共産主義者同盟(火花)

現代資本主義のスケッチ

渋谷 一三
202号(1998年6月)所収


本稿は論証や精緻な論理展開を軽視し、資本主義の現在の像のスケッチを大胆に試みることを目的としている。
 このため、ある場合には、後に修正したくなるようなことを言ってしまうこともあるだろうことを了解していただきたい。頭の体操、あるいは大雑把に全体の構図をつかむということを主眼にしてください。

1.東アジアの通貨暴落の原因

 すでに、何回か述べてきたように、米国から日本へと移転されたバブルが崩壊し、貸出先を失ったこと、およびより高い利子収入を当て込んで、日本の「過剰資本」が、東アジアに円キャリートレードで貸し出されたことによる。
 一つの例を想定して、このことの説明を試みる。

<例>
想定経済成長率 20%
A行  18%を見込む
B行  10%を見込む
実際には通貨切り上げが起こり10%の成長率だったとする。

 B行より高い利子を約束したA行に資金は流れ込むことになる。通貨切り上げを見込んで妥当な成長率を想定したB行が勝利するのではない。預金者の目にはB行はLow Return−High Riskであり、A行はHigh Risk−High Returnと映る。それゆえに、預金は一般的にはA行に集まる。
 通貨が切り上がれば、A行は見込んだ18%を実現せねば大赤字を抱え込むわけで、現地通貨を売り浴びせ、通貨下落へと誘導する。かくして通貨下落が開始されるや、実需決済がある部分は下落しきる前に売ってしまおうと売り急ぐことになる。かくして、心理的に追随したり、ゲームに参加して一儲けをたくらむ部分も巻き込んで下落は加速される。
 下落が想定水準に達すればA行の目的は達成される。それより下落し現地経済がおかしくなれば「やりすぎ」ということになり、自らの利害も危うくすることになるのだが、通貨切り下げを見込んで例えばドルを売り浴びせている部分にとっては、A行のようなボーダーは存在せず、売り浴びせが終了する保証は何もない。例えば米国資本にとってはそうだ。1ドルは1ドルであってそれ以上でも以下でもない。だが、例えばタイの通貨が暴落することはタイから米国への輸入をしている業者にとっては利益になるし、これからタイに資本投下しようと考えている米国企業にとっては、同じドルではるかに多くのバーツを手にすることを意味するのであるから、ドル売りによって相場を下げるということに資金の一部を割くことは「合理的」ですらある。
 実際に、日本の債権が焦げ付き悲鳴を上げたまさにそのときから欧米の資本投下が始まった。98年4月29日付け朝日は次のように報じている。『アジアでプレゼンスを誇った日本勢はむしろ引き気味だ。エアポケットを埋めるように、欧米系企業の進出が進む。欧米勢の「先物買い」は、日系企業が減産にあえいでいる自動車産業にも広がっている。』『93年から96年の東南アジア諸国への直接投資累計として、日本23.2%、米国12.0%、英国8.8%、蘭2.4%、独2.0%、など』が報じられている。続けて、『通貨危機で各国がドル連動政策を放棄した結果、欧米企業は今、日本以上にアジア投資に割安感を覚えている。』と結んでいる。

2. EU

 産業資本にとって、市場の確保などの理由から、多国籍化は出来ても国家は依然として必要なようである。少なくとも、産業資本が国境の廃絶を要求しているようには見えない。最も安く製品を生産するためには、より安い労賃とより原料に近い場所に立地するのが最も合理的で、この点からのみ考察するのであれば、重厚産業は軒並み「発展途上国」に立地するはずです。ところが実際はそうはならない。このことは少し考えてみれば頷ける。安く生産した例えば電化製品を、先進国で購入してもらわなければならないのであり、先進国に購買力がなければいくら安く生産しても仕方がない。完全に「産業空洞化」できないのです。国境による関税障壁や労賃・通貨の強さなどの相違があるからこそ、現地で生産しなければならず、現地の安い労賃でも購入出来る価格で現地用に生産しなければならないのです。先進国への逆輸入は、いわば副産物であって、国境による障壁があるからこそ現地生産という多国籍化を行わなければならないというのが基本的性格です。最も安い地域で生産しそれを世界中に「輸出」する、その地域がたまたまある国家の中にあったというのが、資本が無国籍であった場合の論理的結果です。そうではなく、各国【ある国家群】内部で、多国籍化して生産しているという事実そのものが、何よりも雄弁に、産業資本が直接に国家を越えることが出来ない存在であることを示している。【*注 これを書いている間に、米国クライスラー社と独ダイムラー・ベンツ社との合併が決定した。しかし、この事実は、本稿の性格を変えるものではないので、このことへの論評は別の機会にすることとする。】
これとは違って、利子生み資本は直接に無国籍的であり、高い経済成長率が見込める所に向かう。ある一国が不況であるということは、一般的には他のある一国が好況であるということであり、ある一国の経済政策に影響されることがあっても依存することはない。 産業資本と利子生み資本のこの基本的性格の相違は、次の興味深い実際上の相違の説明となりうるだろう。産業資本の段階ではブロック経済化が起こったが、国際的に自由に移動する利子生み資本の段階ではブロック経済化は起こらない。利子生み資本は瞬時に最も利益が上がると見込まれる所に移動する。ブロック化に似たことが起きるとすれば、通貨の強さが利益に影響することから、通貨圏戦争とでもいうべきものが発生するかもしれないということだけだろう。
 現在はドル通貨圏が依然として圧倒的に強いものの、ドル機軸制は弱まり、ドル決済圏に続いてマルク決済圏と弱小ながら円決済圏などの並列が生まれている。ドルに対してまだまだ弱いマルク決済圏を広げるために、EUはエキュー決済圏の確立を目指している。マルクに比べても相当に見劣りのするフラン決済圏にとっても、ドルに対抗出来得るエキュー決済圏の確立は歓迎しうるものである。
この点から見れば、EUは、ドル決済圏に敢然と風穴を開けるエキュー決済圏の樹立手段と見ることが出来る。EUは、通貨統合までは進むが、社会保障制度の相違や文化の相違、また労働慣行や労働条件の相違が平準化されない限り、国家統合までは進まない。すなわち、国境を廃絶する力は、まだない。客観的条件としては国境を廃絶出来るにもかかわらず、国境を廃絶する力は現在の資本主義の中には存在していない。
 EUの「統合」は最大ありえてゆるやかな連邦制までであろう。その場合の根拠はEU中央銀行の必要性からであって、行政上は中央集権を必要とせず、連邦制すら必要としない。
 危険を承知で図式化すれば、『産業資本主義段階→金融の産業資本支配の段階【帝国主義】→利子生み資本主義の段階』という新たな歴史段階に入ったと言えるのではないでしょうか。
 利子生み資本主義の段階の特徴をなすのは、a.国家をなお必要とする産業資本の性格と、直接に国境を越えた存在としてある利子生み資本の性格のせめぎ合い、b.Multi-National多国籍化とGlobalism世界基準とのせめぎ合い、ということが出来るだろう。

3. ケインズ主義の有効需要論への疑問と新自由主義の発生

 19世紀のオランダのチューリップ球根バブルの発生と崩壊以来、バブルはよく見られるようになった。緻密な議論が必要な領域ではあるが、バブルは資本主義にとって不可避なのだという議論を正しいと仮定して論を進めてみよう。
 この見地から有名な1929年の大恐慌を検討してみると、バブル崩壊と過剰生産が重なった時に恐慌が発生すると導かれる。というのも、この時期にはバブルと過剰生産の両方が発生していたからであり、バブルが不可避であるとの上記の仮定を正しいとするなら、バブルの崩壊だけでは恐慌には至らないはずであるからです。
 こう仮定してみると、バブルの崩壊だけでは、国家財政を経由して過剰生産を吸収する必要はないことになる。国家財政へと所得を吸収し、これを使うことによって過剰生産を吸収することが有効なのは、過剰生産に対してだけ有効なのだといういわば当たり前の結論が導かれる。
 ところが、 ケインズ主義は、当初は過剰生産の吸収という点に標的を絞っていたものの、当時の資本主義の発展にとってとりわけ必要だった社会資本の整備という必要性を理論上にまで取り込んだために、過剰生産の吸収という標的を曖昧にしてしまい、『有効需要論』という理論的粉飾をとることとなった。過剰に生産してしまったものをいわば無駄に消費するのではなく、社会資本などの「公的」資本投下などの方がより有効な需要を連鎖的に喚起するという理論的帰結である。
 経済を動かすファクターとして産業資本が優越している時には、有効需要論という形式をとろうがどうであろうが、過剰生産を吸収することで産業資本は救済され得た。だが、金融資本が産業資本を支配するようになり、さらに利子生み資本が優越している段階にあっても依然としてそうであろうか。
 利子生み資本にとっては、利益率が問題であって最小の投資額で最大の利益額が生み出されることが関心事なのです。産業資本がバブルに浮かれて過剰生産してしまったとすれば、こうした「失敗した」産業資本の救済に関心などはない。そんな「無能な」産業資本が倒産しようがすまいがどうでもよい。投下した資本が利益を伴って回収されればよいのであって、極端な場合には、儲けるためにわざと倒産に追い込む場合もある。
 仮定して推論してきたが、有効需要論の崩壊と利子生み資本が支配的地位を得た歴史ステージとが合致するように思われる。あえてセンセーショナルに比喩すれば、レーニンが分析した金融資本の産業資本支配の段階から、利子生み資本が金融資本の大きな部分を占め、利子生み資本の性格が金融資本の性格を決定するまでになった新たな資本主義のステージだと言うことが出来るのではないか。
 そうすると、有効需要を創出し吸収する場としての軍事力の保持=軍需産業の必要性は低下し、「実需」に縮小させる必要があるということになる。小沢流の「普通の国」路線は古く、資本主義本流は政治的にはリベラリズムでよいことになる。西欧における社民政権、日本の民主党結成を財閥系政治家たる鳩山が担ったことも偶然ではないことに見える。

4.金融自由化について

 3月10日付け日経新聞は、「安定効果弱める横並び」と銘打って、銀行救済の護送船団方式を批判した。
 旧来、産業資本の運転資金を安定的に供給するために地銀を保護する護送船団方式を取ってきた。この護送船団方式を批判するということは、中小資本を中心とする産業資本の運転資金の確保などは副次的な問題とするという宣言をしているに等しい。この位置は、利子生み資本の「政治的」位置と全く同じであり、金融自由化とは、国際的に国境を越えて最も利益の上がる所に自由に移動し、そこの産業がどうなろうとあずかり知らぬとする利子生み資本の純粋な自己実現なのだということを表現している。
 この意味することは、日本の産業資本の運転資金も国際的投機の下に置くということであり、中小企業の経営は資金面からもますます苦しくなっていく以外にはない。
 すでに強いられて、労賃の安い海外への移転をせざるを得なくなった産業資本は、「産業空洞化」によって国内市場を狭め、民族主義を放棄してきたのだが、「過剰流動資本」の自己実現によって、さらに不安定さを増す以外にはなくなったのです。

5.

 以上、冒頭にも述べたようにかなり好き勝手に述べさせていただいた。
 議論の発展を願う。  




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