共産主義者同盟(火花)

ガイドラインに関する流論文批判

渋谷 一三
197号(1998年1月)所収


流論文は、1日米安保廃棄、2国連改革推進の二点を骨子として貫いている。この二点を自明のこととして前提しているが、私はこの二点への疑義として現在があるのではないかと考える。

1.ガイドライン制定を急ぐのは沖縄の闘いによるのか?

『 しかしこれを急いだのは、やはり、米軍基地撤去闘争の大高揚であることは間違いないだろう。』(『火花』194号P.3 L.21〜22)
 米軍基地撤去闘争は安保廃棄に貫かれたものではなく、未分化です。逆に言えば、豊富な中味を持っていると言えます。
 従来、米軍基地に雇用される労働者や米兵の落とす高いドルが沖縄の雇用と産業を維持させてきたという論理が米軍基地撤去闘争の足枷になってきました。
 安保廃棄論者は、この論理を実践的に否定することができなかったのです。というのも、この論者の依拠する論理が、非武装中立論であったり、対米従属論であったりしたためです。
 ところが、時代という物的変化の蓄積が基地必要論を実践的に批判しうる条件を与え始めました。ドルの対円相場は相対的に下落し、為替レートと両国の物価上昇率を勘案すると1/5程度に弱くなったと考えられる。これにより、米兵がドルを落とせなくなった。
 また、米ドルの「有難み」が減り、基地周辺の歓楽街が軒並みゴーストタウン化し、実需中心の街への再生を試みている。さらに、「思いやり予算」の執行によって、米軍基地労働者の賃金が米国に依存しなくなったこと、ベトナム戦争終結や基地の機械化、賃金の「高騰」などにより、基地労働者の絶対数が減少してきていることなどの条件の変化が生まれた。
 この、条件の変化を読みとり、米軍基地に依存しない経済を構築しようと試みる人々が確かに存在し、この人達は、こうした経済を作り出すことによって、かつての安保廃棄論批判を実践的に克服しようとしている。
 この立場には、沖縄ブルジョアジー・ヤマトから沖縄に進出したブルジョアジーも利害が一時的に一致する。また、沖縄自立を志向する人々とも一時的に利害が一致する。したがって、運動上は、様々な立場の人々が沖縄振興に結集しうる。
 名護市の住民投票で、海上ヘリポート賛成派が45%近くにものぼったことが、このことを象徴的に示している。「経済振興をしなければ基地の撤去は観念的願望でしかない」と考える人もいれば、「沖縄経済振興の為には沖縄の1/5を占める米軍基地の存在は邪魔である。したがって、普天間ほどの経済的価値を産まない辺野古(へのこ)の犠牲は止むを得ない」と考える人もいるだろう。いわゆる「ねじれ」減少が見られる。それが、賛成票を意外にも多く出させた根拠です。この事実はまた、運動の未分化を表現しており、基地撤去の論理の発展を要求してもいる。
 抽象的安保廃棄論は、沖縄においては、ヤマト以上に早くから力を失い、その実践的止揚が試みられてきたと言って間違いはないでしょう。
 すると、流さんの言う、沖縄の闘争の高揚がガイドライン制定を急がせたという論は、そう断じてよいものかと疑わしくなります。

 私は、むしろ、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の動きへの対応の方を強く感じます。だが、どれが契機かは大した問題ではありません。有事研究・有事立法の動きは常に有り続けてきたのですから、直接の契機を特定する事などできるはずのないことです。出来たとしたら、有事法制制定のブルジョアジーの大義名分に屈服したということ以上ではないでしょう。

 さて、私は一旦、あえて北朝鮮からの戦争の可能性という見地から日米安保を見てみることにしたい。

2.日米安保を廃棄して何に取って代えるのか?

 金日成・金正日政権を通じて、人民は弾圧され、あるいは強制収容所に送られ、あるいは粛清され、あるいは闇のうちに殺されてきた。
 ソ連邦の崩壊による援助の打ち切り、誤った農林政策等々、体制そのものに起因する災禍によって北朝鮮の人々は今日餓死および餓死寸前の状況の中に生きている。
 一方で経済開放区なるものをなりふり構わず導入して経済の立て直しを企てる金正日であるが、市場経済化のために10年以上もの時をかけざるを得ないでいる旧ソ連・東欧の歴史が示しているように、この経済開放区政策は実効することはない。
 韓国はもとより、こうした北を「統一」することは望んでいない。あのドイツでさえ、統一の負担が重くのしかかっている。旧ソ連・東欧圏の中の優等生立った東ドイツを併合してなお苦しんでいるのです。ましてや、西ドイツほどの力もない韓国が東ドイツよりはるかに貧しく国土すら破壊してしまった北朝鮮を併合するなど、論外だというのが、韓国・米国・日本の政府の立場です。
 こうした中で、これら三国のブルジョアジーが最も恐れているのが、北の「やけくそ南進」です。すでにミサイル「ノドン(労働)」の実践配備が確認(米国によれば)されており、戦争の危険性は、そう少なくはないというのが日・米政府の読みです。何とか北の政権を存続させソフトランディングをはかりたいというのが、市場への組み込みをねらうブルジョアジーの戦術です。

 このような現実を前にして、戦争の事態に直接出兵する力はないが、最大限、米軍・韓国軍への「後方支援」が出来るようにしようというのが、日本政府のリアリズムです。
 ガイドラインに反対するということは、このブルジョアジーのリアリズムに対してプロレタリア側からのリアリズムを提示するということに他なりません。小ブルジョアジーの立場を提示することではありません。
 ちなみに小ブルジョアジーはどう言っているか。
 日本共産党は相変わらず対米従属論であり、「米国の戦争に巻き込まれるな」であり、「米軍のためになぜ日本人が金を出すのか」である。
 では申し上げよう。米軍基地をすべて撤去し、これを自衛隊の基地とし、第2次朝鮮戦争の際には米軍を呼ばず、自衛隊を直接出兵します。これでよろしいか、と。
 自立−従属論では、自立帝国主義への純化を軍事面でも追求したいブルジョアジーとの区別性がない。対米従属論は、日本民族主義と表裏の関係にすぎない。
 また、リアリズムのレベルにおいても、ブルジョアジーは直接派兵が困難なことをよく承知しており、この前提の上に議論を展開している。これに対する日共のリアリズムのレベルは、仮に第2次朝鮮戦争が勃発したとすれば、それは、北と南とだけでやればよいという願望の表明のレベルでしかない。これは、リアリズムとは言いがたい。
 さて、流論文であるが、日米安保廃棄を自明のものと前提することによって、日共の主張にリアリズムを感じることが出来ないフツーの人々に接近することに失敗している。日米安保を廃棄して自力武装の道を歩ませる方がよほど危険で、米兵がテキトウに死んで、とりあえず徴兵制のない日本を維持する方が現実的ではないのかというリアリズムを批判する過程にも入り込めなくなってしまったのではないか。
 この危惧は、第2の論点、国連改革の推進という立場の表明に至って、一層深まる。

3.国連はプロレタリアートのものか?

 従来、ブントは、国連を国際強盗同盟と規定してきた。これは、帝国主義大国に有利なように拒否権を持たせるという組織性格を端的に批判しているという意味で正しいし、市場・植民地の争奪をめぐって、先に強盗に入った英・仏・米が、あとから入った強盗、独・日・伊にファシストというグループ名を与えて、出ていけと殴りかえしたという史実をも端的に表現しています。
 United Nations(国家連合あるいは連合国)という名称にもこの事情は引き継がれて
いる。
 だが、事情が少し変化してきている。
 ソ連・中国は、より凶暴な強盗を追い出す為に連合国に加わったが、そのままこの機関に残留した。そのため、「社会主義圏」と称される国家群がUnited Nationsに加入することとなり、あまつさえ、敵国であり交戦国であった独・日・伊もこの機関に加入することとなった。
 他方、国際政治を国家という位相で調整したりする機関が他になかったことにより、今日、世界のほとんどの国がUnited Nationsに加入している。
 このことは一方で、プロレタリアートが国家という領域・位相で世界政治を動かす規定力(あるいは現実性)を持ってはこなかったという現実の反映でもある。
 という現実を了解した上で、集団安保体制に取って代わって何が実現可能でよりプロレタリア的立場なのかということが問われている。
 この見地から国連に着目するというのも、あり得る一つの立場でしょう。だが、その場合、最も重要なことは、改革論議にコミットしながら、そのいちいちに検討を加え、プロレタリアートの立場を明らかにし、現実的選択をし、現実の変革を促進するということです。
 流論文はこの点で、いささか丁寧さを欠いています。
『 '91年「湾岸戦争」では国連安保理事会決議による「多国籍軍」の派遣で国連による世界秩序形成への期待が高まるが...』(同P3L7.下線,引用者)
 冗談ではない。私としてはクエートという英帝の線引きで人為的に生まれ、超差別的身分制が続く国家が消滅することに何の反対もない。が、クエートを消滅させたイラクのフセイン主義なる反動的代物にも何のシンパシーも感じられないというものでしかなかった。「期待」などとんでもない。対して、ブルジョアジーが即座に明確な態度をとれたのはメジャーによる石油の世界的支配構造が壊されるという利害関係からだった。一体、どこのプロレタリアートが多国籍軍にシンパシーを感じ期待を持ったというのだろう。私の知った限り、ない。
 『新しい「平和と安全」に関する政策を、日米安保体制なしで構築すればよいのであり、その努力こそが必要とされているのだ』(同P7L4)
と述べる限り、その努力を紹介し、その努力の一部として流論文が論述されることを切に望みます。
 今、出来ることでやらなければならないのはガイドライン制定をめぐるブルジョアジーの利害の政治的暴露ではないでしょうか、という読者の意見に私も共感しつつ、一旦筆を置きます。

P.S.

『沖縄「自立・独立論」については、抑圧民族たる本土プロレタリアートの立場を踏まえ、最も民主主義的な内容を持つ限りにおいてはこれを支持することが必要である.』
(同P.6L.26〜28.下線引用者)
 というのは、明らかに間違いです。抑圧民族であるということを踏まえるならば、無条件に支持すべきです。
 また、本土という表現は、本当の領土たる主要な地域=ヤマトをヤマト側が無意識に表明している大国主義的・抑圧民族的意識の表現ではないかと考えます。ウチナンチュウーが本土という言葉を使う時には、その大国意識への皮肉が見て取れて痛快ですが、ヤマトの人間がこの言葉を使うべきではないと考えます。




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