共産主義者同盟(火花)

沈黙と抵抗,そして,サパティスタ新たなる宣言(2)

早瀬隆一
205号(1998年9月)所収


1 はじめに

「インディオ民族にとって、自治は思い入れの深い感情である。それは数世紀にわたる生きざまそのものである。その生きざまは、様々な出来事、共同体における日常生活、自らを組織化し労働を割振りする独自の形態、そして我々の時間や資源の利用の仕方、我々の信仰の実践、我々の権威者の任命、お互いを尊敬する仕方などに表現されている。自治は我々の生活システムの基礎である。我々の偉大な提案とは、このような生活の実践や形態を国の政治システムの一部に変換することである。事実としての自治を権利としての自治に変換することである。しかし、自治は共同体に限定されるものではない。/共同体は自治の基礎であるが、自治によって、共同体の枠を越え地域の特性に基づいた独自の政府のもとに民族をまとめることが模索される。我々先住民族は、国の統一性の枠組のなかで、連邦、州、行政地区の各レベルに加えて、国内に自治地域権力の新しいレベルを創出するよう要求する。/我々は、独自の政府、つまり行政地区や共同体の自治政府を含んでいる地域的な自主政府を創出しようとしている。我々が望んでいるのは、人権や先住民族の文化・政治・社会的な権利が尊重される自治地域の創出である。我々が望んでいるのは、独自の政府として体現された先住民族が、共同体や地域の社会的・経済的な諸問題の解決に専念できる自治地域である。我々の自治地域がおかれている連邦単位の様々な政治機関、ならびに国の政治的代表に、我々独自の代表を通じて参加したい。つまるところ、我々は、先住民族の自治組織を通じて、メヒコという国家、祖国の真の意味での構成者となりたいのである。」(「先住民族の対話・意見交換フォーラム」宣言文)(注1)

今、メキシコにおいて、先住民の自治を巡る運動は3つの側面の有機的な結合をもって展開されている。すなわち、(1) 自治の憲法による認知を巡る政府への要求−「事実としての自治」の「権利としての自治」への変換、(2) 自治の内容を巡る共同体・地域・全国レベルにおける論議−それ自体が「自治の過程」と位置付けられた論議の組織化、(3) 共同体、行政地区、地域における自治実践の営為−自治行政地区・反乱行政地区の公然たる創出がそれである。
本稿では(3) 自治実践の営為について概括することとしたい。

(注1)「インディオ民族と国民社会の新しい関係としての自治」1994.10.3 「先住民族の対話・意見交換フォーラム」に参加した農業労働者農民独立中央組織、先住民の抵抗五百年ゲレロ州協議会、チアパス州先住民農民組織協議会、プレペチャ民族組織ほか13の先住民族組織による宣言文。

2 サパティスタ、自治と抵抗

現在、メキシコ・チアパス州では、各地で自治行政地区・反乱行政地区の創設が公然と宣言されている。それは、サパティスタ支持基盤組織はもとより様々な先住民組織によって推進されている。
前号で述べたように、現在チアパス州の先住民地域は7万の政府軍によって制圧されており、その一方的な暴力行使と蹂躙のもとにある。もしも、サパティスタ民族解放軍(EZLN)が大多数の先住民から遊離した政治・軍事組織であるならば、そしてそこに日々構築される先住民の自治の営みがなかったならば、軍事的に追い込まれ崩壊していく革命軍、そうした未来が準備されたであろう。しかし事態はそのようには進展していない。
現地における攻防は、連邦政府・州政府による「法治国家」を掲げた自治解体と先住民の日々の抵抗を巡って生起している。軍事組織としてのEZLNがいずこともなくその姿を消したまま、政府軍や準軍事組織のもたらす死・破壊・飢餓を前に、しかし、先住民の抵抗が止むことはなかった。むろん、死・破壊・飢餓を前にしてやむなく政府への恭順の道を選択する人々も少なくはないだろう。しかし自治と抵抗はその大勢を堅持している。 政府軍や準軍事組織の暴力から逃れるため各地に形成された避難村では、食料の絶対的不足にも関わらず、尊厳の名のもとに政府からの援助が拒否され、市民社会からの援助のみが受け入れられた。村への侵入を阻むため素手の少女たちが完全武装の軍隊に立ちはだかり、あまつさえ軍隊を押し返していく映像は、メキシコ市民社会の感動を生みもした。そして、自治行政地区あるいは反乱行政地区を公然と宣言した地域では、憲法上の首長や行政当局を拒否して、先住民独自の選出に基づく自治地区政府(自治地区協議会)による統治−「人々の意志に従って統治する」−が日々その経験を積み上げている。
EZLNは、先住民の社会的基盤のもとに成立した政治・軍事組織である。このことは今日一般的に承認されていることであるが、ここでいう“社会的基盤”とは、単にEZLNを支持する人々の存在もしくはその集合体を意味するのではない。それは“自治”という言葉に置き換えることが可能であるところの社会運動・動的な社会的結合のことであり、日々営々と創造される<関係>あるいは<文化>としての意味合いをもったそれである。関係や文化として成立している自治を、軍隊による物理力・強制力で直接に解体しきることはできない。そこでの攻防は、日々成立するところの関係や文化に対する、日々の切り崩しという位相で生起する。チアパス州で生起している事態をEZLNとメキシコ政府PRIという相対立する勢力間の軍事的・政治的攻防という位相においてのみ把握するのでは不十分であり、むしろ、先住民の自治実践の営為という社会的運動の側から、EZLNの闘いが照射されねばならない。

「私たちサパティスタ支援共同体は、希望を失わないし、現状に妥協しない。いつの日か勝利することを信じている。だが、おとなしく耐えているわけではない。抵抗と同時に、私たちは自分たちを組織している。私たちは自律的自治体をもっているし、私たちが選挙し仕事を託している私たちの自治体議会をもっている。私たちは政府が問題を解決するまで待っているのではない。私たちは、彼らの役所を拒否して、自分たちの仲間を選んだのだ。こうしてサパティスタの村と地域を作り上げた。抵抗するのと同時に、自分たちを組織したのだ。今では、私たちは自治体議会、裁判所、財政、その他あらゆる自治の仕事をする仲間をもっている。この2年間、自分たちの自治を行って、私たちは自分たちを統治することを学んできた。これもやさしいことではなく、自ずとたくさんの問題も起きてくる。しかし時がたてばもっと多くを学び、過ちは正されていくのだ。私たちの自治体は民政であって、軍隊による統治ではない。たいへんな仕事だが、良いことを実現するのはいつでも簡単なことではないことを私たちは学んできた。」
     (1997.8・第2回大陸間会議に於けるサパティスタ代表団の報告)(注2)

(注2)サパティスタの呼びかけで1997年8 月開催された第2回大陸間会議(於スペイン)におけるサパティスタ代表団の報告。同代表団はグアダルーペ・デペヤック村のEZLN支持基盤組織の構成員2名であった。同村はかってサパティスタの拠点となっていた村であり、1995年2月の軍の侵攻によって占拠されたため、住民全員が村を捨て現在は別の村で暮らし自治を創り出しているという。

3 自治地域創設の歩み

現在、チアパス州では、数十の地区において、自治行政地区・反乱行政地区の創設が公然と宣言されている。ここでは自治は共同体の枠内に止まることなく、行政地区のレベルにおいて展開されている(注3)。
これら自治行政地区・反乱行政地区の建設は、一人サパティスタによって担われているわけではない。サパティスタ支持基盤組織が組織されている地域もあれば、そうでない地域もある。また、サパティスタ支持基盤組織が組織されている地域においても、自治行政地区は様々な先住民組織によって担われており、先住民の独自の選出によって首長や行政官が選出されている民政である。PRIとの結び付きに自らの利益を見い出す先住民もそこには存在する。PRI派を排除しサパティスタやこれを支持する勢力のみによって固められたものでも基本的にはないのである。むろん、EZLNの軍事に依拠して制圧された「解放区」にEZLNによる強固な行政機構が形成されているといったイメージを描くと誤りである。
先住民の抵抗と自治。それは何もEZLNの登場をもって開始されたものではないし、チアパス州に限定されたものでもない。抵抗と自治はラテンアメリカ先住民500有余年の歴史そのものである。1970年代以降のチアパス州に限定しても、そこでは多様な運動が繰りひろげられてきた。耕作地を実力で取り戻そうとする共同体農民による土地闘争。大農園主の搾取や弾圧に対するエヒード農民や農業労働者の闘争。ラカンドン密林に入植したエヒード組合員や農民集団によるエヒードの認知を求める運動や、農産物の生産や流通を自主管理していく運動(注4)。先住民族の自治を保障する法体系の確立を求める運動。腐敗した行政当局や伝統的なカシケの専横に対する抵抗。教育や保健衛生を組織する運動。etc…。そしてそれは様々な先住民・農民組織によって担われてきた。
1994年1月1日のサパティスタ蜂起を契機として、これら諸運動は自治地域の創設に煮詰まる運動として堰を切ったように噴出する。
1994年1月には、チアパス州の280余の先住民・農民組織によってチアパス州先住民農民組織協議会(CEOIC)が結成され、各地で役場占拠が展開される。1月から4月にかけて役場占拠は19地区に及び、8地区では、首長罷免や地区議会解散が要求され、自らの力で行政地区協議会を創設する運動が起きる。3月5日のCEOICの集会では州内の全行政地区当局の更迭と州議会解散が要求される。
こうした動きは、8月21日のチアパス州知事選挙を経て、自分たちの自治政府を地域で創設していく方向へと結実していく。
1994年10月12日、サンクリストバル市に結集した2万人の先住民を前に、先住民自治を実践していくことがCEOICによって宣言される。地区議会の自主的運営、地区当局者の不承認、政府機関関係者の地区立ち入り拒否、授業停止、税金や公共料金の支払い拒否等を内容とするものである。それを裏付けるかのように、10月17日、北部の11行政地区の共同体は「ツォツィル・チェル・ソケ・インディオ民族自治地域」を創設することを宣言する。この約12万人を擁する多民族集団自治地域の創設の中心を担っているのは農業労働者農民独立中央組織(CIOAC)であった。
自治地域創出に向けた動きは各地で活発化し、11月末には58行政地区で自治地区を宣言する動きがあったといわれ、運動を調整するためチアパス州自治地域協議会も発足する。 1994年12月19日、EZLNは、非武装の市民組織と協力して30地区の反乱行政地区が設立されたことを宣言する。この30地区の反乱行政地区創設にはCIOAC、シニッチ、ツォマン(トホラバル語で団結)などが寄与している。
自治行政地区・反乱行政地区の創設運動は、次のように概括できる。(1) EZLN支持基盤組織によって推進される反乱行政地区の創設運動、(2) 農業労働者農民独立中央組織(CIOAC)が中心になり北部で進める多民族集団自治地域の創設運動、(3) CIOACが中心となり国境地域のラス・マルガリータス地区で展開している多民族集団自治地域の創設運動、(4) 高地地域とオコシンゴ地域で推進される多民族集団自治地域の創設運動、(5) オコシンゴ地区のマルケス・デ・コミージャスで独立地域農民運動(MOCRI)が推進している自由行政地区の創設運動、(6) ソコヌスコ先住民農民組織地域協議会(CROICS)等によって推進されるソコヌスコ地域における自由行政地区の創設運動。むろん各地の自治地域創設運動はひとつの組織によって排他的に展開されているのではなく、様々な組織の協働として推進されている。
例えば、アクテアル村虐殺事件の起こったチャナルホ地区は、1994年12月にポルホ村に役場を置くチャナルホ反乱自治地区政府の発足を宣言するが、その推進の担い手はEZLN支持基盤組織、PRD支持者、ラス・アベーハスに属する住民である。地区住民は地区の「習慣」に従って地区協議会の当局者を選出し、地区協議会のもと自らを統治してきた。この地区協議会は政府の認知する行政機関ではない。憲法上の地区首長等は選挙で選ばれ、他の行政当局者は指名制である。そしてメキシコ憲法においては選挙への参加(立候補)には政党登録が必要とされ、チアパス州のほとんどの行政地区では、これまで地区首長立候補者は自動的にPRI候補として登録されてきた。
1995年10月の地区首長選挙に際して、先住民諸組織は、既に地区協議会など自らの統治者を選出しているので選挙は不要として、多くの地区で地区首長選挙をボイコットする。このため多くの地区では高い棄権率のもとでPRI候補が当選し、憲法上の行政地区政府と自治行政地区政府が併存することとなり、その対立は今日に至っている。(注5)(注6)
現在、連邦政府・州政府は、自治地区政府の認知をかたくなに拒むとともに、むしろ憲法上の地区政府と自治地区政府の対立を煽り立てている。補助金や援助金を利用しての対立の醸成から準軍事組織の組織化・育成による剥き出しの暴力まで、共同体内部のあるいは共同体間のささやかな対立を煽り立て相互に戦わせる。それが権力による先住民支配の常套手段であり、低強度戦争の一本質である。連邦政府は問題を「先住民の間の争い」として描き出すとともに、「法治国家」を掲げて自治地区政府・反乱行政地区政府の解体に乗り出している。サパティスタや先住民諸組織は、血と報復の図式におちいることを忍耐をもって避けながら、PRIとの結び付きに利益実現を見い出す先住民との関係を解決しつつ、自治を積み上げ実現していくという困難な課題に直面している。また、自治行政地区の運営は、現時点では多くの場合確固とした財政的基盤がないため、基盤整備事業の実施は困難で、実質的には構成員相互の利害調整や紛争調停など自ずと限られたものとなっている。
いずれにせよ、自治を基盤として、多様性の中の統一を模索し、国家−社会の在りようの根本的な変革を展望する先住民族諸運動の遠大な試みへの連帯と注目が求められている。我が地における抵抗と変革のためにである。

(注3) 行政地区の枠を越えた地域レベルの自治創設の動きも顕著である。1997年2月には第2回チアパス州先住民農民集会が開催され、集会決議を受けて、多民族集団自治地域総協議会(CGRAPCH)は、先住民の権利に関する憲法改正の有無に関わらず、チアパス州に8つの自治地域が創設されることを連邦政府に通告している。この通告を裏 付けるように、オコシンゴ、アルタミラーノなど9地区にある共同体は、自治や領域を憲法で認知しようとしない政府にかわり、共同体がそれらを事実として実践してきたことを明らかにするため、「ツォツ・チョフ自治地域」の創出を公式に宣言している。

(注4) 農産物の生産や流通の自主管理を目指す運動は、1980年代のチアパスの農民運動に新しい要素をもたらすこととなる。政府関係機関や仲介業者による農産物流通の独占を排除し、流通ルートを独自に開発する試みは、チアパス東部で結成された3つのエヒード連合によって始まった。1980年にはラカンドン密林渓谷部の先住民を中心として、チアパス州エヒード組合・農村生産農民組合連合(UU)が結成され、コーヒー公社と技術・融資援助、直接買上げや流通に関する協定締結に成功する。UUの内部からは、生産の増大のためには旧来の農村銀行からの資金供与による悪循環を絶ち独自の資金調達体制を確立する必要が提起され、1982年にはパハル・ヤ・カクティク信用資金連合が発足した。この信用資金組合は、1980年代の後半には、収益で独自のコーヒー出荷体制を完成させ、自前のコーヒー加工工場・農民大学・専門技術指導体制を整備するに至った。1983年にはUUと信用資金組合は分裂、UUは1983年に商務省からコーヒーの海外直接輸出権を獲得、1980年代後半にはコーヒー輸出額は400万ドルに達している。UUは1988年には、9つのエヒード連合と生産組織からなる集団権益農村連盟(ARIC)傘下のARIC・UUとして再編されるが、エヒード創設を認知されていない入植者の反発や離反に加えて、1989年のコーヒー価格の50%暴落による負債発生により深刻な危機を迎えることとなる。ARIC指導者によれば、1990年以降オコシンゴ、アルタミラーノ、ラス・マルガリータス地区の150の農村にいた6万人近くのARICの構成員の約4割がEZLNに参加したという。
(「もうたくさんだ」現代企画室・所載「瀕死の荒野の再生に向けて」小林致広著参照−チアパス州の先住民・農民運動の歩みについては同論文の一読をお勧めしておく)

(注5) 例えば、チャナルホ地区では、投票ボイコットにより棄権率は80%を越えたがPRI派候補が憲法上の首長として選出される。こうしてチャナルホ地区ではポルホに役場を置く反乱自治地区協議会と役場町サンペドロを本拠とするPRI派地区政府が併存することとなる。

(注6) 自治地区政府・反乱行政地区政府の中には憲法上の地区政府の位置を持つものもある。例えば、6月3日に軍の襲撃を受け住民164名が逮捕されたニコラス・ルイスの自治地区政府は、首長がPRD登録を経ているため、憲法上の合法的な地区政府として成立している。

(参考文献)

「神戸外大論叢・第48巻第4号・チアパスにおける先住民運動(V)小林致広著」 他文献は前号記載




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