共産主義者同盟(火花)

東欧「改革」のつきつけたもの(3)

流 広志
212号(1999年4月)所収


 東欧の体制の特徴を明らかにするに際して,ブルス氏が提案するモデルを検討することは,問題をわかりやすくするという利点がある。それはまず,ハイエク流の自由主義の提出している全体主義対自由主義というモデルの粗雑さを暴露する基準としてきわめて有効である。そしてそれは,この立場と密接に関係している市場経済と統制経済の排他的対抗という図式をも根拠のないものとして暴露するのにも有効である。それは,レーニン晩年の協同組合化=社会主義化の提案とも合致し,またなによりも,マルクス・エンゲルスの所有の社会化というテーゼにわれわれを立ち返らせてくれるものである。しかしなによりも,東欧がその「改革」の歴史において示した現実変革力の秘密を解きあかすことは,先進資本主義国の根底的変革にとって,大きなヒントを与えることになる。とくに,東欧諸国には,東ドイツやチェコなどの工業国が存在していたし,その初期には,集権化と中央集権的計画経済は,これらの国の工業化,実質賃金の上昇,教育水準の上昇,などの具体的成果を生み出したというのも事実だからである。これは,伊藤誠氏が『現代の社会主義』(講談社教養文庫)で述べているところによれば,ハイエクなどの分析や予想を裏切るものであった。
 東欧政権は,労働のインセンティブを高めることは重要なことであったし,それは無謀な高成長路線を軒並み採用していたために,より必要とされた。充分な消費物資が労働の対価として必要だったし,また教育,年金,医療,公共サービスの充実なども必要であった。スターリンによれば,それは,生産手段生産部門を優先的に発展させることによって可能であった。それら諸国では,労働を指揮する上からの強制やイデオロギー強化などの上からの統制という手法ばかりではなく,物質的刺激策や報償制度や勲章による名誉の授与などの「アメ」をも使った政策が実行された。フルシチョフ政権は,食糧増産を目指して大衆を動員して大規模な開墾を行ったし,ブレジネフ政権では,凶作による穀物・飼料の不足に際してアメリカの多国籍資本(アグリカルチャー)からそれらを買い付けた。現実の物質的必要が体制を動かしたのであって,イデオロギーはその現実を覆うものにすぎなかったのである。
 それは資本主義世界でも同じことである。現在のアメリカの「ニュー・エコノミー」経済学は,数字をそうしたイデオロギーとして使っている。例えば,最近のアメリカ合衆国での製造業での週労働時間は平均で48時間と言われており,これは日本のそれを上回っているのであるが,このような数字はアメリカ経済の成長の要因としては無視され,もっぱら情報産業へのシフトだとか金融・資本・商品市場の規制のなさなどが好況の要因として取り上げられているが,それは資本家好みの空想にすぎないのである。

前提

 ブルス氏が,この本で前提としているのは,マルクス・エンゲルスの基本テーゼを踏まえたものである。氏は,生産力と生産関係との,また生産関係(経済的土台)と上部構造との,必然的照応の法則を承認する。それはマルクス主義の社会発展モデルの社会主義の生成と発展を規定する要因である。第二に,氏は,所有制についてのマルクス・エンゲルスのテーゼを文字どおりに復権しようとしている。それは,公有制を私有制と規定し社会的所有(生産手段の社会化)と区別する。問題はもちろんこの区別の基準である。かれはそれは政治的民主主義の深化の度合いだというのである。社会主義においては,政治と経済は分かちがたく結合しており,経済問題は政治問題でもあるからというのがその理由である。ブルス氏はその点で,後期資本主義で顕著になる同様の傾向を含むものとして社会主義を規定している。後期資本主義においても,国家の経済領域への介入は常態となり,政治と経済の結合は深まるからである。西欧資本主義はその傾向が顕著であるし,またアメリカでもイギリスでも,経済成長が民主主義の発展と密接な関係があることは明らかである。ただしそれには資本制生産様式と新たな民主主義との矛盾という側面があるということが今日では重要である。
 サッチャーイズムやレーガノミクスを経済発展の原因とする保守主義者・自由主義者の評価は明らかに身びいきな「お話」に過ぎない。両国での経済成長は,イギリスではサッチャーイズムをなし崩しに後退させたメジャー政権からトニー・ブレア労働党政権にかけてだし,アメリカでは,やはりレーガノミクスの事実上の清算を進めたブッシュ共和党政権から民主党クリントン政権にかけてであって,その点はあきらかに過小評価されている。これはレーガン,サッチャーの政策の成果が後から出てきたのだとするのは間違いであり,これらの「偉大な保守革命」を清算することで,経済的に蘇ったという事実は強調しておかなければならない。したがって,新保守主義や新自由主義が空想している民営化や国家の介入の排除によって経済の発展がもたらされるというテーゼが空想にすぎないということは,この事実が充分に証明していると私は考える。
 資本主義の生産諸力の発展につれて,たえざる生産関係の転形過程が進行する。それは,私的所有の転形としての会社的所有という連合による所有への転化や所有と経営の分離,公共セクターの登場,などである。この過程を逆転させるために,サッチャー,レーガンは,国家の暴力装置を異常に大規模に動員しなければならなかった。しかしそれは,資本主義の古典時代であるイギリスの19世紀に支配的であったような個人経営にまでは引き戻されなかった。「個人資本家=企業家」(18頁)という古典的資本は,もっぱら大株式資本の系列や下請けなどの形態に転形して,歴史的に一掃されたのである。それらの保守革命は,生産手段の所有形態としては公共セクターの株式会社化などの連合所有への移行を実現したにすぎなかった。株式会社は私的所有には違いないが,それは資本主義の枠内での私的所有の止揚であって,共有制への過渡をなすにすぎないのである。
 国家の介入の拡大がもたらす重要な変化についてのブルス氏のテーゼはきわめて論争的な性格のものである。氏は,国家の恒常的な介入(マクロ経済政策と所得の再分配など)によって,所有権を生産手段の実際の比較的恒久な処分権と解釈すれば,所有が権力から生じるようになるというのである。シュンペーターの社会主義の定義「生産手段と生産それ自体にたいする管理権が中央当局にまかされているような制度類型,あるいは社会の経済事情は原理上,公的領域にあって私的領域にはないといってよいような制度類型である」(23頁)を踏まえ,それを資本主義が準備し社会主義にも受け継がれる初期条件として,その合理性を主張する。公的所有が経済の合理的運営の可能性を高める理由は,1.それによって,全体の利益を基準にした資源配分が可能になり,均衡のための諸条件が確定すること,2.成長率の選択,実行の条件,所得分配政策によって総需要を総供給に適合させることによる循環的変動の排除,全国規模で計画的に経済活動を調整可能となるので競争相手の行動と市況の不安定性を除去ないし軽減できる,ということにあるという。(24頁)。

「所有とは,人間の物に対する関係,とりわけ物質的生活諸条件の再生産過程における物的要素に対する関係を通して実現されるところの社会関係である。この点を考えるなら,どんな形態の所有もそれを基礎に形成される社会関係を明示する規定,この本質にふれる性格規定を要求するのである」。「私的所有とは,社会の特定部分の手に生産手段が独占されること,かくして社会の他の部分から生産手段を奪ってしまうことを意味する(32頁)」。

 この定義から,ブルス氏は公的所有をも私的所有であるとする結論を導く。公的所有でも,生産手段の事実上の処分権が国家権力を保持する恒常的グループの手に集積し,社会の大多数がこの処分権を奪われていれば,私的所有だというのである。
 生産力の発展は社会主義的生産関係と照応するという法則の主張,そして公的所有が社会主義では特殊な性格を帯びそれは社会的所有へ転成するというテーゼは,スターリン派の主要な生産手段の国有化(公有化)によって生産力を制限する条件はなくなった(生産関係と生産力の矛盾は指導的諸機関のただしい政策によって意識的に照応させることができるとされていた)ので生産力はどんどん増大するというテーゼを否定するものである。スターリンにとって問題は,生産力の発展に上手く生産諸関係を適応させることを妨げるのは,古い生産諸関係に頑固に固執する「惰性的な勢力」がこの足を引っ張ることである。
 それに対して,ブルス氏は,資本主義経済の発展によって展開される私有性の即自的対立としての公共性の発展が,国有(公有)経済としての社会主義の最初の段階に連続するものとして受け継がれると主張する。そうした意味で,生産手段の国有(公有)制を私有制と規定する。そしてこの段階を必然であるとしながら,生産力と生産関係の必然的照応の法則はこの段階での社会発展法則としてとうぜん妥当するし,国有(公有)経済の生産力の発展は,所有制の点では所有の社会化という生産関係の転形へと発展させらねばならないと主張する。その場合に,国有(公有)経済では,政治と経済の関係が密接に結びついているということが特徴的だという。その結果,この体制の下では,労働組合の経済的闘争それ自体が政治化するようになる。つまり労働組合の経済闘争はただちに政治闘争となるというのである。これはおそらくポーランドの経験などを踏まえたものなのであろう。
 したがって,ブルス氏は,生産手段の公有化は,後期資本主義の連続として歴史的必然とし,マクロ経済の資源の全体としての分配の達成や所得分配による総需要と総供給のバランスの達成などによる経済循環や市況の不安定さの排除など,合理性を備えているとしている。それは,低開発国での経済発展にとって有効だと主張する。しかし,この資本主義から連続する段階において,そこで,生産力の発展が進むと生産関係との間の矛盾が深化し,生産関係の転形が必要となる。周知のように,スターリンは,主要な生産手段が(国有化)公有化されたので生産力発展の障害は体制そのものには存在しないと主張したのであった。それが説得力をもったのは,確かにスターリン体制の初期には,宣伝目的の誇張があったとはいえ,工業化や技術の高度化や実質賃金の上昇や生活水準の上昇がもたらされた事実があったということは無視できないだろう。成長率という点でも,日本などを除けば,他の資本主義諸国より高い水準を記録していた時期があったのである。しかしそれは長くは続かなかった。それにもかかわらずブルス氏は,生産力の発展にはこのモデルは初期の工業化の段階にある国や低開発国での工業化や経済発展にはある時期有効であるという。問題は,そうした公有(国有)経済によって一定の生産力の発展を遂げた後のことである。この経済において達成された一定の生産力発展に必然的に照応する生産関係への転形が必然であるというのがブルス氏のテーゼである。
 スターリンは,『経済学教科書』をめぐる論争において,「同志ノートキンへの回答」とする文書で,生産諸力と生産諸関係は完全に照応するとしながら,この「完全な照応」ということばを「社会主義のもとでは,通常,生産諸関係と生産諸力とが衝突するまでにたちいたることがなく,社会は,立ちおくれる生産諸関係を生産諸力の性格に適時に照応させるだけの可能性をもっている,というように理解すべきである」(『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』 国民文庫=211a 62頁)と述べている。つづけて,「社会主義社会は,抵抗を組織しうるだけの,命脈のつきつつある諸階級を,その構成のなかにもっていないからである。もちろん,社会主義のもとでも,生産諸関係を変更する必要があることを理解しない,立ちおくれた惰性的な勢力はあるだろうが,しかし,もちろん,衝突にまでならないうちに,これら勢力は難なく克服されるだろう」(同)と述べているが,これが,1930年代以来の「粛清」やスターリン元帥下での偉大な「大祖国戦争」の勝利などによって,「立ちおくれた惰性的な勢力」を「難なく克服」した上でのことばであることを忘れてはならないであろう。

 このスターリンのことばをそのままあてはめてソ連・東欧の歴史的事実を見てみるならば,生産諸関係と生産諸力とが衝突したし,生産諸関係が生産諸力発展の障害になっていたことはあきらかである。そして,この矛盾の性格をめぐってブルス氏とスターリンの根本的な違いがあるのである。スターリンは,主要な生産手段を国有化(公有化)した以上は,この矛盾は「敵対的」な矛盾ではなくなったと主張している。他方,ブルス氏は,この国有(公有)の性格を私有制と規定しており,したがって,この所有制の下でのこの矛盾は「敵対的」な矛盾という性格を持ちうるのである。それは前述のように所有の性格を「実効的処分権」にみていることからくるのである。すなわちそれは所有の性格,「誰のものか?」を,法律上の文言などからではなく,「それを誰が排他的に占有し実際に処分しているのか?」から規定しているわけである。そして公的所有から社会的所有への転化を主張する。
 ブルス氏は,スターリンの基本的な諸テーゼに根本的な異議を唱えているのであるが,とくに,所有の性格をめぐる違いについて,国権主義モデルと自主管理モデルを対比させて論じている第二章以降の部分の前提として押さえておきたい。また,「生産力の発展」という概念についても,「生産力の発展は常に経済成長と並行しいつでも成長指数で測ることができるという考えをやめ」(40頁),「たんに行論において生産力の発展という概念を用いる時には,広い意味での人々のニーズを満たす潜在能力の増大という意味で使い,従来の意味での生産能力の単純な増大ではないということを強調するだけにとどまる」(41頁)ことを記していることを付け加えておかねばならない。ブルス氏はこの人々のニーズに,環境保護のために無制限の生産増加を押さえ社会的ニーズのべつの適当な組み合わせをつくることなどを例としてあげている。

(つづく)




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