共産主義者同盟(火花)

阪神大震災をめぐって

影浦 正之
163号(1995年3月)所収


はじめに

 1月17日早朝淡路島北部・京阪神地方をマグニチュード7.2の大地震が襲ってからすで に1ヵ月半か過ぎた。長かったような気もするし、短かったような気もする。電気・ガス ・水道の復旧、鉄道・道路の開通が進むにしたがって被災地以外の生活は次第に元にもど りつつある。また、マスメディアが「神戸復興」へと主要な視点を移すにつれて人々の関 心も無残に崩壊した街が今後どのように再建されていくのかというところに移りつつある ように見える。
 しかし、住む家を失った10数万の被災者がいまだ避難所暮らしを続け、数万の人が失業 状態におかれている。避難所では1日2食、パンと弁当が配られるだけ、教室や体育館の 住環境もいいはずがない。風邪をはじめ、病気にかかる人も増え、精神的に不安定な状態 に陥る人や自殺者も出ている。被災地では震災直後とさほどかわらぬ厳しい状態が続いて いるのだ。
 この1ヵ月半の間に、被災者も支援者も多くの経験を得た。そこから何を教訓として引 き出すべきか、また現在求められているのはどのような活動なのか。震災直後の救助活動、 その後の救援活動、現在も続けられている支援活動を中心に見ていきたい。

1.震災直後の救助活動の実態

 大地震が襲ったとき、その被害の有り様を正確につかんでいた人は皆無であったのでは ないかと思われる。なぜなら、まだ暗く高台からさえ被害状況は見えなかったし、行政や 警察・自衛隊にしても、被害を受けた地域が広範囲に広がっており、連絡手段もほとんど ない状態で被害の全貌など知る由もなかったと思われる。明るくなってからもヘリコプタ ーからの映像が映し出されるまでは、TVも局所的な被害状況を伝えるだけで、被災者自 身も近所の様子以外は分からず、「全国がこんな状況になったのでは」と思ったという。  震災直後から、政府の対応が立ち遅れたことの責任を追及する論調が野党やマスコミを 中心に流れた。具体的に言うと、自衛隊への緊急出動要請が遅れたことが人的被害を大き くした、交通規制を徹底化しなかったことが救助・消防車両や救援物資輸送車両の到着を 遅らせた、自衛隊のヘリによる消火活動を行わなかったことか火災による被害を大きくし た、等である。しかし、こうした論調は日を追うにつれて論者たちの本音が実は現政権や 政治体制への批判にあったことが明らかになってくる。例えば、危機において最高指導者 はあらかじめ限定されない独裁的な裁量権を与えられている必要がある、このような権限 が首相に与えられていなかったことが問題である(野田宣夫「『例外状態』における国家」 −『諸君』3月号)、といったように。
 確かに、こうした大規模な災害時に自衛隊・警察・消防等を府県を越えて救助のために 出動させる準備が整えられていなかったことは事実であろうし、自衛隊ではなく災害救助 専門の部隊を創設することが必要だったと言うような議論も可能であろう。しかし、現地 の多くの人が眼の当たりにしたように、遅かったか早かったかは別として、警察・自衛隊 はまず、官公庁、主要幹線や主要な橋などに部隊と車両を展開し、明らかに治安維持の体 制を取った。そして治安維持こそ、警察や自衛隊(=軍隊)の国家機構の中での主要な任 務であることを見せつけてくれた。警察や自衛隊は、今回かなりの部隊を救助活動に振り 向けたことは事実である。ただ、そうであったとしても、片時も治安維持という任務をお ろそかにしたことはなかったのである。
 どのような災害時にも第一に考えられねばならないのは、人命の救助ということであり、 第二は被災者への救援である。その他のことはそのための条件であるということを言い切 った論調や、冷静に警察や軍隊の本質を論じた論調はあまりなかったように思われる。  救助活動が比較的スムーズに行えだのは、コミュニティーが維持されていた地域であり、 人々の結びつきが普段からあった街である。こうしたところでは、一瞬のうちに倒壊した 建物の下敷きになった人々の救助活動がすぐさま取り組まれた。そして、かなりの数の人 々かガレキの中から助け出された。しかし、あまりに多くの家が倒壊し、どこから手をつ けたらよいか途方に暮れるような状況で、またあちこちから火の手が上がり、それが迫っ てくるといった切迫した状況で、まだ生存者がいる可能性を知りながら別の場所に救助に 向かったり、火災を避けて退かなければならなかったという報告が数多くなされている。 また、次々と病院に運び込まれてくるケガ人の治療に当直の医師や看護婦だけでなく、近 くの開業医や看護婦免許をもった被災者までがあたった、重症者を設備の整った他の病院 に搬送しようとしたけれども交通渋滞で救急車がなかなかつかず、手遅れになったとの報 告もある。災害の渦中で救助活動にあたった人々の無念さは推測するに難くない。山岳や 海洋での大量遭難時に気象条件の悪化等のために救助活動に入れないなどの場合を除いて、 今回のような経験を実際にした人はこれまでほとんどなかったのではないか。
 逆に今回、行政、警察、自衛隊などが人命救助より治安維持を優先させるという国家機 構としての本質を見抜いた人は多いはずである。

2.自発的な救援活動の取り組み

 地震の翌日になると、被害が想像以上のものであることが次第に明らかになり、多くの 団体や個人の救援活動が始まった。道路や鉄道が寸断されており、交通渋滞で物資輸送が ままならない状況で、まず効果を発揮したのが一人ひとりがリュックに水や食料を入れ、 徒歩で現地に入り、被災者に救援物資を手渡すといういわばゲリラ的な救援活動であった。 しかも、被災者のいる親類や友人ではない、一般の市民か多数こうした活動に参加した。  また、総連・民団などの民族団体、解放同盟、障害者団体、労組などが関係者への救援 活動を開始した。各企業も物資の大量輸送への対応を中心に救援活動に入った。行政の側 か準備していたマニュアルでは到底対応できない大規模かつ甚大な被害の現実にほとんど 有効な体制を取れないなかで、宗教団体や市民団体などの呼び掛けに応えて集まったボラ ンティアを含めて、各団体は自ら情報を収集し、判断し、被災地やその周辺に拠点を設営 し、組織的・継続的な救援体制を短期間のうちに作り上げた。
 民族団体や解放同盟、労組などは現地やその周辺で機能が維持できていた支部などを現 地の受け入れ先として集中的・継続的な救援活動を行った。
 障害者団体は、特にマスコミの情報から疎外された視覚障害者や聴覚障害者の安否確認 や情報伝達、救助、肢体不自由等で介護なしでは避難できない障害者の救助活動、避難所 にいる障害者への救援などを初期の段階から困難な条件の中で続けた。
 各企業も大量の物資を現地に送り込み、動員された労働者は従来からもっていたデータ やノウハウを駆使して、物資の輸送・分別・配送などに大きな力を発揮した。
 各団体は、単一の指揮系統があったわけでも普段の訓練があったわけでもないのに、こ うした活動を自然発生的な分業と日常の活動の蓄積によってやり遂げた。
 被災者も避難所となった学校や公共施設で我慢強く救援を待ち、個人や各団体か比較的 早く救援体制を組んだことで、多少の混乱や物資の偏りはあったものの食糧、水、医薬品、 衣料など、この段階で必要な救援物資の輸送活動はかなりうまく行った。
 災害に備えて日常的に訓練を怠らないことは必要なことであろう。しかし、たとえそう した準備がなくとも、日常的な社会活動の中で蓄積した経験を援用し、少しの想像力と創 意工夫を付け加えることで救援活動に成果を上げたことはもっと強調されてよい。

3.生活再建のたたかいと支援活動

 今回の地震で、最大時30万の被災者か避難所での共同生活を経験した。これまでも、災 害が起こるたびに体育館などに設けられた避難所で生活する被災者たちの様子が伝えられ たけれども、あわれさだけを強調するステロタイプな報道ばかりが多かったような気がし てならない。
 しかし、今回は被災者自身か自治組織を確立し、ボランティアの若者だちと協力してた くましく生活する様子がかなり伝えられた。実際、多くの避難所では強いられたなかで能 動的に生活の再建に向けて立ち上がる被災者が生まれた。
 被災者たちが各部屋ごとに責任者を選び、規則をつくり、仕事を分担し、リーダーを中 心に自治組織を作り上げる上で、避難所となった小中学校の教員が少なくない役割を果た したことはあまり取り上げられていない。当初、行政からの指示もなく、ボランティアも まだ入っていないなかで被災者の世話を行わざるをえなかった教員たちは、児童・生徒の 自治活動や集団活動での経験を生かして、被災者自身の積極性を引き出しなから自治組織 を作っていくことを、どこでも自然発生的に追求したようだ。この働きかけは、大規模で 被災者を把握しきれないような避難所は別にして多くの場合成功した。また、小中学校の 教員は普段から地域の人々や団体とのつながりをもっていたこともよい条件であった。
 地域がまるごと被災した例が多く、近所に住む人たちの協力が生まれやすい条件もあっ た。老人や小さな子供に対する援助が被災者のなかから生まれ、中高生が率先して動いた 例が多かった。パリ・コミューンをほうふつさせるような自治組織が生まれた。「議会ふ うの団体ではなく、執行府であると同時に立法府でもある行動的団体」がつくられ、行政 にたいする要求を統一し、実現しないところは自らで創意工夫する作風が一般化した。
 ここに青年たちを中心としたボランティアや被災しなかった地域の人によるボランティ ア、労組や企業のボランティア、医師や看護婦のボランティアなどが加わった。特に、自 主的にグループを組み、あるいは単独で参加した青年たちのボランティアは慣れない仕事 にもかかわらず短期間のうちに成長し、活動を続けた。まだ社会的経験の乏しい青年たち と被災者の関係がうまくいかないなどのこともあったが、総体としてはうまくいったと思 う。合意形成のための「原始的な」民主主義からのゆっくりとした成長を彼ら彼女らは学 んだはずである。直接現地に出向かなかったが、カンパ活動をしたり、バザーなどの支援 活動を行った青年たちも多かった。彼ら彼女らは、降ってわいたように出現したのではな い。その活動のベースになっていたのは地域での活動や障害者支援の活動などにボランテ ィアとして参加している、あるいはそういう友人か身近にいるといった世代的な経験であ った。彼ら彼女らは『世界を震撼させた十日間』に出てくる青年たちのように、騒然とし た雰囲気のなかで新しい何かを求め、それを得ることを通して自分自身が変わることを求 めていた。何よりもこれまでどおりの自分であることに固執しない若さがあった。支援活 動に参加した労働者のなかにも、三里塚闘争、寄せ場闘争、地域住民闘争などを世代的に 経験していた人が多く見られた。彼ら彼女らもまた自らの体験や時代の経験を精一杯生か すように努力していた。
 こうして生活再建のために立ち上がった被災者と支援に入った様々な人々の間に連帯が 生まれ、共同の仕事に取り組んでいるような一体感が生まれた。確かにそこでは、「武装」 することこそなかったもののコミューンの様相が垣間見られたのである。

4.教訓

 見知らぬ人々から見知らぬ人々への直接的な働きかけが,人と人との関係を短期間のう ちにつくりあげ、共同した行為に結実される。いわば、この当然のことが普段は意識され ることがあまりない。日々の普通の生活と労働の営みが危機をも乗り越える知恵をもって いることも、社会的な活動が人々のつながりによって支えられていることもあまり意識さ れることはない。しかし、経験は思想をつくり、思想は経験をつくる。この間の経験は非 常に重要な歴史的経験である。この経験を分析し、教訓を引き出し、われわれの理論を再 検討すること、このことが真に問われるのはこれからである。




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