共産主義者同盟(火花)

反動的知識人に対する一批判

流 広志
201号(1998年5月)所収


1.反動化を深める自由主義イデオローグ

 教科書問題をはじめ,「自由主義史観」の代表者達の行き着く先がきわめてはっきりとしてきた。藤岡信勝・西尾幹二両氏をはじめとする自称「自由主義者」の動きと連動して,「青年自由党」なる政党が結成され,反動家達が,産経新聞社や東日本ハウスなどのブルジョアジーの支援を受けながら,地域への影響力の拡大を狙って,結集を始めているのである。
 こうした動きを促進しているのが,西部邁らの「転向」組であり,そして彼らが,結局は,スコットランド学派的な「道徳哲学」に帰依し,「倫理・道徳主義」に向かっていっていることが,要するに,観念論と信仰主義に向かってまっしぐらに走っていることが,明瞭になってきているのである。
 このことは,教育をめぐっては,現在の教育臨調−文部省路線の基本とする「心の教育」重視という道徳教育を軸とする国家による価値観の強制として行われていることと関連している。この教育課程における観念論的反動が,自民・社民・さきがけの連立政権の下で進んできたことが,事態を紛らわしくしているのではあるが。
 この問題でのブルジョアジーの要求についていえば,これほどわかりやすいものもない。要するに,長期の経済不況による合理化・リストラ・労働強化・賃下げ,資本の労働指揮の下への従属,等々を従順に受け入れ,これと闘争するよりも「心の平安」によってそれらの諸問題を解決することを強制しようというのである。
 自らの抱える問題を現実に解決するために闘うことよりも,そうした問題を見ないようにし自己意識の中で問題が解決されたかのような錯覚に陥ることを人々に進めようというのである。そのような錯覚を一時的にせよ与えられるという「能力」のために,一部の宗教は,ブルジョアジーにとって,現秩序であるブルジョア秩序の擁護者として,貴重なパートナーとなっているのである。しかし宗教へのブルジョアジーの許容範囲があり,それを超えれば,「反社会的」とか「狂信的」とか「原理主義」とか呼ばれ,社会から退場させられてしまう。
 これらの反動的知識人が繰り返して強調することは何かと言えば,それは人間にとって,物質的生活はたいしたことではないとか,それよりも精神的価値の方がはるかに重要だとかいうことである。これは,西部邁氏が繰り返しているテーゼである。一時期,彼がしきりに持ち上げていたハイエクは「自然の規則性の多くは,われわれの感覚により『直観的に』認識される」(「複雑現象の理論」 『現代思想』1991 12月号所収)という観念論者である。そして「具体的事実を十分に知っているという想定は一般に,理性がすべての価値を判断できると思い込む一種の知的驕りを生み出すのに対し,すべてを知ることは不可能であるとの洞察は,現存する社会の価値と制度の中に沈殿してきた全体としての人類の経験に対する謙遜と崇敬の態度へと導く」(同上)という明確な「不可知論者」である。
 一方で藤岡信勝氏は,現在の教育の抱える問題の原因は「自虐史観」によって書かれている歴史教科書にあると気づいたのは,それを読むと元気がでないという彼の個人的で主観的な印象に基づいているという。なにがなんでも「元気になるため」には,事実よりも事実の主観的な評価が問題だ,歴史的事実の解明よりも歴史的事実の主観的評価が大事だ,ということによって,歴史家の仕事は,歴史小説家の仕事のようなものになるべきだ,といわんばかりなのだ。
 そうして,結局のところ,歴史物語の粗製濫造とインフレーションによって自らの信用を思いっきり引き下げてしまっているのである。しかしやはり,彼もまた主観的観念論者である。
 なぜなら,彼は,何がなんでも,物事の原因を「思想」「観念」「イデオロギー」等々の「力」に求めようとする。これこそ観念的知識人の持病である。こういうものを独立したものとして扱っていること自体が,知識人が自らの知識の「力」で独力で立っているような錯覚に陥っていることの現れなのである。
 われわれがこうした人物達を見る場合に注意すべきなのは,もちろん,こうした知識人達を担ぎ出し物質的に援助し,その活動を支援している連中の階級的利害である。西部などが知識人の役割の重要さをいくら強調しようとも,彼もまたブルジョアジーの操り人形なのである。せいぜい自らをどのブルジョアジーに売るかという選択の自由があるに過ぎないのである。
 だから彼が大衆を批判することによって大衆から自由になろうとしたのは,自らが支配階級の一員に参加する際の通過儀礼に他ならなかったのである。言い換えれば,大衆の一員としての自由ではなく,支配階級の一員としての自由を選んだのである。そうして自由自在に被支配階級・階層の人々を大衆一般として扱い,批判するのである。こうして反動的知識人は,個別の分野で科学的に立派な業績をあげながらも,一般的分野や思想に関して,しばしば反動的観念論や信仰主義に陥っていくのである。

2.排外主義・国家主義と反動的観念論の結びつきについて

 たとえば西尾幹二氏は,外国人労働者問題で,これを「文化防衛」という観点から,外国人労働者の流入を厳しく制限することを主張した。西尾氏に限らず,「文化」を格別に重要視するのは,反動派の特徴である。そうしてそれが,国際文化ではなく民族文化であり,伝統文化であるということをいちいち明確にしないために,これを文化一般とする誤解を人々に与えがちである。新しい文化が外国人との交流によって育まれることを文化そのものの破壊と見なすというのは,いかにも偏狭な精神の現れであろう。
 これは文化をその社会の生産の仕方に規定された物的生活の在り様から切断して取り扱うことから生じるのである。そうしてそうした文化が,自己の知識人的生活様式をいつの間にか,理想的生活様式として,したがって理想的規範として,表象してしまっているのである。悪しきニーチェ主義は,そうした知識人の自己正当化のイデオロギーとなっている。そしてこの種類の反動的知識人たちは,そうした知識人的理想状態に対する脅威には特別に敏感である。
 反動的知識人が好むのが「全体主義」による自由の抑圧というテーマであることはよく知られている。これは,社会の少数者の権利の問題であり,それ自体は大いに問題ではあるが,われわれは資本による多数の労働者大衆の抑圧・搾取というテーマを好まざるをえないし,こうした観点の下で,知識人への権力による抑圧を問題とする。つまりは問題の階級的性格という観点をけっして手放したりはしないのだ。
 ところが反動的知識人は個人というものを独立したものとして取り扱うことによって,不当にも知識人問題を社会全体の問題のレベルに移し変えてしまうのである。しかし被支配階級・階層の状態に冷淡なばかりかそうした人々を嘲笑し罵倒する反動的知識人にこうした人々が同情を感じたり親近感を抱くことはむずかしい。
 すなわち,ヒューム的感覚主義の用語で言えば,両者の間に「コンベンション」(共通利害の一般感覚)が生まれることは不可能なことなのだ。被支配階級・階層と知識人との「共通利害の一般感覚」は,知識人が被支配階級・階層の側に移行する場合にだけ生ずるのである。付け加えて言えば,知識人が支配階級と被支配階級・階層の両者から独立するような立場に立つような見かけを持っている場合は,それは実際には国家の立場に立っていることを意味しているのである。いかに社会の階級対立から超越しているように見えても,実際には支配階級の立場に立っているのである。
 しかし西尾氏は,『中央公論』1989年9月号の「『労働開国』はどう検討しても不可能だ」という文章で,「現実に影響の大きい問題を考えるときには,つねに具体的で,そして実際的な思考をしなくてはいけない,と私はかねて自戒していたし,そう主張しても来た。私は一般に観念的で,感傷的な議論を好まない」(同上)と述べ,“実際家”を自称する。
 西尾氏はこの文章で「文化防衛」という観点から外国人労働者の流入を厳しく制限することを主張している。
 「その場合の『文化』とは,日本人の手作りの精神,物をこつこつと作る精神といってもいい。日本人の技術の基本といってもいい。外国からの労働力はそれを破壊し,いざというときの再生の力を日本から奪う」(同上 330頁)というのである。これで西尾氏が「文化」という言葉で誰の利害を代弁しているのかよく理解できるだろう。要するに,氏は民族的産業資本主義の擁護者なのである。
 氏が日本人の手作りの「精神」や物づくりの「精神」の代わりに,手作りさせる者の「精神」と手作りさせられる者の「精神」という対立する「精神」に踏み込んでいれば,そうして物づくりの在り様としての具体的な技術からその「精神」を説明しさえすれば,「観念的で感傷的な議論」を実際に避けられたのである。
 両者が一人に属している場合は,独立自営の職人や農民などの場合である。しかしそうした場合でも,工場や農園のような同一空間内での分業と協業という形態ではなく,空間的には離れた形での社会的分業と協業の下に組み込まれているのである。それは社会的分業・協業の一小部分の独立した形態に過ぎないのである。
 ところが,氏は外国人単純労働者を受け入れたいブルジョアジーの経済的利害を暴露しながら,それを受け入れたくないブルジョアジーの経済的利害については具体的に明らかにせず,文化がどうとか生活が脅かされるとか伝統が破壊されるとか,種の継続が困難になるとかいう観念論者の決まり文句に逃げ込んでしまっている。そしてなによりも決定的な問題は,プロレタリアート・大衆の利害について具体的に明らかにしないことである。ブルジョアジーに「経済的利害」があるのならば,当然,プロレタリアートにも「経済的利害」があるのだ。この両方の「経済的利害」を明らかにしなければ,その分析はまったく不十分であり,実際的ではありえない。
 それに対して西部邁氏ははっきりと大衆を罵しることで,自らが特権階級の一員であり,そうありたいという願望を抱くものであることを公然と明らかにしている。西部邁氏の方は,自らがプロレタリアートの敵対者であることを明らかにしているので,プロレタリアートと彼の間に「コンベンション」(共通利害の一般感覚)が成り立つ可能性は低い。それが成り立つ可能性が高いのは,ブルジョアジーはもちろん,帝国主義国にあっては,支配階級に買収された上層労働者の薄い層(労働貴族)や半ブルジョアとしての小ブルジョアジーの一部ややはり買収された宗教団体や知識人や大地主などなどである。それらをどんなに合計しても,社会の圧倒的少数であることはいうまでもない。
 そうして西部邁氏の場合は,ハイエク同様の「不可知論者」であり,その実は国家官僚の立場に立つその擁護者である。なぜなら官僚制こそ,氏の強調する「死者の民主主義」を守り続けようとする性格を強力に備えているからである。それは一般には「先例主義」と呼ばれている。官僚は,その「先例主義」によって,伝統の忠実な継承と尊重の態度を育むことを重視するのであり,それを超える知識や態度の革新を軽蔑する「不可知論」に陥っていくのである。そしてマルクスが「ヘーゲル法哲学批判」で明らかにしたように,官僚は,国家の「神学者」であり,信仰主義者なのである。

3.おわりに

 こうした反動的知識人や政治家たちを飼い慣らしているのは,おなじみのPHP研究所を持つ松下電器や軍需産業の三菱,等々の大資本であり,その利害が,世界市場での国際競争にプロレタリアートからなにから一切をその目的のために,総動員しようというものであることは明白である。そしてそれに対するプロレタリアート大衆の闘争の牙を「心」の次元で抜き去ってしまおうというのである。しかしそれは現実の矛盾が消え去らず,むしろプロレタリアート大衆を厳しい競争に駆り出すことによって,より以上に「心」の葛藤を呼び起こすために,現実には不可能な試みなのであるから,プロレタリアート大衆の闘いにたいして,結局はブルジョアジーは国家暴力による強制への傾向を不断に駆り立てられざるを得ないということも明白である。それだから,プロレタリアート大衆はつぎのレーニンの言葉をしっかりと肝に銘じておくことが必要である。

 だいたいにおいて,経済学の教授達は資本家階級の学識のある番頭以外のなにものでもなく,そして哲学の教授達は,神学者の学識のある番頭以外のなにものでもない。
 このどちらの場合にもマルクス主義者の任務は,これらの「番頭」のなしとげた業績を摂取し作りなおす能力をやしなうこと(たとえば,これらの番頭の著作を利用することなしには,諸君は新しい経済現象の研究の領域で一歩も踏み出すことはできないであろう),――それと同時にまた,彼らの反動的傾向を切りすてる能力自分自身の路線をすすみ,われわれに敵対する諸勢力と諸階級の全戦線とたたかう能力をやしなうことである。(『唯物論と経験批判論』2 国民文庫 223頁)




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