共産主義者同盟(火花)

マルチカルチュラリズム(多文化主義)のゆくえ

―オーストラリアの人種・エスニック問題をめぐって 2

杉本 修平
205号(1998年9月)所収


4.マルチカルチュラリズムへの視角をめぐって

(1)マルチカルチュラリズム定義の曖昧さ

 冒頭にも触れたが、マルチカルチュラリズム(多文化主義)は、「ひとつの社会の内部において複数の文化の共存を是とし、文化の共存がもたらすプラス面を積極的に評価しようとする主張ないしは運動」(注1)を指す。この言葉は、日本ではなじみが薄いものの、先進資本主義国では一つの「流行」となっている。だが、それが現実の政治的社会的文脈の中でもつ意味は多種多様であり、ひとくくりに論ずることは難しい。
 マルチカルチュラリズムの概念が本格的に登場したのは、1970年代以降のカナダ、オーストラリアである。ともに、多くの人種・民族を抱える移民国であり、連邦制という緩やかな形態の国家である。カナダの場合、ケベック州の分離・独立要求等の問題に直面する中で、「2言語・多文化主義」が政策として採用された。オーストラリアについては既述のとおりである。両国において、マルチカルチュラリズムは、植民地時代に淵源を持つ矛盾や危機に対処し国民国家の形成を進めるための政策であり、シンボルなのである。 それに対し、例えば、「建国の理念」やWASPの文化・価値規範が厳然と存在するアメリカや強固な国民国家観が存在するフランス・ドイツ等の場合、政府がマルチカルチュラリズムを政策として掲げることはまずない。「多文化主義」や「相違への権利」は、人種差別・民族差別に抗し、「主流文化」への同化を拒否するマイノリティの主張であり、政治的な武器である。たしかに、これらの国々においても、マルチカルチュラリズム的な志向には肯定的、好意的な評価が与えられている。ただし、マジョリティの「精神的・制度的中核」はそのままにし、周縁部分にマイノリティーの要素を順次加えていくという「加算方式」の発想が色濃い。マルチカルチュラリズムはあくまでマイノリティーのためのものであり、傍流に位置するものでしかないと言える。
 さて、マルチカルチュラリズムが、民族的アイデンティティを結集軸とする運動の広がりと軌を一にし、新たな人種・エスニック関係を追求しようとするものであることは先述した。そこにおいては、旧来の人種差別主義や同化主義と異なり、「異文化の共存」を実現するために「文化の多様性の許容」が求められる。ところで、文化は民族衣装や料理、音楽、踊りのみを指すわけではない。それを「生活そのもの」と捉えるなら、生活様式や社会制度をも含むことになる。後に改めて触れるが、この意味での文化の共存は大きな困難を伴うだろう。しかし、それを実現するためのプランや、どこまで多様性を認めるのかについてのコンセンサスは、ここで取り上げたような国々においてもないに等しい。マルチカルチュラリズムの内容は、こうしたことからも、明確になっていないと言わざるを得ない。「多文化主義の定義は論者の数だけ存在する」と言われる所以である。

(2)オーストラリア・マルチカルチュラリズムの諸側面

オーストラリアの経験を検討する際にも、次のような指摘を踏まえておく必要がある。

「もちろん多文化主義政策として多言語放送が実施され、・・・・・・おのおののエスニック集団を尊重する政策が施されているが、どのような多文化社会を作り上げていくかについての国民的コンセンサスはなく、連邦政府も多文化社会実現の具体的ビジョンを提示できない状況にあると言えよう。現代のオーストラリアは、・・・・・・あくまで壮大な実験段階に身を置いているフロンティア国家なのであって、完成された多文化国家ではないことを十全に認識する必要がある。」(注2) 

 オーストラリア・マルチカルチュラリズムは一貫した指導的理念や計画をもって推進されてきたわけではない。むしろ、進行する現実を追う形でその内実を形成し変容させてきたと言える。むろん、様々な揺れは避けられないものであったし、今もそうだ。しかし、この四半世紀を経て、マルチカルチュラリズムはオーストラリア社会に根付いている。一方、その限界や、限界を超えていくために注目すべき契機も明らかになりつつある。このプロセスとそこに働いてきた関係の全体を捉え、その中から普遍的な課題を見いだしていくことが必要だと思う。
 そのために、次のような視点を手がかりとしたい。

1)オーストラリア・マルチカルチュラリズムは、もともと「上から」導入されたイデオロギー・政策であり、上層・エリートの利害に基づいて推進されてきたこと。
2)だが、それは「国策・国是」である以上、マイノリティのための政策にとどまるものではなく、マジョリティのありようや国家の諸制度全体を規定し、白人(アングロ・アイリッシュ系)の直接的利害に関わるものとなること。
3)一方、多様な人種・エスニック集団はマルチカルチュラリズムの実質的な実現、保証を求めて運動を積み重ねてきたこと。そして、いわば、「下から」のマルチカルチュラリズムを形成してきたこと。また、その運動が、労働運動や草の根の社会運動との結びつきを作り出してきたこと。

 他に、先住民との関係を押さえる必要があるが、今回はほんの少し触れるにとどめざるを得ない。

5.国民統合のための指導原理・政策としてのマルチカルチュラリズム

(1)70年代から80年代、「リベラル多元主義」から「構造的多元主義」へ

 3−(3)で述べたように、オーストラリアにおけるマルチカルチュラリズムの基礎を据えたのはウィットラム労働党政権であった。この時期労働党は、1)共通言語としての英語と、基本的人権、民主主義、能力・業績主義等の市民社会的な価値・規範を「公的生活」の基本におく、2)他方、「私的」な領域でのエスニック言語、文化の維持を認め、援助を行う、3)人種・エスニシティをめぐる差別を禁止し、4)非英語系の人々に対して生活機会の平等を保証する、という政策をとった。このような政策とそれによって形成される人種・エスニック関係は、一般に「リベラル多元主義」と呼ばれる。
 75年、発足したフレーザー保守連合政権は、マルチカルチュラリズムの継承を掲げ、76年「移民省」を「移民及びエスニック省」に改変、移民政策だけでなく、移民の定住後に対しても積極的手だてをとっていく姿勢を示した。また、ベトナム難民の大量受け入れにも踏み切った。フレーザー政権は、78年の「ガルバリーレポート」の提言に基づき、様々な政策を決定、実行したが、その「基本哲学」は「レポート」の次のような文章によく示されている。少し長いが引用する。

「われわれはオーストラリアに存在する広範な文化的、人種・民族的多様性を認識し、そのような多様性が国家にもたらす問題と利点を承知している。/われわれは、移民がその文化的、人種・民族的アイデンティティを維持する権利を有し、もしかれらがのぞむなら、彼らがそうするよう奨励、助力することが明らかにわれわれの国家にとって最大の利益になるものと確信している。エスニック・アイデンティティが社会全体をそこなうことなく強調され、多文化が相互に影響しあう過程をへながらわれわれの国民統合の生地に織りこまれるならば、そのときコミュニティ全体が多大な恩恵をうけ、その民主的活力が増強されよう。人々がその文化的背景とエスニック・グループに一体感をいだき、かつかれらのエスニシティがコミュニティに受け入れられるならば、かれらは自信を持って新しい社会にみずからの場所を見いだすことができるのである。」

 経済成長のための移民労働力受け入れの拡大と、ベトナム難民受け入れを進めたフレーザー政権は、国民統合の理念・政策としてのマルチカルチュラリズムをより確固としたものにしようとした。ポイントは次のような点である。1)多文化状況と異文化間相互理解の必要性、「オーストラリア社会のメンバー」全ての平等を確認すること。2)しかし、実際には、移民、特に非英語系の移民や難民が不利な状態におかれていることを認め、「特別な行政サービスとプログラム」を適用すること。3)同時に、「自助の精神」による移民・難民の適応努力を求めること。具体的政策は多岐にわたるが、主立ったものとして、「多文化教育」(英語、コミュニティ言語、異文化理解教育)の推進、「多文化問題研究所」の設立、エスニック・コミュニティの自助努力への援助、多言語放送の拡充、等が挙げられる。
 人種・エスニック間の不平等を是正すべく、「結果の平等」をめざす特別の手だて、すなわち積極的差別是正措置をとる、このような発展的政策によって、オーストラリア・マルチカルチュラリズムは「リベラル多元主義」から「構造的多元主義」の段階に移行したと言われる。
 しかし、「ガルバリーレポート」における「自助原則」の強調に対して、種々の疑問や批判が提出された。たしかにこの原則はエスニック・コミュニティに対する官僚的介入を後退させた(注3)。だが、「自助」の主体とされるエスニック・グループの規模や力量は様々であり、教育・福祉政策等の実施にあたって、内容や水準の不均質が生じる可能性があった。また、それぞれのエスニック・グループ自体、一枚岩ではなく、その内に階級や性による格差・分裂が存在していた。
 こうした問題は、進行する現実の中で顕在化し拡大していくことになる。

(2)80年代から90年代、労働党政権の迷走

 83年、フレーザー政権に代わって登場したホーク労働党政権は、それまでの移民定着プログラムを見直し新たな方針を打ち出すために調査を実施した。それはまず、「ジャップレポート」としてまとめられた。
 86年に発表されたこのレポートの特徴は、「自助原則」が姿を消し、政府の政策・プログラム・サービスが強調された点である。その一つの背景として、「主流主義」の考え方が展開されてきたことが挙げられる。この「主流主義」とは、「非英語系移民、難民を中心とした人々のためだけに作られた特別な制度を解体し、非英語系移民、難民が不利益を被らない形に従来の制度の構造改革を進める」というものである。要するに、多文化社会化した現実に、社会制度の方が適応し、一般サービス制度のもとにおいて援助的、積極差別是正的な援助を与えるようにしていくということだ。
 「小さな政府」や自助努力を基本とするフレーザー政権の多文化政策には、次のような面があった。 1)移民・難民の直面する問題の根拠を社会制度に求めるのではなく、人々の偏見や情報不足、英語能力の欠如に求め、異文化理解や語学教育に重点を置いたこと。 2)中産階級化したエスニック・グループの指導層を取り込もうとしたこと。つまり、激化しはじめた移民労働者の運動とエスニック運動との結合を恐れ、「分断政策」をとったこと。こうした面から捉えれば、フレーザー政権の多文化主義とは、エスニシティや文化をキーワードに、非英語系労働者の失業や貧困、構造的な差別の現実を覆い隠すものであったと言える。失望と批判が拡大した。「多文化主義のレトリックにもかかわらず、オーストラリア社会の制度的構造とそれに固有の基本的な文化価値はかわらなかった。エスニック中産階級はゲームの参加資格を得たが、そのルールと審判はあらかじめきめられていた。エスニック・コミュニティの多くはゲームから除外されたままである」(注4)ということだ。
 労働党は、こうした状況を引き受けようとしたのである。だが、その方針と行動は一貫性を欠くものであった。
 ホーク政権発足当時、オーストラリアは戦後最悪といわれる経済危機にあえぎ、二桁のインフレと失業率を抱えていた。経済の建て直しを最優先課題とするホーク政権は、国民に「公平な犠牲」を求め、多文化教育やマルチカルチュラリズム促進の特別プログラム関連予算の大幅削減や多文化放送の統廃合を打ち出した。たしかに、後に取り上げる「ブレイニー論争」や「ハワード論争」に際して、連邦政府はマルチカルチュラリズムの堅持を明言した。しかし、一方で、「主流主義」の主張と結びついて「多文化教育の使命の完了」や「マルチカルチュラリズムの終焉」が暗にささやかれるようにもなったのである。
 こうした動向に対し、全国のエスニック・コミュニティ組織や教員組合などから猛反対が起き、労働党支持率が低下した。あわてた政府は、予算の回復や多文化放送の維持を表明した。また、「多文化問題研究所」にかわって、強力な権限を持つ「多文化問題局」等の機関を政府内に設置したのである。
 とはいえ、「経済合理主義」を最重要視する方針が変わったわけではない。マルチカルチュラリズムの内容をめぐる論戦においても、ホーク政権は経済効率を評価の基準において、自由党、保守派の批判に応じた。そして、急速な成長をみせていたアジア経済との結合を強めるためにアジア重視の外交政策をとり、そのことと軌を一にする形で、移民政策の転換を図った。すなわち、ASEAN諸国から、技能や専門職の資格を持つ移民や事業家として活動する移民を積極的に受け入れていく方針を打ち出したのである(注5)。
 92年にホーク政権を受け継いだキーティング労働党政権のもとでも基本的な状況は変わらなかったといえるが、移民政策、多文化主義政策ともに、経済発展の観点がより強調されるようになった。90年代を通じてアジアとの関係強化が進み、アジアからの「技能・ビジネス移民」も増えている。彼らは、いわば国境を越えて活動し得る「エリート」たちであり、オーストラリア社会においても上層に位置している。こうしたことが人種・エスニック関係に変化をもたらす新たな要因となる可能性がある。
 なお、96年、ハワードを首班とする自由・国民党連立政権が成立した。ハワードは、マルチカルチュラリズムに対して、保守派の立場からの批判を繰り返してきた人物であり、このかんの「一つの国家」党の動きへの対応も非常に鈍い。むろん、マルチカルチュラリズムをめぐる国民的な合意を突き崩し、新たなビジョンを提出するだけの力量と覚悟をハワード政権がもっているとは思えない。が、マルチカルチュラリズムの中身をめぐる何らかの変化は予想される。この点の検討については、今後に委ねたい。

(3)「国民」の形成と統合をめざすマルチカルチュラリズム

 以上、「上から」のマルチカルチュラリズムに視点を定め、その軌跡を見てきた。特に、保守政党の「新自由主義的」な政策と、労働党の「構造改革」をめざす政策との対比をやや詳しく取り上げてみた。が、その上で、双方とも、資本主義の維持・発展を前提とし、それがもたらす社会的な流動・分裂にエスニシティの観点から臨み、一つの秩序のもとに統合していくという基本目標を立てている。一つの秩序とは「国民国家」モデルに体現される秩序であり、この秩序のもとに人々を統合するためには、何らかの点で共属性、同質性をもった国民の形成が必要となる。
 マルチカルチュラリズムをめぐる対立、論争、合意は、この問題をめぐって展開されてきたと言ってもよい。そして、そこには、国民という「想像の共同体」の意味、統合ということの意味を根底から問う内容が存在しているのではないかと思う。この問いは、マルチカルチュラリズムの限界を照射するとともに、エスニック運動の広がり、「新人種主義」の登場、国民国家の揺らぎ等々の世界史的な問題に連なるものとなるだろう。 
 以下、オーストラリア社会における、マルチカルチュラリズムに対する批判者たちに視点を移し、検討を進めていきたい。

(続く)

(注1)梶田孝道『国際社会学のパースペクティブ』
(注2)竹田いさみ「オーストラリアにおけるアジア系多文化社会」初瀬龍平編著『エスニシティと多文化主義』
(注3)具体的には、英国系移民の援助、非英国系移住者の同化援助を進めてきた行政機関、「善隣評議会」の廃止勧告に示されている。
(注4)永井浩『オーストラリア解剖』
(注5)「フィッツジェラルド報告」に基づき、移民の政策的カテゴリーとして「技能・ビジネス部門」が設けられた。専門技能・資格を持つ者や、50万豪ドルの投資を条件とするビジネス移民を受け入れ対象とした。




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