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[討議資料]阪神大震災−その時人々はどう動いたのか?

『火花』編集委員会
163号(1995年3月)所収


(編集委員会より)本文書は、1月17日の大震災から3週間たった段階で、ある会議に提出された「討議用文書」である。今日的に見れば、雑なスケッチになっているといわねばならないが、当時の雰囲気を理解してもらい、討議を活性化させていくのに有効であると判断し掲載することにした。今後の運動に役立ててもらえれば幸いである。


 死者五千人以上、避難者二〇万人以上。そのほとんどは昨日まで、先進資本主義社会の 一員として、世界的に見れば平均以上の生活をしていた人達である。一瞬にして、この 日本に避難者の群が出現した。
 あれから三週間たった。復興事業もぼちぼち始まった。しかし二〇万人以上の避難者の 生活を元に戻すことはそう簡単に出来るものではない。一時あったボランティア熱も徐々に さめつつある。避難者の間での分裂も生じている。問題はほとんど解決されないまま山積 みされている。長期戦の陣形を構築することが急務である。主体性や思想が問われるのは これからである。
 次の活動を準備していく作業の一つとして、この三週間において人々がどう行動したの かを概括しておく。とりわけ神戸で起こったことを。

 一、大地震は、一瞬にして神戸をはじめとする地域の、多くの人々を押しつぶした。生 きて脱出できた人は、運がよいとしか形容できない。倒壊した家屋の下敷きになったまま 逃げ出すことか出来なかった人も多くいた。生き埋めになった人々を瓦礫の下から救出す ることが急務であった。外からの援助が当てにならない段階で、頼りになるのは自分たち だけの力である。見知らぬ者同士が互いに協力し、救出作業を行った。道路に出来た段差 や割れ目を、木材や石で埋める作業を近所の人が協力してやっていた。
 公園や学校などに避難した人々の間に、生き延びられたことの喜びの共有や連帯感が生 じた。数枚のパンを何人かで分け合う姿も見られた。家から持ち出すことが出来たわずか ばかりの食料を、見知らぬ人に分けている人もいた。離ればなれになった家族や知人の安 否を知るためにお互いに情報を交換する光景が至る所にあった。
 彼らは、恐怖におののき逃げ出すだけの群衆では決してなかった。それぞれが自主的に 判断し、自分か何をすべきかを自分で決定し、相互に協力したのである。それまでの社会 的地位や財産を失ったとき、ありのままの自分を出すことになったのである。ブルジョア 社会のギスギスした社会関係、競争原理の精神は一瞬にして抑圧されたのである。私的所 有を失うことが、あるものを共有することとして現れたのである。
 人々は妙に興奮し、自己主張していた。多くの仲間を失い、自分自身も死に直面したか らこそ、昨日と違う人間として現れていた。都会の生活の中で、何かに追われて生きるこ とを強いられてきた人達が、生きることの喜びをかみしめ、表現し、孤立した個人ではな く相互に協力し会う社会的個人として登場していたように思う。旧い秩序が回復しても、 この体験をした人々は、それまでの価値観、生活スタイルとは違う生き方を始めるのでは ないか。そんな感じがした。

 二、被災地の外からとりあえずの必要物資を持って最初に救援に駆けつけたのは、親戚、 友人などの縁故の人々であった。被災地につながる幹線道路は、車で埋まった。バイクさ え、渋滞を起こした。リュックを担いで徒歩で現地に駆けつける人も相次いだ。被災地で、 親戚や友人の無事を確認したとき、彼らは奇妙な良心の痛みを感じた。持ってきた物資を すべて縁故の人に渡すことの後ろめたさである。古い社会的人間関係が崩壊している中で、 自分だけ旧来の所に止まっていても良いものかどうかと。彼らの中には、そのまま現地に 残ってボランティアに参加する者もいた。彼らも変わることが要求されたのである。
 十八日に入って交通機関が一部復興し始めると、全国から同じような人達が被災地、と りわけ神戸、芦屋へ殺到した。阪急・西宮北口から芦屋、神戸に向かって、数珠繋ぎの人 間の列が出来るほどであった。

 三、ボランティア組織も素早く対応した。赤十字は、その日のうちに十府県から十五チ ーム、一二〇人を現地に派遣した。AMDA(アジア医師連絡協議会)は、当日の夜に六 人チームを一つ送り込んでいる。これら以外にも当日、いくつかのNGOが入ったと聞い ている。
 翌十八日に入ると、被害の規模の大きさがマスコミを通じて大々的に宣伝されたことも あって、様々なボランティアグループ、ボランティア志願者が被災地に殺到した。労働組 合、各種宗教組織、様々なNGO・・・。その数は、日を追うごとに増大する。彼らは各 避誰所を回り、不足しているものを一生懸命届けた。医療ケア、炊き出し、物資の輸送や 仕分け、ミニ新聞の発行・・・。
 そこでは、独特の交換が行われた。ボランティアの側から見れば、労働や物資を提供し、 新しい人との出会いや経験の機会を受け取る。避難民の側から見れば、ボランティアが活 動できる場を提供し、物資や労働を受け取る。資本主義社会の日常生活においてはあまり 見られないこうした交換が至る所で行われたのである。
 ものすごい数の人々が、新しい交換を求めて殺到するという現象が、ここ日本で生じた のだ。パソコンネットを始め、様々なネットワークが数日の内につくられた。

 四、これだけ多くのボランティアが参加したのは、文化支配や生活スタイルの画一化へ の反発、強大化した官僚機構への反発ということもあろう。彼らは、自己の世界を広げ、 個人性の本格的展開のためにボランティアに参加したのであろう。
 しかし同時に、政府マスコミか一体となったボランティアの呼びかけが連日行われたこ とも忘れてはならない。この間、国際貢献の分野や障害者・老人の介助の分野で、国家の やれない「きめの細かい援助」をNGOなどのグループにやらせていくというやり方は常 套手段として定着していた。今回も同じ手段がとられた。
 多くの人が、自分が部品の一部でしかなくなっている巨大なシステムや文化支配に反発 しながら、マスコミの扇動と行政システムの中でイメージされたボランティアに参加する という矛盾の中にいた。
 ボランティアの経験者の中にも、マスメディアと行政を巻き込んでより大がかりにして いこうという傾向も見られた。
 いろんな人がやってきた。マスコミによって植え付けられたボランティアのイメージは、 医療活動や、食料に古着を配布する人、つまり国連、国家、行政のお手伝いをする人とい うものである。ボランティアの申し出と共に弁当や寝る場所を要求するものもいた。ボラ ンティアの押し売りとしか思えないような人もいた。食料、寝袋、テントなどを準備して やってきたのはきわめて少なかった。「ボランティアをボランティアしなければならない ので大変だわ」とは、避難生活を余儀なくされたある被災者の声である。しかしそれでも、 この段階ではボランティアが役立ったことは誰一人否定できない。

 五、いくつかの企業も割と素早く行動を起こした。食料や衣類を、企業は自分の車と社 員を使って搬送した。中には物資をすべて無料で配布した企業もあった。被災地と直接に 利害関係を持たない企業の中にも、在庫の物資を提供する企業もあった。ボランティアに ヘリコプターを提供した企業もあった。
 企業は、自社のイメージや将来への投資としてそれをしたのかもしれない。だが、その 先頭に立った企業戦士達は、違うものをつかんだに違いない。彼が受け取ったのは、避難 民の熱い涙と感謝の言葉だけではない。競争原理と他人を手段として利潤を追求するとい う企業精神とは違う体験を行ったはずである。

 六、十七日五時四十六分を期して、一種の無政府状態が出現した。行政機構は、明らか に麻痺していた。停電で信号が消えた。窃盗行為を働くものも出現した。殺気だった雰囲 気も一部に生まれていた。この情勢は、数日間続いた。住民の中に、このとき驚くべき力、 創意性を発揮した人達がいたことを忘れてはならない。
 たとえばある避難所では、教師がリーダーシップを発揮した。避難した労働者、学生、 高校生、主婦に仕事(もちろん、それは労働というより活動である)を与えた。給水、配 給、清掃、警備などが組織された。小学生は避難所新聞を発行した。班編成の組織を作っ た避難所もある。各避難所間のネットワークを作る動きも生まれた。ある避難所のリーダ ーが別の避難所でボランティアをするケースさえ見られた。
 テント村では、自然発生的に役割分担が決まっていった。
 たしかにこうした現象がごく一部の避難所でしか見られなかったことは事実である。だ が看過してはならないのは、住民自身が新しい秩序を作る力を示したことである。ブルジ ョア国家機構、行政機構に取って代わる能力を住民が披露したのだ。
 他方で、ほとんどの地域の自治会、婦人会、防犯協会などは有効に機能しなかった。そ れは、こうした組織が行政の下請け化していて、行政からの要請がないと動けなくなって いるからと思われる。

 七、ボランティア自身も変わることが求められた。相手が何を考え、何を求めているか を動的に、変化においてとらえ、応えていく感性、経験が求められた。避難民へ物資やサ ービスを提供することをメインとすることから、住民自身が新しい秩序を作り、その中で 自己を教育・訓練しながら、自分達のことは自分達でやるという方向を支持し、そのため の物的、人的援助に重点を移すことが求められたのである。
 しかし多くのボランティアがこのことに無自覚であった。マスコミが植え付けた「被災 民=無力者、それを救援する人=ボランティア」というイメージは強烈であったし、あま りにも自然発生的であった。NGOなどのベテランのボランティアの中には、この自然発 生性への拝脆を特別の理論にしている者さえいた。いくつかの避難所では、そうしたボラ ンティアに対する避難者の側からの批判が行われた。もし「物資やサービスを与える人→ 与えられる人」という関係を固定化すれば、避難民のボランティアヘの依存関係を作り出 すことになる。ボランティアが頑張れば頑張るほど、自己の首を絞めることになる。
 残念なことに、ボランティアの重点を住民自身の新しい秩序作りに対する意識的援助活 動へ移すことの出来た人はほとんどいなかった。旧い発想に捕らわれている限り、行政の 物質力と指導に依拠するしか、ボランティアを継続する道がなかったのである。
 もちろん、新しいアイデアを思いつき、あくまでも主体はボランティアにおいた上で、 行政の物質力や権威を利用しながら別の活動領域を切り開く人達も多く現れた。しかし、 こうした方向もやがて同じ問題にぶつかるであろう。
 新しい資を持ったボランティアが現在、緊急に求められている。

 八、ブルジョア国家・行政が、人命救助や避難民救援という点で無能力ぶりを露呈した ことは間違いない。食料や援助を申し出ても、対応する職員かいなかったり、いても判断 にきゅうする場面もあった。それは、肥大化し、硬直した官僚機構の欠陥の現れである。
 政府・自治体もマニュアルを作っていた。しかしほとんど役にたたなかった。それはラ イフラインも機能し、職員の動員も平常どおり行われることを前提にしたものだったから である。彼らは今、総括を進め、より強力な有事体制作りの方向を模索している。しかし、 様々な利権が絡み合った官僚機構そのもの再編に踏み出すことが出来るかどうかは疑問で ある。
 どんな場合でも最初に対応しなければならないのは、被災した住民自身である。したが って、住民自身が緊急事態に対して備えることを第一に考えなければならない。現在の防 犯協会や消防団といった組織を、全住民の災害対策隊化という点から再編・強化すること こそ肝要である。自衛隊や警察さえ、そこに解体・再編した方がよい。

 九、人命救助や救援という点ではブルジョア国家・行政の対応が、立ち遅れ続けたにも 関わらず、治安という点ではきわめて素早かった。
 警察は、直ちに全国から警察官の動員を行い、まず幹線道路の確保に全力を挙げた。国 道2号線、43号線で交通規制に入り、各交差点に警官を配備した。それがすむと、次に 夜間パトロールの開始、そしてテント村など避難所の監視へ。これかほぼ数日にうちに進 んだ。
 自衛隊も、六甲山頂にアンテナを設置し被災地全体を監視下においた。彼らは堂々と基 地を出て、市中に進駐する事が出来た。
 ブルジョアジーがおそれたのは、住民が自分達で独自の秩序を作り上げることである。 まして彼らが、たとえバット一本でも武装する事は決して許してはならなかった。だから 急がねばならなかったのである。
 現在の神戸は、警察と自衛隊が制圧しているといっても間違いではない。

 十、大都市の崩壊は、都市問題を始め、生産、流通、消費の資本主義的質に根本的疑問 を投げかけた。復興事業を巡って議論されなければならないのは、この点であり、われわ れ一人一人の生活スタイルの転換である。
 現在、復興計画全体のヘゲモニーをとっているのは、国家・行政と財界である。彼らは、 企業の利潤追求を第一とする開発行政や、大量消費文化のツケが露呈されたことにまった く無自覚である。そればかりか、より大規模な開発行政、消費文化の都府建設を計画して いる。
 この点でも住民の側の対応とそれへの援助が急がれている。

 十一、行政主導の秩序回復と共に、避難民内部の分裂も顕著に現れるようになる。
 家屋が倒壊した者とそうでない者、金銭的余裕がある者とそうでない者、職のある者と そうでない者、失業保険のある者とそうでない者・・・。
 被災者の団結、彼ら白身の秩序作りか求められている。

 十二、被災地で現在、運動の中心になり始めているのは住宅問題などの権利要求闘争で ある。
 この運動は、地方自治体や政府に対する被災者の権利要求闘争である。それは議員と結 合していくのが一般的となる。議員、しかもできれば有力な国会議員と結びつくことで行 政闘争を有利に進められると考えられている。すでに多くのところで、そうした運動が現 れている。
 被災外地域の人がボランティアでそれ応援するとしたら少々厄介な問題に直面する。
 というのも、そこに見られるのは「得と票の交換」だからである。これは直接的な利益 と利益の交換である。ボランティアが当初持っていた質(労働や物資と人との出会いの場、 新しい経験の場との交換)とは明らかに異質のものである。
 この運動が行政闘争の方へ流れていくことは目に見えている。それは急速に進むであろ う。
 だからといって、この運動を「応援すべきでない」ということにはならない。
 ボランティアには、自分の質との関係で政治闘争や社会運動への態度があらためて問わ れている。


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