共産主義者同盟(火花)

朝鮮労働党への態度について

氷上 潤
139号・140号(1993年3・4月)所収


 <目次>
 I.金日成体制の確立に至る歴史的経緯(1)
 II.金日成体制の確立に至る歴史的経緯(2)
 III.朝鮮労働党の<独自性>とわれわれの態度
 IV.「社会主義」国での流動への朝鮮労働党の態度
 V.今日的情勢とわれわれの進むべき方向


 われわれは,現綱領 (*注:1993年当時.その後1994年に綱領は改定されている) において,朝鮮労働党について次のように評価している。

「ソ連邦共産党を頭目とするスターリニズム諸党にたいして,中国共産党,ベトナム共産党,キューバ共産党,朝鮮労働党,アルバニア労働党等は,中ソ論争,プロレタリア文化大革命,OLAS結成,現代修正主義批判キャンペーン等によって批判を加え,その克服をめざしたが,スターリニズムと同様の地平にたち,平和5原則の党を守り,党と国家の混同を克服しえないために,成功せず,結局,これらの党は,党の革命の挫折,右旋回,労働者国家間戦争,ソ連邦共産党との妥協への間を動揺している。」(火花派綱領 <現在,改定作業中であり,本稿は,そうした改定作業の一部をなす位置を有するものとしてあります> −  *注:1994年の党大会において綱領改定

 簡単な叙述ではあるが,ここでは,朝鮮労働党を,ソ連・東欧の共産党と一定区別し,少なくとも一時期において,その克服を目指す(成功していないにせよ)という積極的志向を有した党として評価している。この評価は果たして妥当であっただろうか。
 確かに,朝鮮労働党は,1960年代,中ソ対立が顕在化する過程の時期に,フルシチョフ−ソ連共産党に対して“現代修正主義”という批判を加えた。しかし,それは,積極的志向を見い出しうるようなものであったのだろうか。そうではなく,共和国(以下,朝鮮民主主義人民共和国の略称として用いる)における,旧来のスターリン主義的支配体制の維持・強化という脈絡に位置するものでしかなかったのではないのか。
 この点をめぐって,以下検討を加えていくとともに,今日の朝鮮北部の現実−これを規定している朝鮮労働党−に対し,どのような態度をとっていくべきなのかについて,提起していきたい。


I.金日成(キム・イルソン)体制の確立に至る歴史的経緯(1)

 朝鮮労働党による,ソ連共産党に対する“修正主義”という批判は,どのような歴史的経緯の上にあったのか。少し歴史をさかのぼりながら,見ていくこととする。

(i)日帝支配下〜朝鮮戦争

(1) 日本帝国主義の植民地統治に対する朝鮮人民の民族解放闘争は,朝鮮本国はもとより,日本,中国の地において果敢に展開された。しかし,日本軍・治安警察による苛酷な弾圧,大量検挙・処刑・重罰攻撃により,1940年ごろまでには,朝鮮国内や日本国内での活動はほぼ壊滅状態へと追い込まれる。また,金日成らによって展開された中国東北地方におけるパルチザン活動も,ほぼ同時期,ソ連領内への後退を余儀なくされることとなる。
 このように解放闘争の担い手は多数虐殺され,運動は後退・分散へと追い込まれる中,日帝の敗退の日−朝鮮の“解放”−を迎えることになる。しかしそれは,米ソによる南北分割統治という新たな困難の始まりを意味するものとなった。その後,米帝による“大韓民国”の建国強行,朝鮮戦争を経て,今日に至るまで分断状況が続くことになる。

(2) この時期,見ておくべきこととしては,金日成らソ連から帰国したメンバーの主導による北朝鮮共産党の結成という動きがある。
 日帝の敗戦後すぐ,朴憲永(パク・ホンヨン)ら朝鮮国内にとどまっていた活動家(“国内派”)によって,朝鮮共産党再建準備委員会が組織され,翌月の9月には党の結成が宣言される。この党結成を前後する時期に,ソ連から帰国したメンバー(金日成ら旧パルチザングループ,及びソ連国籍を有する“ソ連派”)が加わり,さらに,中国からもどってきたメンバー(“延安派”)も,この朝鮮共産党に参加していく。当時,党の最高の位置(「責任秘書」)についたのは朴憲永であり,金日成は8名からなる政治局員の1員であった。
 このころから,ソ連共産党−ソ連軍を背景に,金日成らソ連からの帰国メンバーは,活発に党内闘争を展開していく。金日成らの主導によって,10月にはソウルに本部を置く朝鮮共産党から一定自立した機関として朝鮮共産党北朝鮮分局が設置され,さらに12月,朝鮮共産党から完全に独立した組織として,北朝鮮共産党が結成される。かくして金日成は,この北朝鮮共産党における「責任秘書」の位置を手にすると同時に,この一連の動きにおいて反対派としてあった“国内派”の排除に着手していくなど,権力基盤を固めていく。
 すでに8月16日の段階で,38度線での米ソによる分断統治を合意していたソ連は,米軍統治下の南半部は一旦おいて,北半部においてソ連の影響力・支配力を打ち固めようとしていたのであり,このスターリン・ソ連共産党の意図と結びついて,金日成らソ連からの帰国メンバーは強引に朝鮮共産党を分断し,実質的に北半部における政権党となる北朝鮮共産党のイニシャティブを握りしめた,ということである。

(3)朝鮮南部では,46年に入ると,米占領軍-軍政庁と南朝鮮人民との亀裂が急速に顕在化しはじめ,拡大していく。さらに48年になって,米帝・国連による5月の単独選挙強行,8月“大韓民国”−李承晩政権の発足と,分断固定化が進められていくのに対して,南朝鮮人民の闘争は全人民的な高揚をもって展開されていくようになる。
 朝鮮北部においても,これに呼応して動きが活発となり,南北を貫いての,統一を求める広範な人民大衆の運動展開を基盤として,48年9月に朝鮮民主主義人民共和国が建設される。このような運動の流れに照応して,49年6月には,全人民的な広がりをもつ大衆運動体としてあった南北の“民主主義民族戦線”が統一し,“祖国統一民主主義戦線”が結成され,ほぼ同時期に,南北の労働党(46年に,ソ共−スターリンの「大衆的政党」化の方針を受け,北朝鮮共産党は,北朝鮮労働党へと,また南に存続していた朝鮮共産党は,南朝鮮労働党へと,それぞれ組織改編を行う)もまた合同へと向かい,朝鮮労働党結成大会が開催されるに至る。
 この合同に際して,政権党として地盤を固めてきた北労党と,米軍政による厳しい弾圧下におかれてきた南労党(朴憲永含めその中心活動家の多くは,弾圧を逃れるため,越北せざるをえなくなったいた),この両者の力関係は,<委員長:金日成,副委員長:朴憲永>という形で,かつての序列の転換を帰結させた。かくして,金日成にとっては,一旦の回り道をしながら,実質上,北労党の優位による南労党との合同という形で,党における最高位の地位を獲得することに「成功」したということになる。

(ii)朝鮮戦争(50年6月勃発.53年7月27日に停戦協定調印)以降

 停戦協定が締結される以前より,朝鮮戦争の総括問題をめぐって,朝鮮労働党内における金日成派と朴憲永派その他との間での攻防が生じるようになる。すでに50年12月の段階で,「国連軍」=米軍の朝鮮上陸・侵攻による後退をめぐって,“延安派”の中心的人物が解任されている。
 そして停戦協定調印後すぐ,金日成派による粛正が本格化する。調印のわずか3日後の53年7月30日には,南労党系活動家が「朝鮮民主主義人民共和国政府転覆陰謀と反国家的テロル及び宣伝煽動に関する件」で起訴され,「米帝のスパイ」として,12名中10名が死刑判決を受ける。朴憲永もまた,この事件に関与したとして検挙され,55年12月になって起訴され,「米帝のスパイ」として死刑判決を受け,処刑される。
 こうした南労党系メンバーの大量粛正後,55年12月に開催された中央委員会は,その後本格化する歴史の偽造−金日成の“神格化”のため体系的なものとしてなされていく−の第1歩の場となった。すなわち,46年8月の北朝鮮労働党結成大会とその次の大会が朝鮮労働党の第1回大会・第2回大会として扱われ,北朝鮮労働党と南朝鮮労働党の合同大会は党史から消し去られ,56年に開催される労働党大会が“第3回党大会”ということにされたのである。
 ここに,今日まで続く金日成支配体制の原型が形づくられることとなった。

(iii)フルシチョフのスターリン批判

 しかし金日成体制は,まだ盤石のものではなかった。スターリンの死亡(53年),ソ共20回大会(56年2月)におけるフルシチョフのスターリン批判は,共和国における金日成の位置を動揺させるものとなった。労働党内において金日成への批判が噴出したのである。56年4月の朝鮮労働党“第3回”大会(合同大会以来2回目の大会である)以降,金日成派と反金日成派−崔昌益(チェ・チャンイク)ら“延安派”・朴昌玉(パク・チャンオク)ら“ソ連派”・南労党系の残存メンバーなど−の攻防が激しく展開されることになるが,この攻防は金日成派による制圧・反金日成派の排除,多数の除名・処刑という形で決着づけられることとなった。
 この攻防を通して,金日成ら旧パルチザン・グループは,旧パルチザン・グループ系列以外の“派閥”を全て解体し,自派による権力の独占を成し遂げるに至った。かつてソ共におけるスターリンがそうであったように,血の粛正を通して“一枚岩の党”の建設を完成させたのだ。

(iv)中ソ対立をめぐって

 60年代に入って,中ソ対立が顕在化しはじめ,ソ連・東欧諸共産党による中国共産党批判が公然となされるようになる。この中国共産党批判に,朝鮮労働党は与することなく,「中国を孤立させることは,事実上社会主義陣営を分裂させることを意味する。単刀直入にいって,社会主義陣営の人口の3分の2を占める中国を除外して,いかなる社会主義陣営について語ることができようか」(「社会主義陣営を擁護しよう」−『労働新聞』63年10月28日.)という立場を取った。こうした朝鮮労働党に対して,ソ連は,「経済援助協定」の履行のストップ,技術者の総引き上げなどをもって応える。このように朝ソ関係は急速に冷却化していくことになる。
 朝鮮労働党が,フルシチョフ・ソ連共産党を“現代修正主義者”として批判するのは,この時期である。すなわち,「現代修正主義は,帝国主義に露骨に服務しつつ,マルクス・レーニン主義革命精神を去勢し,人民大衆の闘争意識を麻痺させ,帝国主義の侵略策動を各方面で庇護」(『勤労者』62年12月下巻)といったトーンでの批判が,公然と,繰り返しなされるようになる。しかし,こうした対立関係は,決して,中ソ対立のように長く続いたわけではない。64年10月にフルシチョフが解任されるやいなや,朝ソ関係は改善へと向かったのである。
 一方,中国共産党については,フルシチョフ解任によっても,ソ連共産党との対立関係は収束せず,文化大革命(66年〜)へと進んでいくわけだが,その中で,紅衛兵らが,金日成−朝鮮労働党を「修正主義者」「日和見主義者」等,として批判するようになり,今度は,朝鮮労働党と中国共産党との間に亀裂が生じるようになる。
 このようなソ連・中国との関係の推移の中で,朝鮮労働党は,「政治における自主性」「思想における主体性」を強調するようになるのであるが,それ以降,朝鮮労働党がどのような方向に進んでいくことになるのか,については次に見ていくことにする。


II.金日成体制の確立に至る歴史的経緯(2)

(i)67年〜70年,「唯一思想体系」の確立

 67年に入って,金日成は,朝鮮労働党における自己の独裁的地位を,固定的な制度として確立する事業に着手する。同年5月の中央委員会において,金日成の“主体(チュチェ)思想”を,朝鮮労働党における「唯一思想体系」とすることが提案されるのである。当時,この会議の内容は一切公開されなかったのだが,後に,部分的にのみ明らかにされるようになった。『朝鮮全史』第31巻(82年発行)では,「党内に表れた修正主義およびブルジョア分子を暴露粉砕し,党の唯一思想体系を確立するための対策を樹立」,また『金日成主席革命活動史』(83年発行)において,「唯一思想体系にそむくブルジョア分子,修正主義分子の反党・反革命的罪悪が余すところなく暴露」,といった記述が見られる。
 こうした記述は,金日成個人独裁の制度化が,かならずしもスムーズには進まなかったということを示すものであるが,実際にこの時期,旧パルチザン・グループ,及びその指導系列下にあり,金日成の指示を受けて朝鮮国内での地下活動を担った甲山(カプサン)グループの古参中央委員メンバーが多数,“反党分子”として排除・粛正されている。

 *この粛正を経た後,朝鮮労働党において「修正主義」は次のような定義づけが行われるようになる。
「修正主義は,その反動的本質からして,党の唯一思想体系の確立に反対することを主とする反党的および反革命的な思想潮流である。それはまず修正主義が,労働者階級の革命闘争において,首領の役割を拒否するがためである。歴史的経験が示してくれているように,国際共産主義運動と労働運動のなかにもぐりこんだ歴代の修正主義者たちは,例外なく,あらゆる陰謀をたくらんで党と労働者階級の首領の役割を否認し,その高い権威と威信を中傷誹謗するためにあらゆる攻撃の矢を向けてきたし,また向けている。これは修正主義の反動的本質の中でも最も基本的なものである。」(『革命の偉大な首領金日成同志が創始なさった党の唯一思想体系を樹立することに対する思想とその輝かしい具現』 1973年)
 ここで言う「歴史的経験」が,フルシチョフのスターリン批判を念頭においていることは疑問の余地はないだろう。ソ連共産党の“指導者”スターリンを批判し,スターリンの「権威と威信を中傷誹謗」したフルシチョフと,朝鮮労働党において「唯一思想体系の確立に反対する」動きとを同列におき,“指導者=首領の役割を否認”するという共通性を見い出し,それを,修正主義の「最も基本的な」「反動的本質」としているのである。しかし,こうした“修正主義”批判こそ,何の積極的意義も持たないばかりか,“首領”による指導の貫徹を第一義の絶対的なものとする−そうした“指導”は労働者・勤労大衆にとっては支配・抑圧とならざるをえない−反動的な主張であるといわなければならない。

 また,この時期の特徴として,“首領”なる言葉が頻繁に用いられるようになったことがあるが,これはまさしく,金日成個人独裁の制度化に照応して生まれた,特殊な政治概念・政治用語だといえるだろう(“首領”論についてはIII.で述べる)。
 さらにこの時期,「唯一思想体系」を徹底・貫徹していく手段として,「革命伝統教育」なるものが重視されるようになる。全国の「党史研究室」は,ことごとく「金日成同志革命研究室」へと名称変更・改編され,さらに全国各地方に「金日成同志革命史跡館」,また全国の各機関・企業所などに「金日成同志革命思想研究室」が設置され,「革命伝統教育」の拠点とされた。これ以降,学校教育や諸出版物,映画等々をも通して,金日成のみならず,彼の一族を「革命家の血統」として崇拝させるような「教育」が,全党,及び全国家規模での政策として,体系的になされるようになったのである。
 これらを踏まえて,70年11月に開催された“第5回”党大会の場において,“主体思想”が「党の唯一指導思想」として公式に宣言されることになった。かくして,朝鮮労働党にとっての60年代は,旧パルチザン・グループ系列による独裁から,金日成の個人独裁への“成長・発展”を遂げる10年となったのである。

(ii)金正日(キム・ジョンイル)後継体制−「唯一指導体制」の確立

 自己の支配を制度化した金日成は,続いて後継体制の構築へと着手する。二重・三重に,自己の支配体制を固めていこうというのである。
 周知のとおり,彼の“後継者”として選ばれたのは,彼の息子の金正日である。金正日は,64年に大学を卒業するとすぐ,党の中央委員会に選出され,組織指導部,及び宣伝扇動部の一員として,その後の「唯一思想体系」の確立,「革命伝統教育」すなわち金日成の神格化の事業の先頭に立っていく。
 この金正日の地位を,朝鮮労働党において確固としたものとする大きな契機となったのが,“三大革命小組運動”である。73年2月,三大革命小組運動(*三大革命=思想革命・技術革命・文化革命)の推進が党の政治局委員会(政治局委員は中央委員の中から選出される)で決定され,これ以降,金正日をその実質的な指導者とする三大革命小組が,全国各地の工場・企業・協同農場に派遣されるようになる。これを通して,それ以前の古い指導構造・指導系列は,金正日を指導者とする若い世代(金日成に付き従うことで生き残った旧パルチザン・グループの息子たちが,その主力となっている)による新しい指導構造・指導系列へと取って代わられいくこととなった。
 かかる運動展開の中で,74年,金正日によって,「全社会の金日成主義化」なるスローガンが打ち出されるようになり,さらに同じ年,「党の唯一思想体系確立の10大原則」が提起される。詳しくは後に紹介・検討するが,とりあえずここでは,この「10大原則」の第10番目の原則の説明の中で,次のような記述がなされている点について見ておくことにする。その記述とは,

「首領の領導のもとに党中央の唯一指導体制をしっかりとたてなければならない」
「党中央の唯一的指導体制と反する些少な現象と要素に対しても黙過せず,非妥協に闘争する」
「党中央の権威をあらゆる方法で保障し,党中央を身をもって死守しなければならない」

というものである。ここで頻繁に出てくる「党中央」とは,74年2月以降,金正日を指す言葉として用いられるようになったものである。したがって,この「10大原則」は,“首領”金日成の「唯一思想体系」の下での,“党中央”金正日による「党の唯一指導体制」を定式化するという位置を有するものに他ならない。このようにして,朝鮮労働党における金正日の地位が築き上げられていったのである。
 このように70年代を通して,金日成の後継者としての金正日の地位が整備・強化され,この上に,80年に開催された朝鮮労働党“第6回”大会は,金日成の後継としての金正日の指導体制の確立を対外的に宣言する場となった。

 以上,ソ連共産党への「現代修正主義批判」の以前・以降の流れを見てきたわけだが,このように歴史的経緯の中において,金日成−朝鮮労働党の,ソ連共産党に対する“修正主義”批判を見るならば,そこには,自己の権力の維持・強化を第一義的課題として追求してきた金日成の姿をとらえることはできても,決して,スターリン主義を克服していこうとする志向を見い出すことはできない。
 また,ソ連共産党,中国共産党との関係で“自主性”を前面に押し出すようになったことについても,その内実は,ソ連共産党や中国共産党を後ろ盾とすることなく,したがってまたその影響・干渉を受けることなく,自らの力で,共和国における労働者大衆への支配・抑圧の体制を維持・再生産していくという方向の表明を意味するものとしてあったのである。


III.朝鮮労働党の<独自性>とわれわれの態度

 朝鮮労働党への態度を定めていくにあたって,考慮すべき,朝鮮労働党の独自性・その特徴は,決して,ソ連共産党・スターリン主義の欠陥を克服していこうとする志向を有する党としてあったというところにあるのではない(実際には,歴史的にも今日的にも,そうした志向を見て取ることはできない)。そうではなく,スターリン派諸共産党が,マルクス・レーニン主義による粉飾−官僚支配の正統化のイデオロギーとしてマルクス・レーニン主義を換骨奪胎してその権威を利用してきたのに対して,マルクス・レーニン主義的な粉飾を事実上放棄した「主体思想」によって,個人崇拝と独裁支配を強度に推し進めてきたこと,この点にわれわれは,朝鮮労働党の独自的性格を見なければならない。
 特にここでは,「主体思想」の中でも際立った特徴を有している“首領”論と,その定式化としての「党の唯一思想体系確立の十大原則」を取り上げ,紹介するとともに,検討を加えていきたい。

(i)“首領”論をめぐって

 「チュチェの革命観を確立するために」(金正日.『月刊 朝鮮資料』1989年・2月号所収.下線は引用者) の中で,金正日は“首領(=領袖・・・日本語に翻訳する際には,領袖という訳語があてられている)観”について次のように述べている。

「革命の主体は領袖,党,大衆の統一体なのですから,革命観を確立するためには,領袖観,組織観,大衆観から正しくうち立てなくてはなりません」
「チュチェの革命観を打ち立てるためには,なによりもまず革命的領袖観を確立しなければならない」
「革命的領袖観の確立においては,領袖が社会的政治的集団の生命の中心であることを認識することが大切です」
「指揮の重要さについては,どの社会,どの階級においても公認されていますが,労働者階級のように,社会的政治的集団の生命の中心として自己の領袖をおしだした階級はありません
「領袖を中心に一つに結合することなしには,人民大衆は自主的な社会的政治的集団としての生命力をもつことができません。われわれは,領袖は社会的政治的集団の生命の中心であり,領袖と組織的,思想的に,同志的に結合してのみ,とわに生きる社会的政治的生命をもつことができるということを信念として体得すべきです」
「抗日革命闘士がかつて領袖にあくまで忠実でありえたのは,…領袖が朝鮮民族の生命の中心であり,自分の運命が領袖と血縁的につながっているということを深く体験したからです」
「領袖の指導のもとに,領袖の思想と意志にしたがって革命闘争をおこなうことは,とりもなおさず領袖から与えられた社会的政治的生命をもって革命闘争をおこなうことを意味します。われわれが領袖の思想と意志に忠実であるほど,領袖とのつながりはいっそう密接になり,より貴い社会的政治的生命をもつようになり,個人主義的な生き方をする人には想像できない大きな生きがいを感じることができるのです。領袖の思想と意志どおりに思考し行動し,領袖と生死,苦楽ををともにすることに生きがいを求める人であってこそ,革命的領袖観の確立した革命家といえます」
「組織を離れては,だれであれ領袖と血縁的に結びつくことができず,不滅の社会的政治的生命をもつことができません」
「人民大衆は党組織を母体としてこそ,一つの自主的な社会的政治的生命体として結びつき,自己の運命の真の主人となることができます」
「われわれが領袖を父なる領袖と呼び,党を母なる党というのも,領袖を中心とする党組織が社会的政治的生命の母体であるからです」

 引用の中で,金正日は,「労働者階級のように,社会的政治的集団の生命の中心として自己の領袖をおしだした階級はありません」として,“領袖=首領”論が,何か労働者階級にとって一般的な理論であるかのように語っているが,もちろんそんな事実はどこにもない。そうではなく,金日成・金正日−朝鮮労働党のように「社会的政治的集団の生命の中心として自己の領袖をおしだした」ものはいない,というのが事実である。
 また,「革命の主体は領袖,党,大衆の統一体」とした上で「チュチェの革命観を打ち立てるためには,なによりもまず革命的領袖観を確立しなければならない」としていることは,党よりも“領袖=首領”を上位においているということを示している。それにとどまらず「領袖から与えられた社会的政治的生命」という表現は,“首領=領袖”たる金日成が神格化されていることを意味するもの以外の何ものでもない。
 さらに,「領袖の思想と意志どおりに思考し行動し,・・・・に生きがいを求める人であってこそ,革命的領袖観の確立した革命家といえます」という言葉は,まさしく,「主体思想」が何であるかを物語るものであるといえる。どんなに「革命の主人は人民大衆である」として,大衆の主体性・自主性を強調したとしても,それが実際に意味しているものは,命令されるのを待つことなく,「領袖」の指導(指示)を自ら積極的に受け入れ,実践せよ,といっているにすぎない。そこでは,労働者大衆の自主的な判断にもとずく,自主的な活動は,全く想定されていないのである。
 このような“首領=領袖”観,「チュチェの革命観」は,単に政治主張として述べられているものとしてあるわけではなく,すでに74年以来,「党の唯一思想体系確立の十大原則」として定式化されたものとなっている。

(ii)「党の唯一思想体系確立の10大原則」

 「党の唯一思想体系確立の10大原則」は,前文と10の大原則,大原則の各々に付加された3〜10の小項目,及び結語,という構成になっている。ここでは,10大原則のうち特徴的な8つの原則のみ紹介する。なお,この「10大原則」は,朝鮮労働党や関係諸機関によっては,日本語に翻訳された形での出版・流通はなされていない。ここでの紹介にあたっては,『東アジアの国家と社会3 北朝鮮』(東京大学出版会),及び『「甘やかされた」朝鮮』(三一書房)での各著者の翻訳を参照した。

1.偉大な首領金日成同志の革命思想で全社会を一色化するために一身を捧げて闘争しなければならない
2.偉大な首領金日成同志を忠誠をもって高く仰ぎ奉らなければならない
3.偉大な首領金日成同志の権威を絶対化しなければならない
4.偉大な首領金日成同志の革命思想を信念とし,首領の教示を信条化しなければならない
5.偉大な首領金日成同志の教示執行において無条件性の原則を守らなければならない
(6・7は省略)
8.偉大な首領金日成同志が抱かせて下さった政治的生命を貴重に守り,首領の大きな政治的信任と配慮に高い政治的自覚と技術で忠誠をもって報いなければならない
9.偉大な首領金日成同志の唯一的領導のもとに全党,全国,全軍が一体になって動く強い組織規律を樹立しなければならない
10.偉大な首領金日成同志が開拓なさった革命偉業を代を継いで最後まで継承し,完成しなければならない

 これらの「原則」が,マルクス主義とは無縁であることは言うまでもない。確かに,こうした“首領=領袖”観を,マルクス・レーニンの言葉・思想によって粉飾するのは不可能であろう。そのことの指摘にとどまらず,われわれは,この「10大原則」が,労働者階級の解放にとって,無縁であるばかりか,全く相容れない「原則」であると言わなければならない。
 というのも,この「10大原則」はどのように読んでも,金日成個人への崇拝と服従を強制する原則以外の何ものでもないからである。しかし,労働者の解放にとって必要なものは,決して,絶対化された指導者の指導−それは指示・命令とよぶべきものだが−を無条件に受け入れることではない。そうではなく,労働者階級の解放にとっては,労働者自身の自主的な判断能力,相互の点検・批判能力の成長が不可欠なのであり,それなくして,商品−資本の運動によって形成される労働の在り方,そこにおける人々の結合関係を越えて,新しい社会を建設していく組織性と規律を育んでいくことはできない。このことは,党・国家官僚による指令,国家権力による統制をもって,商品−資本の運動と対峙しようとしてきたスターリン派の敗北,商品−資本の力への屈服が,何よりも雄弁に物語っている。
 「10大原則」のように,固定化された指導−被指導の関係,それをどれほど絶対的なものとして徹底しようとも,それは,商品−資本の運動を越えるような人々の結合関係を創り出していく方向(その発展は,強制機関としての国家の存在意義,そしてまた共産主義者の組織としての党の存在意義を消失させていく)に向かわず,むしろ逆に,指導関係の不断の支配関係への転化,党・国家の,労働者大衆に対する支配・抑圧機関としての強大化を進めるものとならざるをえない。共和国の現実は,実際に,朝鮮労働党が後者の方向に進んできたことを示している。

(iii)われわれの取るべき態度

 われわれも含め,ブント系の多くの党派・グループは,朝鮮労働党の路線を,社会主義建設途上での歪み・誤りとしてきたわけだが,それは,共和国社会の現実を踏まえたものではなく,多分に,文革期の中国共産党から類推しての,主観的な思い入れ以上のものではなかったといえよう。ときに「労働党・共和国版の文革」というふうな言われ方をする3大革命小組運動について言えば,中国における文革が結局,毛沢東崇拝に依拠し,それを強め,毛沢東による奪権闘争として収束した限界,その悪しき側面を,むしろそれとして肯定的に取り入れ,金日成の神格化と金正日による“唯一指導体制”の構築を進めたものと評価するのが妥当であろう。
 共和国の現実にそれとして目を向けるならば,そこには,生産手段の国家所有が党・国家官僚による支配・収奪体制のテコへと転化した,というスターリン派共通の基盤の上に,金日成の神格化・個人独裁・一族世襲支配へと行き着いている姿が浮き上がってこざるをえない。これが“主体式社会主義”の内実に他ならないのである。
 今日,共和国の社会においては,金日成による権力掌握・支配特権の維持・強化が第一義のものとして追求され,その下で,労働者・勤労大衆は隷属を強制されている。ここにおいて「主体思想」は,労働者大衆への支配のイデオロギー以外の何ものでもないのである。 したがって,朝鮮北部において,労働者大衆の解放事業を前に進めていくためには,金日成支配体制の打倒は避けられない課題となっている,といわなければならない。われわれは,金日成−朝鮮労働党とではなく,いまだ政治的勢力として登場することを徹底的に抑圧されている共和国の労働者大衆と共に進んでいくことを,はっきりと自己の態度として確認しなければならない。


IV.「社会主義」国での流動への朝鮮労働党の態度

 ここで,朝鮮労働党が,この間「社会主義諸国」で生じた流動に対して,どのような態度をとってきているのかについて,見ておくこととする。
 まず中国共産党・人民解放軍による,89年の6・4弾圧については,90年3月に江沢民(中国共産党総書記)が訪朝した際の歓迎演説で,金日成は次のように語っている。

 「昨年,中国の党と政府と人民が内外の反動勢力の策謀によって起こった反革命暴乱を適時に平定したことは,何によっても栄えある革命伝統を継承した中国人民の革命精神を抹殺することができず,中国大陸に深く根差した社会主義を崩せないことを示しました」

 このように朝鮮労働党は,中国共産党同様,中国の人民大衆の運動を“反革命暴乱”と規定し,その上で,軍事力をもってこれを弾圧したことを“適時に平定”として支持を表明しているのである。
 また,ポーランドにおける「連帯」政権の登場という事態をめぐっては,「ポーランドでは帝国主義の思想文化的浸透やそれに合流した反社会主義勢力によって政権が交替した」(「南朝鮮・ポーランドの外交関係樹立は不当」-『朝鮮資料』90年1月号所収)という評価を与えている。
 これらから,朝鮮労働党が,いわゆる「社会主義諸国」において展開された大衆運動の中に,党官僚・国家官僚の支配に対する人民大衆の自主的な闘いを見てとることができず,帝国主義者の策動・攻撃の結果としてしか把握していないことが,わかるであろう。
 また,東欧諸国における複数政党制の導入に対応して,次のような主張をのべている。

 「社会主義社会において人民大衆は,運命をともにする一つの社会政治的集団を形成しており,社会主義・共産主義を志向するかれらの根本的要求と利害関係は一致している」
 「資本主義社会では,人びとの要求と利害関係が対立しているために社会の思想的統一については考えることはできないし,またそのことが重要な問題として提起されもしない」
 「社会主義社会と資本主義社会のこの根本的な差異を見ることができないで,社会主義社会で思想の自由化を許容するならば,人民大衆の思想政治的統一を破壊して社会主義社会自体を瓦解させる重大な結果を招来することになる
(「帝国主義者の策動を退け,社会主義の道を力強く進もう」−『朝鮮資料』90年2月号所収.下線は引用者)

 引用の後半の結論部分は全く転倒した論となっている。朝鮮労働党が言うように,共和国社会において真に人民大衆の利害関係が一致しているならば,なぜ「思想の自由化を許容」することが「社会自体を瓦解させる結果」をもたらすことにつながっていくのだろうか。そのような結果をもたらすとすれば,それは,顕在化していないにせよ今日の共和国社会に深い亀裂が生じており,和解できない対立が存在していることの証左に他ならない。  確かに,東欧諸国における複数政党制の導入それ自体は,形式民主主義−ブルジョア議会制の採用であり,これに批判的検討を加えて行く作業は必要であろう。そして真に労働者階級の利害を代表する単一の革命党建設の方向を堅持すべきである。しかしそれは,決して国家−官僚機構の強制力をもってしての思想統制や法律上の規定による押し付けによって成しうるものではない。それは,広範な労働者大衆の自覚,自主的判断の成長に依拠してのみ,そうした基盤の上にのみ成立するものとしてあることは,ソ連・東欧諸共産党の敗北からも教訓として導き出しうることである。
 朝鮮労働党は,このように問題を立てることができず,「社会主義社会」では「思想の自由化を許容」することはできないと総括している。朝鮮労働党が,このような位置に立つ根拠は,単に理論的誤り,情勢把握の間違い等としてあるわけではなく,今日の共和国社会における労働党の位置−すなわち,労働者大衆への支配の機関として君臨し,この支配特権による利害を維持・貫徹する党としての位置−に規定されたものとしてあるといえよう。


V.今日的情勢とわれわれの進むべき方向

(i) ソ連・東欧における「社会主義」が次々と崩壊し,また中国では「6・4事件」として体制危機が現出した中にあって,共和国における金日成支配体制は,どうなっていくのか,何ゆえ今なお存続しえているのだろうか。
 少なくとも言えることは,一つは,幼少のころより,体系的な「革命伝統教育」が施され,金日成への崇拝・忠誠が教え込まれていることである。加えて,新聞その他の大衆出版物・テレビ・ラジオなどのマス・メディアをはじめとして徹底した情報管理・統制がなされている。またその一環として,国外だけではなく,国内においても住民の交通・移動・旅行が制限されている。さらに,労働党指導下以外においては,労働者・勤労大衆は,一切の政治的自由の権利,またそれを行使する手段を剥奪されている現実がある。そして,それを貫徹するための,治安警察その他による監視と厳罰体制が存在している。
 しかし,こうした管理・統制の徹底は,決して体制の永続を保障するものとはなりえない。むしろその徹底の度合いは,この体制の崩壊の劇的さと,その後の混乱の深刻さを予想させるものである。長期の独裁支配の下,苛酷な抑圧を強いられてきた労働者大衆は,金日成支配の打倒後も多大な困難を強いられることになるだろう。

(ii) 現在,朝鮮労働党−共和国政府は,苦しい経済状態−とりわけ90年に入ってのソ連(ロシア)との貿易のバーター取引から,国際通貨(ドル)決済への変更がこれを加速させ,深刻化させている−の改善のため,部分的な市場開放の道を模索し始めているようだが,決してそれは成功しないだろう。資本主義との交通関係の増大は,旧来の金日成支配の存立条件を脅かし,金日成体制の急速な崩壊を準備するものとならざるをえないからである。朝鮮労働党は,身動きとれない状況へと陥っているのである。この打開のためには,より苛酷な労働者支配・抑圧しかないが,しかしそれも食糧供給が相当に逼迫するという極限状態に達しつつある。したがって,いずれにせよ,金日成支配体制の崩壊は不可避である。
 こうした中にあって,帝国主義・韓国支配階級は,南北統一の展望の具体的な検討に入りつつあり,そこからする現実的な判断として,金日成支配の急速な崩壊を歓迎しなくなっている。急激な流動が,現在の東アジアにおける国際秩序に混乱をもたらしかねないためである。是が非でも核兵器の開発については封じ込めながら,当面は,党・国家官僚の支配の維持(労働者大衆への抑圧)に手を貸し,統制下においていく方向を選択しつつある。今後さらに,日朝国交交渉などの場をも含めて,そのための政治的駆け引きが活発になされていくようになるだろう。
 一方,共和国の流動に対して,日本人プロレタリアートの側は対応不能にならざるをえない現状にある。共和国の労働者大衆の現実の姿に目を向けてこれなかったがためである。われわれもまた,この点については責任を負っている(現綱領における規定の欠陥など−*注:1993年当時)。早急に,共和国の労働者大衆の困難を共有し,その立ち上がりと結びついていく方向へと日本人プロレタリアートの意識と運動とを向けていくようにしていかなければならない。

(iii) 現在,共和国社会−それを規定している朝鮮労働党の路線をめぐって,左翼運動におけるいわば「定説」のようなものは不在であり,この中にあって,多くの活動家は態度保留の位置に身を置いている。議論・意見交換を活性化させ,この状況を転換していくようにしなければならない。
 そのためには,朝鮮労働党が,“反帝自主”のスローガン,“社会主義”の看板を掲げていることの意味合いをはっきりと押さえることが不可欠である。その内実はすでに見て来たとおり,実質上,外部勢力に干渉されず,自己の支配体制を維持・貫徹していくことの表明であり,国有をテコとした官僚支配のイデオロギーへと変質させられた“社会主義”の堅持でしかない。したがって,反帝力学主義の政治によって,金日成支配体制を支持することがあってはならない。それはすなわち,共和国における労働者大衆への抑圧,これへの加担を意味するものとならざるをえない。
 われわれの判断基準は,“反帝”・“社会主義”を掲げているか否かではなく,労働者大衆の解放,そのための条件を拡大する方向に進んでいるか否か,である。労働者大衆の現実の生活にしっかりと目を向け,労働者大衆の解放の方向をこそ支持していくようにしなければならない。

(iv) ブルジョアジーによる反共・反共和国・排外主義宣伝との関係での未整理もまた,金日成体制への批判を困難にさせている要因の一つとなっている。最後にこの点について,提起しておきたい。
 確かに,共和国における金日成支配体制を批判することが,共和国の社会とそこで生活する人民大衆への嫌悪を煽るようなものになってしまうならば,それは,ブルジョアジーの反共・反共和国キャンペーンに与していくことになってしまうであろう。したがって,そうした批判に陥っていないかどうか,常に意識的でなければならない。しかもそれは,批判する側が主観的にどういうつもりでいるのかではなく,批判を受け取る側がどのように受け取めるのか,という点において点検することが必要である。
 さらにそれ以上に,共和国における連帯の相手と,連帯運動の方向を見定めて行くようにすること,そこからする共和国社会への分析・評価として提出していくようにすることが必要であろう。といっても現在,共和国の中に,われわれが依拠・寄り掛かりうるような政治勢力がそれとして存在しているわけではない。ここにおける難しさがあるが,しかしここで立ち止まってしまうならば(従来,立ち止まってきたのだが),それは,日本人プロレタリアートの国際連帯運動の地平・水準が,実際上,寄り掛かりと相互利用のレベルを越えられないでいることを示すものに他ならない。
 労働者大衆の現実の姿に目をむけない観念的“連帯”,あるいは贖罪としての“連帯”ではなく,共に解放に向かい,新しい社会−国境・民族を越えた新しい結合関係を作り出していくものとして,連帯運動を力強く創造していかなければならない。

●主な参照文献
 『月刊朝鮮資料』(朝鮮問題研究所/1988年9月号〜)
 『現代朝鮮史』(朝鮮・平壌外国文出版社)
 『北朝鮮現代史入門』(高峻石−コ・ジュンソク−著・批評社)
 『朝鮮革命運動史第2巻コミンテルンと朝鮮共産党』(高峻石著・社会評論社)
 『朝鮮革命運動史第3巻統一への胎動と朝鮮革命』(高峻石著・社会評論社)
 『東アジアの国家と社会3北朝鮮』(鐸木昌之著・東京大学出版会)
 『「甘やかされた」朝鮮』(和田洋一・林誠宏−リン・ソングワン−共著・三一書房)
 『パルチザン挽歌』(金賛汀−キム・チャンジョン−著・御茶の水書房)
 『凍土の共和国』(金元祚−キム・ウォンジョ−著・亜紀書房)
 『ソウルと平壌』(萩原遼著・大月書房)




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