共産主義者同盟(火花)

昨今の北朝鮮情勢について(番外)

―― 「不審船」と新ガイドライン ――

市田市蔵
213号(1999年5月)所収


 これまで本誌上で2回にわたり、北朝鮮の現状をめぐる諸問題を取り上げた。今回は本来ならばその「下」として、北朝鮮に対する関係各国の動向を調べるつもりだった。だが、今後の北朝鮮情勢に関して大きな鍵を握る米国の新たな対北朝鮮政策の確定、いわゆる「ペリー報告」は未だ発表されていない。それゆえ、今回は予定を見送り、もう少し様子を見た上で取り組むべきだと考えた。
 ところが、そうこうするうち、北朝鮮情勢に間接的に絡むいくつかの大きな事象が浮上してきた。それは、「不審船」問題を契機として生じた防衛論議であり、それと連動した形で急転した新ガイドライン関連法案審議であり、これが実際に発動された場合のモデル・ケースの一つとも言うべきユーゴスラヴィア空爆である。
 もとより、これらすべてを捉えることは不可能だが、今回は北朝鮮問題に触れる限りで、これらについて見ておきたいと考える。

 去る3月23日から24日にかけて生じた、いわゆる「不審船」による日本領海の侵犯は、自衛隊創設以来初の海上警備行動の発令をもふくめ、日本の防衛をめぐる論議を活性化させた。
 日本政府は同30日の記者会見で「不審船」を北朝鮮の工作船と断定するが、すでに新聞・テレビでは北朝鮮との関連を指摘するような報道がなされていた。昨年のミサイル発射の余波も醒めやらぬなかで、北朝鮮の軍事的脅威を強調し、軍事的対応の整備・強化を煽動する論調が再び前面に押し出されるようになった。
 状況から見る限り、たしかに「不審船」が北朝鮮の工作船であることを否定する論拠は少ない。しかし、この種の「不審船」の存在は以前からたびたび確認されている。海上保安庁が追跡を行った例も少なくない。にもかかわらず、その際に海上警備行動が発令されることはなかった。
 「なぜ今回に限って大がかりな捕物になったのか、理解に苦しむ」
 「以前から不審船を発見すれば地元警察などに通報していた。今回のように徹底して海上から追尾することはなかったのでは。新ガイドライン法案の審議と重なり、符合した演出といわれても仕方ない一面もある」(3月25日付『朝日新聞』)
 海自関係者さえこのように漏らすことからも明らかなように、今回の日本政府の対応が新ガイドライン成立への道を掃き清める意図を持っていたことは明らかだろう。したがって、今回発動された海上警備行動について法的技術的側面から妥当性を吟味すると同時に、政治的構造的な文脈を読み解き、批判する作業は不可欠である。
 今回の「不審船」の行動が領海侵犯であることは言を待たない。しかし、だとすればその対応は、直截には新ガイドラインや有事法制はおろか、日米安保とも無関係な範囲に属するはずである。ところが、事件直後から閣僚レベルで「有事」にまつわる発言が繰り返され、両者があたかも同一視されるような方向へと世論誘導がなされた。われわれはこうしたデマゴギー的手法に対して、きっぱりと批判・弾劾しなければならない。

 新ガイドライン関連法案は一般に「周辺事態法」などと言われるが、基本的には北東アジアから中東までを睨んだ米軍の軍事行動に対して、日本が実践的=実戦的なサポートを行い得るようにするためのものだ。1996年の日米安保再定義で謳われたグローバル・パートナーシップ(地球規模の同盟関係)の具体化である。ただし、具体的な想定としては台湾海峡や南沙諸島を焦点とする中国対策であり、もっとも身近には、やはり北朝鮮・朝鮮半島対策と言えるだろう。
 1978年に閣議決定された旧ガイドラインはそれ自体、「条約」としての日米安保に実効性を付加するものであったが、策定時期にも明らかなように、東西冷戦に規定された限界も有していた。冷戦後のグローバル・ヘゲモニーをもって任じる米国にとって、この限界が最初に認識されたのは中東・湾岸戦争であり、1994年に北朝鮮の核問題が山場を迎える過程では、軍事力を発動した際に予想される日本のサポート体制の脆弱性という形で、焦眉の課題として浮上したのである。
 日本側からすれば、新ガイドラインの承認は言葉の真の意味における「戦後政治の総決算」に他ならず、米国のグローバル・ヘゲモニーのもとで権益確保を行うために、応分の負担を担うことを意味する。日本のブルジョワジーにこれ以外の選択肢がないことを考えれば、遅かれ早かれ法案の成立を行わなければならない。ただし、それによって国内的な政治流動が起きるのは避けたい。政党間の根回しである程度防ぐにしても、社会的な追い風を背景に一気に切り抜けたい――。

 その意味で、「不審船」はまさに「渡りに船」であった。デマゴギー的手法が浸透しやすい環境が作られていたからである。先にも触れたが、ポイントとなるのは北朝鮮の軍事的脅威という、ブルジョワ的な宣伝・煽動である。
 核開発をめぐる一連の問題、対南工作の継続、ミサイルの発射といった強硬な対外姿勢と、神秘主義的で徹底的な独裁政治や経済的破綻に見られる客観的な存立基盤の危うさとが相まって、とりわけ日本では、北朝鮮という国家総体に対して一種の「不気味さ」が醸成され、それが「脅威論」を支えている(ここに、日本社会における民族差別が加わることは言うまでもない)。「不審船」問題も、それが単独の事象である限りはさまざまな解釈の余地が生ずるが、上のような一連の過程のなかにおかれた場合には、「脅威論」の傍証という側面が容易に現実味を帯びてくる。こうして、民間の危機管理至上主義者などがよく口にする、「北朝鮮は崩壊の淵に瀕しているが故に、軍事的暴発も辞さない」という考え方や有事対策への世論誘導が浸透する余地が拡大していくのである。
 もちろん、近代国家における戦争では、一定の成算もなしに破れかぶれで軍事力が行使される例など、おそらくあり得ないはずである。後から見れば荒唐無稽であっても、その当時にはいくつかの有利な要因が考慮されている。この点を踏まえれば、現在の北朝鮮をとりまく客観的状況の中で、北朝鮮の側から戦端を開くに足る材料は存在しないと言うべきだろう。したがって、ブルジョワ的な宣伝・煽動の根本的な欠落は明らかである。
 とはいえ、こうした指摘のみではブルジョワ的な宣伝・煽動に対して明確な境界線を引くことは難しい。というのも、ブルジョワジーが問題視する北朝鮮の行為は、北東アジアのプロレタリア大衆にとっても見過ごすべきでない問題をはらんでいるからだ。
 巷間、朝鮮半島における緊張関係の高まりの根拠を「米・日帝国主義の北朝鮮敵視政策」に求める論調が見られる。これは間違いではないものの、極めて一面的だと言わざるを得ない。北朝鮮現体制の基本的性格についてはすでに本誌208、210号で触れたが、対外的な強硬姿勢にせよ対内的な独裁統治にせよ、それらが北朝鮮プロレタリア大衆の利益に適うものではなく、現体制特権層の利益でしかないことは明らかである。
 それゆえ、特権層は自らの特殊権益を国民的民族的利益として偽装しなければならないが、その際に求められるのが「米・日帝国主義」や「南朝鮮傀儡」および「反革命分子」の存在である。つまり、朝鮮半島における緊張感の高まりは、北朝鮮現体制にとっても否定すべきものではなく、国内を一元的に統制する上ではむしろ有利に働くのである。もちろん、これは、対外的な強硬姿勢を演じることで、米国を直接対話の場に引きずり出し、譲歩と引き換えに現体制生き残りの条件を確保するという、北朝鮮流の瀬戸際外交にも有利に作用する。
 こうした側面を見逃す限り、ブルジョワ的な宣伝・煽動を克服するどころか、それと拮抗することすら困難になると言わざるを得ない。

 米国型グローバル・ヘゲモニーの発動は、中東・湾岸戦争やソマリア内戦への介入のようにあからさまな場合以外でも、基本的には国益(ただし、地理的概念ではない)に基づく権力の行使である。したがって、米国が主導し実現しようとする新たな世界秩序に対して、美辞麗句の陰に隠された意図や限界を暴露し批判することは、さほど困難ではない。
 ただし、困難はその先に来る。つまり、米国型グローバル・ヘゲモニーを何にとって換えるのか、という問題である。この問題を考える上で具体的な材料となるのが、コソボ問題、NATOによるユーゴ空爆である。
 NATOはユーゴ空爆を、ミロシェビッチ政権が行っている(と言われる)アルバニア系住民への迫害を中止させるための「人道的介入」として打ち出している。これに対して、加盟国の中にクルド系住民に迫害を続けて恥じないトルコが存在することを見れば、その虚構性はたやすく批判できる。あるいはまた、NATO創設50周年式典で発表された「新戦略概念」に域外での軍事介入の容認が盛り込まれていることを見れば、NATO―米国の狙いがカフカス地方、さらに中国の背後を押さえることにあり、ユーゴ空爆がその足がかりであると暴露することも不可能ではなかろう。だが、こうした批判、暴露は「ではコソボはどうなるのか?」という問題の回答にはならない。
 戦争によって平和をつくり出すことができないことは言うまでもない。だが他方、空爆の中止は戦争の「欠如」に過ぎず、コソボにおける平和を意味しないのである。

 先に触れたように、いわゆる朝鮮半島有事の可能性は、現時点では極めて小さい。しかし、事態の進展如何では、まったく生じないとも言い切れないだろう。仮に、それが核問題絡みで生じるとすれば、武力衝突のあり方は中東・湾岸戦争に似通ったものとなり、対内的な独裁政治の甚だしさが焦点化した場合には、ユーゴ空爆のように「人道的介入」が喧伝される可能性もある。いずれにせよ、今日の戦争において前線も後方もないことを考えれば、その際にもっとも大きな犠牲を被るのは南北のプロレタリア大衆であり、日本のプロレタリア大衆もまた、加害者および被害者としての役割を不可避的に果たさざるを得なくなる。
 それゆえにこそ、われわれは朝鮮半島における武力衝突につながる一切の動きと対決しなければならない。だが同時に、北朝鮮現体制によるプロレタリア大衆への抑圧を不問に付したまま形成される「平和」にも反対する。こうした「平和」を容認することは、主観的意図を問わず、結局のところ「巻き込まれなければいい」式の傍観者的位置に陥らざるを得ない。これではブルジョワジーの側からの問題のつきつけに対抗することはできないし、まして、新たな社会を創造するプロレタリアートの歴史的任務とは、まったく無関係な態度である。
 ブルジョワジーによる武力行使という形での問題解決、他方、戦争の「欠如」としての「平和」――これら二つの解決策を超える、プロレタリアートの問題解決とは何か。
 いうまでもなく、それは、現状、南・北、日本という国境、軍事境界線で分断され、それぞれの単位ごとに集約された形で現れている各々のプロレタリア大衆の利害を、国境やその他の限定に囚われない普遍的利害へと結合していくさまざまな実践であり、試行錯誤である。
 そして、すでにそのための足がかりは、北朝鮮難民を援助するNGO活動や北朝鮮難民自身の手による現体制の告発として現れている(*)。
 われわれは引き続きこうした動きに注目し、連帯関係の構築へ向けて努力しなければならない。

(*)この点に関して、安哲兄弟著/李英和・RENK訳『コッチェビの叫び―秘密カメラが覗いた北朝鮮』(ザ・マサダ、1999年)を参照されたい。




TOP