共産主義者同盟(火花)

<投稿>「エコロジー思想と環境問題を学ぶ」への意見

杉本一平
200号(1998年4月)所収


 マルクス主義が低俗化した今日、左翼陣営はエコロジストの追従屋でしかなくなっている。すべての人々が「地球環境の危機」を叫ぶ時、エコロジー思想への批判を試みる斎藤氏の勇気に拍手を送る。
 危機の時代を代表する思想との格闘を経ることでのみマルクス主義は鍛えることができる。“浅学の徒”の提案であるが、労働のあいまのわずかな時間に学習し、書面にまとめたものであり、検討をお願いいたします。

1.「だから、人間が労働によって産出し排出する自然との質料変換すなわち循環が、人間社会そのものにとってどのような条件を生み出しているのかを、ここではまず取り上げなければならない。そして、これこそが環境問題学習の核心であり、中心であるといえる。」(火花192号・P2〜3)

 これは要注意!!斎藤氏も引用したように「人間は、自然質料そのものにたいし、一つの自然力として対応する」(資本論)であるならば、この現代社会で成立する諸事象、発生する「条件」は、いつの世にも共通な社会的自然現象であると解釈せざるを得ず、現代の世の危機は“森から離れた人間の業”の招いた結果・・・・とでも表すことになり、労働者を慰撫することにしかならないだろう。マルクスが人間も「自然力として対応する」と述べたのは、すぐ人による自然の支配を誇るブルジョア思想の愚かさを知っていたからである。

2.労働「過程を見ても、それがいかなる条件のもとで行われるか、すなわち奴隷監視人の残忍な鞭のもとでか、資本家の心配げな眼ざしのもとでか・・・・石で野獣を殺す未開人が行うのか、ということはわからない。」(資本論1巻第5章)
 少なくとも石器時代の人類が、地球生命体の生命循環を阻害したなどという人々はいないであろう。我々の検討すべき対象は、労働過程と価値増殖過程の統一としての資本制的生産過程である。全地球の人々を一衣帯水とするほどのこの巨大な社会的生産力を導き出し、大量のエネルギー消費を必然化させた、資本制的生産を成立させる基軸となったものは何であったか?周知の通り「産業革命」である。(「周知」であるはずが、日共系にしろ、新左翼系にしろ不鮮明であるので労をいとわず資本論からおさらいをしておいた。)

3.産業革命とは?

 「大量生産システムとエネルギー多消費社会」(火花192号)が産業革命において始まるのは常識に属することだと思える。産業革命をひき起こすもとになったワットの蒸気機関についてマルクスは述べる。
 「ワットの第2のいわゆる複働式蒸気機関にいたって初めて石炭と水を食って自己の動力をみずから生み出すような、その力能がまったく人間の統御下にたつような・・・・その技術的応用において普遍的であるような・・・・そうした原動機が発明された。ワットの偉大な天才は、彼が1784年4月にえた特許の明細書に示されている。・・・・そこで彼の蒸気機関が特殊目的のための発明物としてではなく、大工業の一般的能因として記述されている。」(資本論1巻13章)
 工業制大工業の基盤となった蒸気機関は「機械の体系」を生み出した。「機械の体系は・・・・それが一個の自動的原動機によって運転されるや否や、それ自体として一個の大きな自動装置を形成する。」(同上)「かくして、大工業はその特徴的生産手段たる機械そのものを克服し、そして機械によって機械を生産しなければならなかった。そこで初めて大工業がその適当な技術的基盤を創造し、自分自身の足で立った。19世紀の最初の数十年間における機械経営の増加につれて・・・・」(同上)「機械による機械製造のためのもっとも本質的な生産条件は、あらゆる力能を生じしかも同時に完全に統御しうる発動機であった。それはすでに蒸気機関において実存した。」(同上)マニュファクチュアから機械性大工業への革命は、ワットの蒸気機関により機械の体系を生み出すことにより成しとげられたのであった。

4.機械の体系のもたらしたもの

 マルクスは「労働日の延長」の項目で、成立した機械工業が労働者にたいしどのような仕打ちをすることになったか、述べている。
 「まず第一に、機械においては、労働手段の運動および活動が労働者にたいして自立化する。労働手段が即時的にも向自的にも、それの人間助手における特定の自然的制限――その肉体的弱点および我意――と衝突しないかぎり絶えず生産しつづけるべき一つの産業的無窮運動機構となる。だから――それは資本としては――そして資本としては、自動装置は資本家のうちに意志と意識をもつ――反抗的であるが屈伸的な人間の自然的諸制限を最小の抵抗に圧迫しようとする衝動によって鼓舞されている。」(同上)
 資本制的生産の完成した姿についてマルクスは述べる。
 「労働過程であるばかりではなく、同時に資本の増殖過程であるかぎりでのすべての資本制的生産にとっては、労働者が労働条件を使用するのではなく、逆に労働条件が労働者を使用するということが共通しているが、しかしこの転倒は機械をまって初めて技術的、感覚的な現実性をうけとる。労働手段は、自動装置に転化することによって、労働過程そのものの間、労働者にたいし資本として生きた労働力を支配し、吸収する死んだ労働として対応する。生産過程の精神的力能が・・・・労働に対する資本の権力に転化するということは・・・・機械を基礎として建てあげられた大工業において完成される。」(同上)

5.「資本家のうちに意識と意志」をもつところの機械が労働者にたいして自立化し「一つの産業的無窮運動機構」となるのであり、この事が「産業革命」の真実の意味なのであり、資本制的生産の基礎なのであった。そして成立した大工業は「自動体系」の完成を目標として、テーラー・フォードシステム(ベルトコンベアによる生産)→オートメーション化→産業ロボットによる生産システム(メカトロニクス)まで日夜生産様式の変革(常なる合理化、常なる生産力の増大、電気エネルギー消費の増大・・・etc)をなし続けているのだ。この常なる生産様式の変革があらゆる種の生産に革命を及ぼし、今日の有毒物質を生産する石油化学産業をも作り出してきた(他資本との生産競争だけでなく、機械自身の自動化の完成を目指した内的強制)――と私は理解している。水俣病はチッソ水俣工場――という一つの自動装置の機械の体系が必然的に生産したものが、排水に含まれた水銀ということなのである。
 今日の「人間と自然の対立」と表現される自体についてもマルクスは述べている。「それ自体として見た機械・・・・それ自体としては自然力にたいする人間の勝利ではあるが資本制的に充用されると人間を自然力によって抑圧するものであり・・・・云々。」(資本論13章第6節)(「資本制的充用」はブルジョア経済学者の用語を借りたもの)
 「自然力」はここでは蒸気力のことであるが、そこからSL=蒸気機関車を思い浮かべ陳腐を思うは、資本主義の悪魔に取り憑かれているからだ。核融合という超ハイテクの原発でさえ蒸気力を利用して発電し、動力を発生・伝導させているのであり、石炭・石油を利用した火力発電(巨大な資本主義の原動機はここにあり、日夜、膨大なCO2を発生させている)もしかりであって、ワットの天才が200年後の今も支配しているのだ!! 電気力が自然力であることを理解するならば、自然力のことごとくが人間を抑圧するものへと転倒していること(空気=CO2増大、オゾン層破壊=紫外線による人体被害・・・・etc)をば理解することはたやすい。
 電気とモーターの組み合わせによる「自動的原動機」の影は、今日人々に意識されることもないが、SL自動車の発展であるレシプロエンジンの自動車・ディーゼルエンジンの自動車は、本来の姿――SLによる貨車輸送と交代した運輸産業の主役――を薄めてCO2の増大の悪玉として注目されている。ワットの「自動的原動機」の今日の代表例が自動車であると述べたら、エコロジストは「我意を得たり」と讃えるだろうか?!
 斎藤氏の述べた「有害物質の生まれるような生産の仕組み」が資本制的生産様式なのであり、打倒するのはプロレタリアートのみなのである。

6.蛇足

 私の思想を疎外論と解するのは勝手であるが(cf機械による人間の支配・・・etc)生産手段の所有関係を変えたならば、労働者に対する資本家の支配が消失する――とする生産力理論の人々の見解を検討することで誤解をとくことができるだろう。

 「火花」192号で資本論1巻第5章から引用して斎藤氏は、
「これは人間が労働の細分化と分業によってある種の生産様式を形作ることで、本来生物一般の行為であることが、意識的労働が作る人間環境の変化、すなわち自己じしんの自然を変化させたことによって生まれてきた結果であると考えられるようになる。」(P2)
 「自己じしんの自然を変化」させる――は、マルクスにあっては「じぶんの身体に属する自然たる腕や脚や頭や手」の変化のことであるが――斎藤氏は、「人間環境の変化」あるいは「人間の社会環境」の変化・・・・と解している。この相違は自明ではあるが、斎藤氏は無意識のうちに社会的分業の発展による社会発展の概念を文章のスキ間に潜入させたのである。「本来生物一般の行為」であることと、「ある種の生産様式を形作ることで」行う行為との間には天地ほどの意味の相違があるだろう。マルクスは――抽象的に人間諸力の発揮する自然を対象とした労働を考察しているが――斎藤氏は、原始共産体から発展したある社会構成体による生産(労働ではない)を考慮している。勿論、氏は両者を混同させているので、経済的地位の異なる人々が行う労働についての考慮は視野外となってしまう。両者の混同を批判してマルクスは注9で「トレンズ大佐は未開人の石のうちに、こともあろうに資本の起源を発見する」と述べたのである。
 マルクスの労働過程を日共の学者はどのように解釈しているのだろうか?
 「このように、人間=自然関係とは根源的には『自然的存在』としての人間と外的自然との『物質代謝』以外の何ものでもないが、それはただ単に、自然自体の連関作用一般に留まるものではない。・・・だが生態系における『物質代謝』の過程にまで人間の労働過程を引き戻すことが、必ずしも積極的な意義を有するとは思われない。」「直接的に『自然的存在』としての人間に本来的に内属する『自然諸力』『生の諸力』はこのように、まさに『確証する』行為=労働を通じて、人間の『本質的諸力』を発現し(対象化し)現実化するのであり、われわれはそれを客観的に存在する『産業』のなかに見いだすことができるのである。『資本論』第一篇第5章から先の引用文において、『人間は、この運動によって自分の外的自然に働きかけてそれを変化させ、そうすることによって同時に自分自身の自然[天性]を変化させる』と叙述されていることの意味もこの点に深く関わっているのである。」(『分業と生産力の理論』仲村政文著・青木書店−P170〜172)
 「自分自身の自然を変化させる」への特別の感情の入れこみには、ブルジョア思想への転落が、このように待ちかまえている。
 「人間の本質的諸力」が産業のなかで“発現する”と平気で述べるこの仲村さんは、合理化によって生産力が上昇するのでそれに大賛成するだろう。彼は資本制的生産様式の独自性を他の生産様式にも外苑化している。ではマルクスは、資本制生産の独自性の一歩は、どこに求めるだろうか?
 「彼は、他人の労働を消費できるために、労働材料と労働手段とを買わなければならない。――[以上の前提は]資本関係の本性を真に見抜くために必要なものである。資本関係は、その基礎としての商品流通から出発する。」(マルクス資本論草稿集4.p108)
 マルクスは、資本制的生産の歴史的前提を明らかにすることから、それは、使用価値の生産であるばかりではなく交換価値の資産であること・・・etc・・・・素人の私があれこれと連ねるまでもなく、斎藤氏のよく知っていることである。仲村さんの欠点は、“価値を付加することで価値を維持する生きた労働の天稟”に社会的労働の生産力を見つけたことにある。労働の生産力として現れ、資本の物神性を崇拝することになるものだが、物神性批判を資本関係への批判として展開すること−あるいは誰か流に言うと物象化批判としてなすこと、のできぬ仲村さんは、資本による人格の物象化の表現である“生きたろう労働の天稟”が「もはや労働者が生産手段を使用するのではなく、生産手段が労働者を使用する」(DKT.p253)転倒した事態の下で現れるのを無視している。彼はこの転倒を社会的生産力の歴史的発展として正当なものと評価している。
 彼の誤りの因は何か?生きた労働と「抽象的な社会的な労働一般」の混同への批判を欠いたことにある。つまり、労働者は価値増殖過程にて「抽象的な社会的な労働一般」を生産物に対象化することで価値の生産をするが、この労働は(「抽象的な・・・」)彼に対立する労働対象諸条件の生きた労働への強制により発生する――のだが、この転倒を無視すると、生きた労働の属性としてそれ自身の価値よりも多くの価値を生産する自然属性が有ることになるのであった。かくして資本は剰余価値の存在するいずこの時代にもあった!!

 エコロジストの「近代産業の否定」には評価できる面もあり−否定せねばならぬ面もある。「共産主義者同盟」は彼らに資本制的生産の必然的結果として自然破壊がなされていることを提示すべきではなかろうか。




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