったが,そのハンガリーでも労働者自主管理の問題は回避されてしまった。したがって,機能システムの基本的な変化は,ポスト・スターリン期には起こらなかった。
 ポスト・スターリン期には,社会・経済的側面,権力行使の方法の面,経済の機能システムの面,で変化は起こったし,それを過小評価することはできないが,それでも厳密な意味での公的所有の社会的所有への転換は起こらなかった。極端な形での全体主義的独裁は後退し,体制の柔軟性,変化した条件への適応能力はあるていど増大した。しかし,

「社会主義の国権主義モデルを構成している生産諸関係の根本的特徴,とりわけわれわれが問題の核心的部門と考えている政治体制の根本的特徴は,無傷のままである。社会全体も労働者階級も(労働者階級の独裁が社会主義国家の本質をなすとされるが)どちらも,ポスト・スターリン時代においては,権力を握っていないし,かくして彼らは国有化された生産手段の所有者にもなっていない」(240頁)。

*つぎは,最終章(第4章 社会化の将来の展望)である。
(つづく)




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