共産主義者同盟(火花)

ついに行われた脳死臓器移植について(1)

渋谷一三
211号(1999年3月)所収


 殺人の疑いのある和田教授による心臓移植以来、という鳴り物入りで、97年10月に施行された臓器移植法後、1年4カ月たって初めての「脳死」臓器移植が行われてしまった。 臓器移植法に反対の立場の意見を多く掲載していた朝日にしても、『「鼓動」つないだ90分 望み託し感謝重ねて』と題して、さもそれがヒューマニズムでもあるかのごとき報道を重ねている。
 今回は再び、この脳死臓器移植問題について検討を加えたい。

1. 今回移植された臓器は、脳死でなくても「移植可能」な臓器です

 高知赤十字病院で摘出された角膜は、同じ高知の医科大学で移植された。角膜は周知のように、心停止後の移植が定着しており、膜という比較的単純な機能については移植後の拒否反応もないことが実証されている。
 というのも、角膜は生化学的反応を機能としている物ではなく、光学的物理学的単純機能を果たしている膜だからです。
 腎臓は、国立長崎中央病院と東北大学で移植が行われた。この腎臓という臓器も、血管の一部が変化してまとまって空豆大の「機関」となったとも考えうる臓器で、血液の濾過を任務としている臓器です。半透膜とほぼ同様の単純な機能の集積によって複雑な任務を果たしている。
 この臓器もまた、心停止後の移植が比較的定着している。事実、腎臓チームは高知空港からの定期便で運搬をしており、そう急がなくても大丈夫と判断している。
 肝臓と心臓は、拒否反応が強く、特に肝臓は生化学的反応を主要任務とする器官で、その果たす機能についてはまだよく分かっていない器官です。当然のことながら拒否反応は強い。しかし、その5分の1があれば回復することに見られるように、大変にタフな器官でもあり、心停止後であれ「脳死」であれ、定着率にそう差はないと考えられている。
 実のところ、比較するデータがなく、米国に「遅れ」をとっているという意識からしても、データを取るためにも、「脳死」臓器移植をしたくてたまらないというのが本当のところでしょう。
 移植による拒否反応という格好の実験場を得て、はじめて拒否反応を研究出来るし、蛋白質による個体識別の仕組みを研究することが可能になりそうな幻想があり、実は近代科学は実験さえできれば認識可能だという仮定・幻想にとらわれて成立しているのです。このことについては、後で述べることにします。
 こう書いている時に、患者の容態が悪化したとのニュースが入ってきた。免疫抑制剤の大量投与が続けられることだろう。これは、これで、免疫抑制に対する格好の実験場です。ヒューマニズムとはとりあえず無縁の世界であり、センセーショナルにヒューマニズムが実現されたとでも言わんばかりの報道姿勢を確立してしまったかのようなマスコミに対しては、ヒューマニズムという観点からの議論を別に提起していきたい。
 肝臓については、心停止後の移植と「脳死」後の移植との拒否反応の差異についてはデータがない。米国での「脳死」からの移植後の生存日数のデータと日本での心停止後移植のデータを比較しさえすればある程度の結論がでる性質のものですが、その両方のデータがない。少なくとも日本のそれは、意図的に公表されていない。患者は臓器移植以外に助かる手はないと医師に宣告され、素朴にもそれを信じ込まされてしまっている。宣告した医師の誰一人として移植後の拒否反応を除去する術を知っているわけでもなく、移植後の生存日数の見当がつくわけでもないのです。はっきりと有り体に言うべきです。「今は実験が必要なのです。あなたの貴重な犠牲の上に、将来は拒絶反応を除去出来る日が来るのではないかと信じてしまっているのです」と。
 心臓についても、同様です。心停止後の移植と「脳死」後の移植の生存日数を比較するデータすら公表されていないのです。

 ということで、第1節で確認しておきたかったことは、臓器移植という土俵の上に乗って議論をしたところでも、「脳死」からの臓器移植をする根拠はなく、心停止後の移植と差異はないと推測できるということ、および、臓器移植をすることで生存日数が短縮されていると推測しうるという点です。

 移植をしない方が不便ではあっても生存日数は長いからこそ、移植をした方が長く生きられますよと言える日が来るまでデータの公表はしない。移植を推進しようと思っている医者の主観的願望の中では、移植の経験を積むことでいつの日か拒絶反応を根絶できないまでも、緩和する方法が見つかるという仮定の下で良心の呵責を感じないようにしているというのが本当の処でしょう。
 さらに、今回移植した臓器は「脳死」でなければいけなかったものは何もないという事実も確認しておきたい。

2. 部品思想

 臓器移植の背景には、臓器の機能が分からず人工的に臓器を代替する「臓器」を造ることが出来ないという現実があります。まず、この当たり前の事実を確認しておくことが肝心です。
 だが、やろうとしていることは、臓器の代替物をつくれないくせに拒絶反応という生命の根幹にかかわる反応を統御するということです。これは、自己矛盾です。
 なのに、なぜ臓器移植をしようとするのか。その第1の動機である実験場を確保することによってこそ認識が得られるという仮定は後述するとして、第2の動機として、資本主義の発展によって蔓延した部品思想があります。
 今日、西洋医学と東洋医学というように分類しうる分岐が発生したのが西洋における資本主義の発達以降であります。
 今日、その差異は東洋医学は「気」とか「つぼ」とか、はっきり分かっていないが経験的に分かっている段階特有の神秘主義的表現を残しながらも、一貫して流れている思想は、人体を一体のものとして有機的に関連性を持ったものとして考えるという点であるのに対し、西洋医学は部分として現実を切り取ることによって単純化した「現実」を操作し、そのことによって部分の機能を部分的に明確にすることに成功したという点にあります。
 注意しなければならないのは、部分の機能が分かったのではなく、部分の機能を部分的・一時的に理解し得たという点です。実験の思想は、条件を単純化し、出来うる限り一つの条件にした下での比較をすることで成立します。単純化できえない事象を単純ではないと確認したところで、神秘主義に陥り、それ以上深まらないのは言うまでもありません。しかし、単純化できえない事象をとりあえず単純化しえたと仮定して進めてみるという前提を忘れたところには、現実は単なる諸要素の偶然的衝突・配合・巡り合わせで結果として決定されているだけだという法則主義が発生します。
 近代西洋思想はまさにこの法則主義そのものです。それは、全てを未分明のこととしてきた神秘主義・神の支配に対する歴史的前進ではありましたが、同時に未分明なだけではなく、変動し、関連し合っている事象への傲慢さを生み、要素論を生み出しました。複雑に絡み合っている事態の全ての構成要素を特定でき、その要素の法則をつかめば、どのように複雑に見える事態でも解釈可能になりうるという立場です。
 この立場は、一方で複雑系の科学を、とりあえずそう命名できるところまでは発展させ、複素数を現実のものにし始めるという道を切り開く原動力になりましたが、反面、不確定性原理や不完全性定理などの問題に早期に行き当たり、神秘主義を生み出しました。今日、ある程度の影響力を持てている新興宗教は大なり小なりこの段階での新たな神秘主義の発生に根拠を置いています。また、哲学においては、法則主義からする「哲学の死滅」宣言と、全く逆に、ソシュール、デリダなどにつながる枠組み論、あるいは不可知論など、全く同様の現象がみうけられます。
 一言で言えば西洋近代思想の終焉ということです。それを、フクヤマさんのように「歴史の終焉」と言おうが言うまいが、今日では誰しもが承認し感じとっていることです。医学においても、東洋医学の見直しが始められたのが1970年頃からです。これは、直接に全共闘運動の影響でしたが、全共闘運動そのものが歴史における法則主義・主観的にはマルクス主義者である人間をすら支配した近代思想の影響との闘争(スターリニズム批判)がその発生の根拠でした。

 さて、この西洋近代思想の中から、部品の思想が生まれます。むしろ正しく言うなら、資本主義の発展にともなう分業制度が部品という概念を生み出し、近代思想の形成を促したともいえるでしょう。その発展であるフォードシステムの登場は部品思想の確立を象徴的に表しています。
 例えば鍬は近代思想で表現すれば、木製の柄の部分と鉄製の先端部分とで構成されています。鍬は近代以前からあります。柄は木で出来ていなければ重くて使えない。固い物に当たる先端部分は鉄がよい。これは経験的にそうであって、傷んだ部分だけを交換すればよいという部品思想から生み出されたものではありません。
 柄の一つ一つは使う人に合わせて作られ、かつ、使いながら修正していくものでした。そのために鍛冶屋は村になければならず、大量生産をして流布させることなど到底できないものでした。鉄製の部分はすり減れば研ぎ、交換するものではなく、交換を前提に柄の部分と先端の部分に分かたれたのでもありません。
 部品の思想は大量生産と工場制工業の成立によって人々の意識の奥深くを支配するようになり得たのです。

 さきに、くどくどしいかも知れぬと思いつつ、西洋近代思想の沿革を追ったのも、資本主義の発展との照応関係をはっきりさせるためでした。それが、思想と言う形態にまで純化し高め上げられた結果、その影響は全的に人間の思考を支配する力を獲得します。資本主義を主観的に否定しているスターリンという個人の例を引いたのも、決してそれがスターリン個人にではなく、労働運動をしている人々の中にもむしろ普通に見られることだからです。
 問題の医学界に於いても全く同様で、西洋近代思想を相対化できている人々は少なく、臓器移植推進「派」は例外なく部品思想にとらわれ近代主義思想に意識の奥深くまで支配されている人々です。マスコミにおいても、世間においても、患者に於いてすらそうです。

(以下続く)




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