共産主義者同盟(火花)

環境問題学習 再論 杉本さんへの手紙

斎藤 隆雄
200号(1998年4月)所収


 私の環境問題学習への手紙、ありがとう。あなたへの的確な返信になるかどうか分かりませんが、一筆したためます。
 さて、杉本さんの文章はなかなか難解で、こんな理解でいいのかどうか心配です。まず杉本さんの論旨の第一は、「産業革命」についてです。貴方が資本論から引用しながら言いたかったことは、資本制的生産が労働者を機械に従属させているという事態、それこそが問題だということでしょう。そしてそれらの事態が、「産業革命」によってもたらされたという歴史的事実を18世紀から今日までの環境問題の根源として捉えなければならないとしていることです。
 第二は、私への批判の意味も込められたものとして、「生物一般の行為」と「ある種の生産様式を形作ることで行う行為」とは「意味の相違」があるということ。
 第三は、日本共産党系の学者である仲村さんへの批判を通じて、「物神性批判を資本関係として展開すること」によって、「労働諸条件が生きた労働への強制により発生する」ことが環境問題への批判の基本に据えられなければならない、ということです。
 このような理解でいいのか、心許ないのですが、以下私見を述べたいと思います。

1.産業革命について

 産業革命あるいは技術革新について、私の拙稿では取り上げていませんでした。しかし、環境問題を論ずるとき、この問題は避けて通れないことは確かです。また、この産業革命の問題を論ずる時、必然的に近代科学についての批判も必要となってきます。かつて、『火花』誌上で量子力学についての論評が行われており、私としてはそれ以上のことは言えそうにはありませんでしたので、触れないできた訳です。ここでは、不十分は承知の上で、私見を述べさせて貰います。
 当初、近代科学については量子論や不完全性定理などから20世紀の科学が近代の産業革命を支えていた機械的自然観や科学真理の立場を揺るがし始めているという思いを持っていました。つまり、エコロジーが持っている科学思想上の意義は、この機械的自然観への批判であり、そのような科学観の変遷の背後にある物質的根拠を明らかにすることが求められているのであろうという予想を持っていたということです。
 ただ、一方では今日の石油化学産業の巨大な構造は、そのような科学観の変遷から直接的に規定されているものではないということも明らかです。その意味で、貴方の言う「産業的無窮運動機構」としての資本制的生産様式の存在が、環境問題の根底にあるという批判は前提でもあります。そして、その上に立ってなおかつ近代科学がもたらした枠組みが今日の巨大技術の根底にあって、たぶん同じ構造をもった歴史的役割を果たしているのではないのか、という予感をもっていた訳です。
 それは、科学がある種のイデオロギーであるということ、そのイデオロギーが持つ物質的根拠が歴史的な転換をなしていることが、この間言われ始めており、またこのことの根拠も明らかになってきているということから、これは資本制的生産様式が歴史的な転換を迎えているということと同義ではないかいう直感がある訳です。これこそ、私が環境問題を資本主義批判と結びつけて考える重要な点でもあります。
 しかし、このように言うと科学が何かしら無内容で、有害ですらあるという理解を生み出す危険性もないとは言えません。
 資本制的生産によって生まれる様々な生産物は、現在では科学技術抜きでは語れないものになってきていますし、その生産される生産工程や生産用具が巨大な科学技術の塊となっており、工学関係者でなければ理解できない程複雑で専門的なものとなっています。ですから、ここから生まれる様々な副産物や排出物はそこで働く労働者でさえ理解できないものとなっています。技術が細分化し専門化し、全体としてそれがどのような構造物となっているのかが分からないにも関わらず、しかしそれが巨大な利益を生み出すということだけは明らかな訳ですから、それを資本主義はその一点で突き動かされていくという仕組みだという理解が成り立ちます。ですから、その仕組みそのものがまず何よりも解明されなければならないということになります。そして、それは科学技術の仕組みでもあるということ、すなわち技術がその仕組みの中で、ある方向性をもって「発展」してきたからです。でなければ、科学があらゆる問題を解明した上で、巨大な利益を生むという一点で悪魔に魂を売り渡したというような認識になってしまいます。それは、科学の歴史的な事実とは違います。
 しかし、科学技術が資本主義を生みだしたという理解が成り立つ訳ではないということも言っておかねばなりません。先にも言ったように、科学技術の否定の上に社会を構想する人々もいるからです(「近代科学」といわれるものを全体として否定し、時にはオカルトに傾倒する人々もいる)。彼らは生産という現実からではなく、「科学という観念」や知識から物事を考えるという古くて新しい観念論に囚われている人達ですから、観念の変革から現実の変革を夢見ているにすぎないのです。マルクスも資本論の中で述べているように、近代的大工業はそれに先行するマニュファクチュアの時代の生産様式を引き継いだものであるし、その「発展」の上に築き上げられたものである、という至極単純な事実から、それは退けられるということです。だから、我々は今ある現状から出発しなければならないのです。生産様式の変革の結果として、大量に生産された商品の世界そのものが、すなわち資本主義が科学と技術をある方向に導いたという理解が、最も真実に近いのでありましょう。その方向性は、また人間社会の歴史的な一時代を形成し、今またそれは終わろうとしている。その現れを、私は環境問題に見るのです。
 ですから、これは科学技術そのものの問題ではありません。生態学や環境学によって、起こっている事態の現れを見ることはできたとしても、それは事態の変革へ導くものではないでしょう。また同時に、生産様式の打倒をプロレタリアートに求め、産業革命によって発展してきた資本主義の飽くなき機械化の欲求に対し、プロレタリアの闘争を対置するだけでは左翼的枕詞に終わってしまいます。問題は環境汚染が生み出す資本主義の終焉を引き継ぐ様々な社会運動の統合に向けて、労働者階級が負うであろう仕事を明らかにすることではないでしょうか。

2.労働・生産・分業・社会

 杉本氏さんが指摘している私の「混同」については、確かに言われるとおり、「社会的分業の発展による社会発展の概念を」どちらか言うと意識的に挿入していると言えます。ただし、これは生物が地球上に現れた時から蓄積された「自然」と呼ばれるものの、人間の労働過程によって起こる形態変化を問題にしているという意味で、余りにも単純すぎる規定でした。そしてたぶん、この私の強引すぎる規定では、事態があまり解明されたとは言えないということも認めざるを得ません。
 そこで、私は杉本さんがその後の部分で指摘している仲村論文の引用部分に大変興味を持ちました。引用された文章では孫引きになりますが、次の文があります。
 「生態系の物質代謝の過程まで人間の労働過程を引き戻すことが、必ずしも積極的な意義を有するとはおもわない」と。
 私はこれに大変興味を持ちました。環境問題を取り扱う時に、この物質代謝そのものが重要な問題ではないか、と思うからです。つまり我々がそれを発見し、これを物質の側からではなく、人間の側から如何に捉えるかが問われているという風に思うのです。
 資本主義が発展してきた、ということが物質循環で言えばどういうことなのか。私の拙稿でエネルギー消費のグラフと二酸化炭素排出量というグラフが同じ形をしている、ということを指摘しましたが、あそこで更にいうなら、世界人口の増加も同じ形をしているのです。環境問題の学習の中で必ず出てくる同じ形のみぎ上がりのグラフですから、多くの人が眼にしているはずです。つまり人類史全体から見たこの近代(現代)以降の急速な人間の増加という事態が生み出している生物環境の変化を視野に入れなければならいのではないか、ということです。そこで、この人口の増加を支えているものは何なのか、という事になります。
 資本主義が生み出している大量の商品の多くが、帝国主義時代以降、石油という物質に支えられています。そしてこれらは大量生産大量消費に適合した形で次々と新しい物質を生み出しています。それも都市という人間の密集による生産消費構造です。これらの事実から我々が学ばなければならないのは、機械制大工業が先行するマニュファクチュア時代に形成されたという事実から分かるように、石油化学工業が先行する産業資本主義時代の労働者の密集による都市生活の社会構造に適合した大衆的な消費構造を生みだしたということであり、また同時にこれは新たな支配的な思想の変換が起こっていたということも意味するものであると、考えるのです。つまり、20世紀初頭の政治革命の時代とはロシア革命も含めて、今日の環境問題を生みだした大量生産大量消費社会の始まりであったということです。
 それは、科学思想上では量子論の生まれる土台を生みだしたとも言えるのではないでしょうか。つまり、デカルト・ベーコン以来科学の前提であった存在と思考の一致を前提とする時代が終わり、いわゆる数量的な法則論が揺らぎ始め、支配的な思想をも相対化される時代に突入したのです。この時代は、同時にエコロジー思想の生まれる基礎の時代でもあったはずです。確かに、この時代のエコロジー思想は神秘主義や民族主義的な色合いが混じりあった混合物であったことも事実ですが、産声をあげたことは確かです。
 現在は、環境問題に焦点を照らして世界を眺めてみれば、既に絶望的な程展望がありません。しかし近代を貫く生産様式において占める商品世界が、この人間の生み出す物質的な事態の根底に横たわっているという認識を元に、貨幣・商品の退場以外に我々が探し求める根底的解決がないということを、たぶんこの環境問題においても明らかにしていかねばならないのだ、と考えます。

3.物神性・物象化について

 物神性あるいは物象化については、まだ私個人としてはあまり多くのことを言う資格がありません。フェティッシュという古代社会の宗教が持つ意義を、今日の資本主義的な商品世界の理解にどのような回路で結びつけるのか、環境問題の領域にどのように結びつけるのか、課題は多いと思われます。
 しかし、このフェティシズムを巡る問題は私にとっては提起されたばかりですので、これから杉本さんとも論議していきたいテーマであります。積極的な投稿をお待ちしています。

 なにか、舌足らずな返信となりましたが、これを機会に私自身の環境問題への学習を深めていきたいと考えています。共に、闘いの地平を共有していきましょう。




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